04.幼馴染 Side:フェリシア
馬車で送っていただいて、エントランスで公爵様を見送った。
部屋に戻ろうかと思ったところで、抱えていた帽子から何かがからんと転がり落ちた。
音の元を辿ると、床に万年筆が落ちている。
拾い上げてまじまじと眺める。
紺色のキラキラと艶のある素材で、「M」の刻印が入っている。
これは……公爵様の?
思い返せば、彼のジャケットの胸ポケットに似たようなものが入っていた気がする。何かの拍子に、私が馬車の椅子に置いていた帽子の中に落ちてしまったのだろう。
今ならまだ、間に合うかしら。
部屋に向かいかけていた足を止めて、踵を返す。
エントランスから外に出て、門に向かって早足で駆けた。
閉じかけた門の隙間から、外に身を乗り出した。ああ、でももう、行ってしまわれたみたい。
次回にお会いするときにお返ししましょうと、門の中に戻ろうとして……
「フェリシア!」
名前を呼ばれて、振り返る。と同時に、肩を掴まれた。
門のすぐ脇に身を潜めるようにしていた男が私に近づいてきていたのだと気づくが、すでに遅い。
その男の声も、目の前に現れた顔も。
忘れたくても忘れられないものだった。
あの日、あのパーティーで。
私を捨てた、婚約者。
いや……元婚約者が、そこにいた。
どうして、ここに。
「ああ、よかった。やっと君とふたりで話ができる」
目の前の男が、嬉しそうに、安心したように目を細めた。
何故、よかったなんて言うのだろう。
まるで何もなかったみたいに笑って、声をかけるのだろう。
やっと、って、もしかして、ずっと。
ずっとそこで、待っていたの?
ぞっと、背筋が寒くなる。
「いつもあの男と一緒だったから、困っていたんだ。でもこうして会えるなんて、やっぱり俺たち運命なんだね」
嫌、来ないで。
そう思うのに、声が出ない。
怖い。
肩を掴んでいる手の力が強くて、痛くて。
それも恐ろしくて、体が動かない。
「フェリシア、あの時は本当にごめん。俺はどうかしていたんだ、まともじゃなかった。全部あの女が悪いんだ、あの女に騙されて、俺は」
どうしてそんなことが言えるんだろう。
簡単に、ごめんだなんて。
それで許されると、本当に思っているのだろうか。
目の前の男が、へらへらと笑っている。
それと反比例するように、肩に触れる指の力がぎりぎりと強くなっていく。
鼓動が早い、呼吸が浅い。
声を上げなければ、助けを呼ばなければ。
そう思うのに、体が言うことを聞かない。
「馬鹿だよな。俺には君しかいないのに。でももう大丈夫、あの女はいなくなった。もう俺は間違えたりしない。だから、俺とやり直そう」
目の前にいる男の声が、まるで知らない言語のように聞こえた。ただただ音声が、耳を滑っていく。
こんな時、毅然とした態度でいられたらどんなにいいか、と思う。
どの口が言うのだと、私にはもう新しい婚約者がいるのだと。
はっきりと言って、その手を振り払って。
使用人を呼んでこの男を閉め出せたなら……きっと少しは気が晴れる。
でも実際には、そんなに上手くは行かない。
笑いながらそんなことを言う男が、あまりに得体が知れなくて。
同じ人間だなんて、話が通じるだなんて思えなくて。
肩に食い込む指の力が、恐ろしくて。
もし私が、この男の意に沿わないことをしたら……何をされるか。
想像がつかない。
息すら上手く吸えない中で、それでも、何とか掠れた声を絞り出す。
「わ、たしには、公爵様が、」
「あんな男なんて、」
「おい、手を離せ」
突如、元婚約者の後ろに現れた人影が、その首根っこを掴んで私から引き剥がした。
人影は私よりも元婚約者よりもずっと背が高くて、がっちりとしていて……そして、夕焼けに燃えるような赤色の髪に、目が止まる。
赤色の髪の持ち主――エクス王子殿下が、私と元婚約者の間に立ち塞がった。
背中が広すぎて、目の前から婚約者の姿が消える。
そのことに、まずはほっとした。
元婚約者が視界にいるだけで体が強張って、呼吸すらできなくなって。
そんな自分が情けなくて、仕方がない。
「何だ、お前」
「ん? 俺のことを知らないなんてお前、モグリだな」
「っ!? エクス、殿下……?」
「おお、よかった。不敬罪にならずに済んだな」
王子殿下が、口を大きく開けて快活に笑う。
人のよさそうな笑顔は、しかし――一瞬で鋭い刃のようなものに変わった。
「だが、嫌がる女性に無理矢理言い寄るのもまた罪だ」
「む、無理矢理だなんて。俺はフェリシアの婚約者で」
「ふむ?」
王子殿下が自分の顎に手を当てる。
そして、背後の私を振り返った。
真っ赤な瞳と、ばちりと視線が合う。
「フェリシア。こう言っているが」
「ち、違います、その人は、元、婚約者で、」
「ああ」
私が答えると、王子殿下がぽんと手を打った。
「これが件の間抜け男か」
「なっ」
「留学から戻ったばかりの俺でも知っている。婚約者を蔑ろにして不義理を働いた挙句、公衆の面前でおつむの軽さを詳らかにされた、ある意味で哀れな男だと」
王子殿下が大きな口を開けて、からからと笑う。
あまりに豪快に笑い飛ばすものだから、元婚約者も咄嗟に何も言い返せなかったようだ。
「その上、夕闇に紛れて元婚約者を襲おうとするとはな。同じ男として恥ずかしいぞ。別れて正解だ、フェリシア」
私を振り返った彼にそう言われて、少しだけ胸のすくような思いがした。
あの時はショックが大きくて、とてもそんな気分にはなれなかったが――こんなにもあっさり「正解だ」なんて言われると、不思議と、もしかしたらそうだったのかしら、と思えてくる。
だって今、この人と離れて私は――幸せだもの。
「違う、俺は騙されて、」
「顔も家名も実績もパッとしないものだから、悪い話ばかり有名になるのだ。きちんと励んでいればこうはならなかったものを……努力と実力不足を他人のせいにしているようでは成長しない」
王子殿下が元婚約者に歩み寄って、その背中を勢いよく叩く。
同じ男であるはずなのに、王子殿下の身体は元婚約者よりも二回りほど大きくて――先ほどまであんなに怖かった元婚約者がすっかり縮こまって、とても弱々しい存在に見えてくる。
威圧感と言うのだろうか、明るく朗らかなのに、凄みのようなものがある人だ。
「フェリシアは俺の友人だ」
肩を組むようにして、王子殿下が元婚約者に顔を近づける。
俯く元婚約者の顔を至近距離でしっかりと覗き込みながら、笑顔で言った。
「これ以上彼女につきまとうなら……俺が相手になるぞ」
「っ……失礼、します、!」
王子殿下が肩を解放した途端に、元婚約者は夕闇の中に走り去っていった。
その背中を見て、王子殿下がため息をつく。
「やれやれ。噂通りの男だな」
「お、王子殿下!」
こちらを振り向いた王子殿下に、慌てて頭を下げる。
相手側に非があることとはいえ、家同士の問題にまさか王子殿下を巻き込んでしまうとは。
本来であれば、お耳に入れるのも恥ずかしいことだというのに。
大したことはしていないからと帰ろうとする彼に何とか頼み込んで、サロンにお通ししてお茶をお出しした。
向かいに座る王子殿下に、改めて頭を下げる。
「助けていただき、本当にありがとうございました!」
「いや。紳士として、騎士として当然のことをしたまでだ」
王子殿下は、そう言ってまた白い歯を見せて笑った。
ほっと安心したところで、新たな疑問が脳裏に浮かぶ。
少し考えてみても答えが分からず、私はそのまま王子殿下に問いかけた。
「ですが、王子殿下は何故ここに……?」
「ああ。君にこれを見せたくてな」
王子殿下が、ジャケットの内ポケットから何かを取り出して、テーブルに載せた。本、のように見えた。
手に取って、表紙を確認する。
そこで小さく息を呑んだ。
私はこの絵本を、知っている。
小さな頃に何度も何度も、繰り返し読んだ絵本だ。
本の世界に迷い込んでしまった女の子が、本の中で王子様と幸せになる。そんなストーリー。
今も私の部屋の本棚には、同じものが大切にしまわれている。
「昔よく、一緒に読んだから。これを見て、思い出してくれたらと」
王子殿下が照れくさそうに頬を掻く。
彼が取り出したこの絵本は、表紙も擦り切れていて、ページにも癖がついてしまっている。
子どもの彼も私と同じように、この絵本を何度も繰り返し、読んだのだろうことがうかがえた。
「あと、ぬいぐるみも一緒だったな。フェリシアはいつも白いうさぎのぬいぐるみを持っていた」
懐かしそうに語る彼の言葉に、目を見開く。
確かに子どもの頃、私にはお気に入りのぬいぐるみがあった。白くてふわふわの、うさぎのぬいぐるみだ。
どこに行くにも持って歩いていたと、お母様から言われたことがある。
私がこの絵本を好きだったことも、うさぎのぬいぐるみを大切にしていたことも、私の幼い頃を知る人間しか知らない。
王城で私の名前を呼んだことと言い、彼が話す「幼馴染」というのは、私のことで間違いないのだろう。
だが、それでもやはり、私は――彼のことを、思い出せなかった。
申し訳なく思いながらも、力なく首を横に振った。
「申し訳ございません。絵本やぬいぐるみのことは覚えているのですが――王子殿下と遊んだというのが、どうしても思い出せなくて」
「……そうか」
彼は寂しそうに眉を下げた。
座っていても分かるくらいに体が大きいのに、それが小さく見えるくらいに落ち込んでいる、ように見えた。
しかし、すぐに顔を上げると、ぱっとその表情から寂しさを振り払う。
「まぁ、本当に小さな頃だから、仕方ないな。君が覚えていなくても――俺にとって大事な思い出だというのは変わらない」
王子殿下が本を大切そうにしまい込みながら、爽やかに笑って言い切った。
直接彼のことを知らない私でも、社交界の噂で聞いたことがある。
温厚篤実な人柄で、騎士の指揮官としての能力も、腕も立つお方だと。
接するたびに、噂は本当なのだと実感するような人だった。
「そういえば、門で何をしていたんだ?」
「あの、公爵様の忘れ物を届けようと……」
「忘れ物?」
今度は私が、手に持っていた万年筆をテーブルに置いた。
王子殿下はテーブルの上と私の顔を見比べて、そして――万年筆を手に取り、にこりと笑った。
「今度城で会う予定がある。俺から返しておこう」
〇 〇 〇
ベッドに向かう途中、本棚から一冊の絵本を取り出した。
王子殿下が見せてくれたのと、同じ絵本だ。
子どもの頃を思い出す。
人見知りで、あまり友達が多くなくて、特に男の子は苦手だった。
お花で冠を作ったり、絵本を読んだり。
連れ出された草原でのんびり、空を見上げたり。
兄弟がいないのもあって、そういう、一人でできる遊びが好きな子どもだった。
だが絵本が好きだと言うのも、ぬいぐるみや可愛いものが好きなのも……最初の婚約をしてから、隠すようになった。
子どもっぽいと思われたくなかったからだ。
少しでも結婚相手としてふさわしいと思われたくて、貴族の娘としての務めをしっかりと果たしたくて。
結婚したら立派に妻としての勤めを果たせるようにと、社交の術も学んだ。人見知りだなんて言っていられなかった。
きちんとした貴族の女性としての振る舞いを覚えて、この世界を生きられるように。
本当は苦手なことも頑張って、本当は好きなことにも蓋をして。
……そうして積み重ねてきた全てがあの日、否定されてしまったわけだが。
あの日から、よく子どもの頃のことを思い出す。
公爵様が私に「何が好きか」「何がしたいか」を聞いてくれるからだ。
その度に、封じ込めていた子どもの頃の自分と向き合うような――押し込めてきた日々を取り戻すような。そんな気持ちがしていた。
だからそんなに仲の良い友達がいたなら、きっと思い出している、はずなのだが。
やはりどれだけ思い出そうとしてみても、朧げな記憶の断片すらも掴めない。
前に王城で会った日、帰ってから両親にも確認した。だが両親も、あまり覚えていない様子だった。
小さな頃は父について何度か王城に出入りしていたので、その時に知り合っていたのかもしれない、とのことだ。
確かに子どもの頃、王城に行った記憶はあるが――何だか怖いところに感じて、お父様の後ろに隠れていたことしか覚えていなかった。
けれど……エクス王子殿下の様子は、嘘を言っているようには見えない。
あの絵本が好きで仲良くなったなら、きっと大切な友達だっただろうに。
私はどうして、忘れてしまっているのだろう。