孤独な領主の恋わずらい
◆1
私の名前はーーああ、別に名乗るほどのこともあるまい。
ある王国の、若い貴族の地方領主ーーそれが私だ。
物心がついた頃から、私は孤独だった。
父がいなくなり、母も亡くなった。
私が十歳の時だった。
以来、いつも書斎に引き籠っている。
幸い、そうした私の引き籠り生活を非難する者はいない。
老執事も言う。
「若が外出なされるのは、庭園の散歩だけで十分でございます」と。
書斎には、祖父と父の肖像画がかけられている。
それを眺めながら、老執事は私に語って聞かせる。
幼少の頃から聞かされた、耳にタコができた物語だ。
彼によれば、祖父も父も、軍役で戦争に出向いて、行方不明になったという。
「当家のご当主様は代々、とかく幻に惹かれやすいお血筋にございます。
先代様も先々代様も、戦場で散った霊魂に導かれて、冥界へと旅立たれてしまわれました」と。
私は、そんな馬鹿げた話は信じない。
が、これ幸いと引き籠っている。
領地経営は家令と老執事がこなしてくれるため、収入の心配はない。
おかげで、年がら年中、机で趣味の書き物ができる。
詩を書いたり、随筆をしたためたりして日々を過ごしている。
時折、貴族のサロンなどで作品を発表することもあるが、請われてやむなくすることであって、自ら望んでのことはない。
私は自分の世界に浸り切ることを、こよなく愛していた。
そんな変化のない日々が、長らく続いていた。
だがしかし、ある日、ちょっとした異変が起こった。
いつも通り書き物をしていたが、羽根ペンの先が折れてしまった。
仕方なく引き出しを開け、予備のペンを探した。
すると、見慣れない古い木箱が見つかった。
木箱の中には、一本の錆びついた鍵があった。
とりあえず、その鍵を、上着のポケットに忍ばせる。
ふと、窓の外を見ると、霧が立ち込めていた。
わが領地は北方にあり、年中寒気が覆っている。
その日も、暖炉の火は赤々と燃えていた。
そんな季節で、霧が立ち込めることは初めてだった。
しかも、その霧の中に、蜃気楼のごとき人影があった。
私は窓辺に立ち、目を凝らす。
どうやら、若い女性が乳飲み子を抱えて、歩いているようであった。
彼女は白いドレスを身にまとっていた。
透き通るような蒼い瞳でこちらを見遣りながら、銀色の髪を靡かせている。
胸元に抱えた乳飲み子は、白い髪をしており、スヤスヤと眠っている。
私は思い出した。
そういえば、老執事が朝食時に報告していた。
森番の親爺が、娘のお産があるから十日ばかり暇を取る、と。
(ーーとすると、あれは森番の娘か?)
あれこれと思い巡らせているうちに、霧の中に埋もれるように、女性の姿は消え去ってしまった。
私は気になって、霧の立ち込める中を外出した。
薔薇の花壇を越えて庭を渡り切り、森の入口へと足を伸ばす。
大きな杉の木の根元に、森番の親爺が住む丸太小屋がある。
幸い、森番の親爺は薪割りを終えて一息ついたところだったため、声をかけた。
「娘さん、無事にお子さんを産んだようだね。
名付けをしてやろうか」
切り株に腰掛けたまま、森番の親爺は、怪訝そうな顔をした。
「たしかに、儂には娘がおります。
無事、男の子も授かりました。
ですが、こちらのお屋敷に連れて参ったことはございません」
「……」
私は言葉を継ぐことができず、黙りこくってしまった。
では、あの若い女性は、いったい誰だったのだろう?
そして、どうして私の屋敷の庭先に現れたのか?
乳飲み子を抱えたまま、どこへ消え去ってしまったのだろう?
気になる。
◆2
翌日、朝食後ーー。
いつもと異なり、いきなり老執事が切り出してきた。
「もう若も、数えで二十三になられます。
そろそろ身を堅めて、お世継ぎを……」
私はナプキンで口許を拭いながら、苦笑した。
「いきなりだな。どういった風の吹き回しだ」
「森番から聞きました。
幻をご覧になられたのでしょう?
くれぐれも、幻惑なされないよう、お願いします。
あなただけのお身体ではないのです」
「……」
私は良い返答が思いつかなかった。
老執事なりに、私を気遣っての発言だったのだろう。
だが、自分の屋敷の庭を越えた程度で釘を刺されるのは、過保護に過ぎる。
その日も、私は庭を超えて、森へと赴いた。
待ち構えるように、丸太小屋の前に森番が佇んでいた。
そして、私よりも先に、向こうから口を開いてきた。
「昨晩、老執事がいきなりコチラへやって来ましてな。
話をしましたが……あれは気が触れておりますな。
ご当主様のようなお貴族様ともなると、あのような老人にも食い扶持を授けておられるようで、ほとほと感服いたしました。
儂もあやかりたいものです。
ーーただ、お相手を見つけて身を堅めるべきという意見には、儂も賛成ですじゃ。
儂の娘なぞ、どうでしょう?」
いきなりの提案に、私は仰け反った。
「なにを言う。最近、子供を産んだのだろう?」
「それは妹の方。姉が嫁ぎ遅れてましてな。
親としては、不憫で不憫で……。
いえ、側女扱いで良いのです。
お側においてくだされば……」
どのように答えたものか。
当惑していると、丸太小屋の脇ーー森の入口にある大木の陰に、人影があるのが目に入った。
私は指をさした。
「ああ、あれを見なさい」
「なんです?」
「やはり、乳飲み子を抱えた女性が……」
私の指が指し示す方向に、森番の親爺も目を向けるが、視力が悪いのか、目を細めるばかり。
私は森番を無視して丸太小屋の脇を進み、森へと入る。
だが、女の方も私が近づいて来るのを承知しているのか、さらに森の奥へと分け入ってしまう。
「お、お待ちください!」
私は反射的に手を伸ばす。
さらに声をかけようとする。
が、遠すぎる。
向こうもこちらに気づいたようで、深々とお辞儀をした。
私は思わず立ち止まり、軽く会釈する。
彼女が私を意識してくれていることが、純粋に嬉しかった。
そのまま、女性の姿が見当たらなくなってしまった。
◆3
森の入口付近で、乳飲み子を抱えた女性から、お辞儀をされて以来ーー。
私は例の母子に心が惹かれて仕方がなかった。
夢にまで母子が出てくるほどになった。
もっとも、さすがに夢の中だからか、森の中とは違い、向こうから迫ってくる。
そして、抱えた乳飲み子を優しく撫でながら、彼女は私に向かって微笑んで、こう言うのだ。
「貴方様が来られますのを、心待ちにしておりました」と。
それから、十日間ーー。
ぶっ続けで、同じ夢を見た。
というか、同じ夢の続きを見続けた。
夢の中で、私は母子の小さな家に招待されていた。
彼女から手料理を振る舞われる。
ホカホカと湯気が立ち昇る鍋料理、そして芳しい香草焼きのお肉が、大皿に盛られて、テーブルに並ぶ。
食事を終えると、私はリクライニングチェアに腰掛け、読書をする。
女も小ぶりのチェアに座って、編み物をしている。
時折、立ち上がっては、女と同じように、私も乳飲み子をあやす。
静かな時が流れ、私の心が満たされていく。
ささやかな、幸せな生活を送る夢ーー。
そして十日後、最後の夢ーー。
蒼い瞳の彼女が、私の手を引いて誘導してくれた。
森の中を進み、私が彼女と過ごした山小屋までの道を教えてくれた。
ここまで導かれながら、退くつもりはない。
翌朝、私は朝食を終えると、即座に館から外へ出た。
◇◇◇
一方、館の厨房ではーー。
老執事が、領主の食べ残しを目にして、嘆息していた。
「また、お残しになられたのですか……」
大皿の上にある肉料理からは、湯気が立ち昇っていた。
端の方が、ナイフで少し削られただけであった。
料理人も肩を落とす。
「はい。若鹿の腿肉の香草焼きは、領主様の好物でございますのに……」
最近、領主様が食事を摂られない。
おかげで、みるみる痩せ細っていく。
それなのに、眼が爛々《らんらん》と輝いている。
気色悪くて、仕方ない。
しかも、時折、甲高い叫び声が、館中に鳴り響く。
どうやら、領主様の部屋から聞こえてくるようだった。
そんな折、領主様の姿が忽然と消えた。
怖がって、若い侍女などは身体を震わせていた。
「たしかに、わたくしよりもお先に、領主様はお部屋にお入りになられました……」
扉が開くこともなかった。
それなのにーー。
「わたくしが寝具を整えようと入室しましたところ、姿がなく……。
誓って、誰の出入りもありませんでした」
「では、文字通り消えた、と?」
執事は眉間に皺を寄せ、窓の方に目を遣る。
そして、眉根を開いて、安堵の息を漏らす。
「なんだ……窓が開いておるではないか。
若は、窓から外へ出られたのだろう」
安心すると同時に、疑問がもたげてきた。
「しかし、なにゆえ……玄関から、お出にならない?」
老執事の問いかけに対し、侍女は黙って、首を横に振るのみ。
老執事は、窓辺から庭の彼方へ視線を向けて、呟いた。
「やはり、幻に惹かれなさったのか……」
◆4
私、若い領主は、館の窓から飛び出ると、そのまま庭を突っ切って、森の中を進んだ。
夢の中で女性が手を引いてくれた通りに歩んだので、迷うことは一切なかった。
夢で見たのとまったく同じ家を見つけた。
「ああ、ついに見つけた……!」
さっそく入ろうとする。
が、扉に鍵がかかっていて、入れない。
そこで、ふと、思い出した。
自分は鍵を持っているのでは? と。
あの書斎机の引き出しにあった古びた木箱の中から、一本の鍵を取り出したことを思い出す。
ポケットから、錆びついた鍵を取り出した。
そして、鍵を鍵穴に差し込んだ。
すると、見事に嵌った。
鍵を回して、扉を開けた。
家の中には、やはり母子がいた。
二人して、私の方を振り向いた。
「お待ちしておりました。会えてうれしい」
彼女の蒼い瞳が潤んでいる。
私も嬉しい。
大きく歩を進め、強く抱き締めた。
そして、目を開けるとーー。
そこは廃屋だった。
朽ちかけたチェアの上には、干からびた母子の死体があった。
いきなりの急展開である。
(な、なにごとだ。なにがあった?
彼女は……!?)
驚いて、外に出ようとするが、出られない。
扉が固く閉まって、ビクともしない。
私は扉を前にして、頭を抱える。
そんな私の脳裡に幻影が映る。
自分に似た顔の男が、母子を殴りつけていた。
彼女の髪の毛を鷲掴みにして引きずり倒し、殴る、蹴るーー。
あられもない暴力……。
(あれはーー私の父? 祖父?)
居ても立っても居られなかった。
暴力をやめさせようとして、私は男の前に立ちはだかった。
母子を庇おうとする。
だが、できない。
身体ごと、煙のようにすり抜けるだけ。
暴漢が、いたいけな母子を殴打するさまを、私は呆然と眺めることしかできない。
美しい彼女を、抱き締めることすらできないーー。
そして、森の奥にあった小屋は、灰燼となって風に消え去ってしまった。
◇◇◇
地方領地の若き当主が失踪して、三ヶ月後ーー。
当主の失踪を受け、お家は断絶。
領土ごと、老執事と森番、家令もみな、新たな貴族家に貰われた。
そして、館の引き継ぎのための後始末の際ーー。
森番の親爺は、苔むした地面に落ちていた、錆びついた鍵を拾い上げた。
そして、これを老執事に手渡す。
老執事はしげしげと鍵を見詰めて、つぶやいた。
「この鍵……捨てたはずであったが、若はどうして手に入れたのか。
二代続けてご当主が奥方の浮気を疑って牢に閉じ込め、娘ともども死なせてしまっては、家の続きようはずもない。
お優しい気性であられる若ならば、大丈夫だと思っていたが……」
最後まで読んでくださって、ありがとうございます。
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