【電子書籍化&コミカライズ】貴方様が「忘れて欲しい」と仰いましたので
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ノルト男爵家を訪ねて来たジョゼフは、顔色悪くベッドに横たわる婚約者のシャーロットを冷ややかな瞳で見つめた。彼の後ろには、華やかなドレスを纏った一人の令嬢が控えていた。
「シャーロット。今夜の夜会も欠席するという返事だったな」
ベッドから上半身を起こしたシャーロットは、こほこほと咳をしながら、申し訳なさそうに俯いた。
「すみません、ジョゼフ様……」
彼の視線の先で、かつて美しかったシャーロットの顔はげっそりとやつれ、絹糸のようだった滑らかな金髪も今では艶をなくしていた。
ジョゼフはふんと鼻を鳴らすと、言葉を続けた。
「今日は、君との婚約を破棄させてもらうために来た」
「……!」
シャーロットの瞳が、はっと大きく瞠られた。
「俺の元に来る夜会や茶会の招待に、最近の君はどれも俺の婚約者として参加できていないな。そんな君には、将来の伯爵夫人になる資格はない」
彼は後ろを振り返ると、豊満な身体をしたアナベルを抱き寄せた。
「俺は、ここにいるアナベルと婚約することにした。今夜の夜会も彼女と出席するよ」
アナベルは、シャーロットを見下すような笑みを浮かべた。
「まあ、この方がシャーロット様? 確かに、ジョゼフ様の婚約者には相応しくありませんわね」
ジョゼフは、顔を強張らせている目の前のシャーロットを眺めながら、心の中で呟いていた。
(……格下の家の令嬢である上に、こんなに醜くやつれた彼女が、このままシェルナ伯爵家長男である俺の婚約者だなんて耐えられないからな。アナベルは美しい上に、伯爵家の次女だから家格も釣り合う)
年頃の美男子であるジョゼフが一人で夜会に参加すると、多くの美しい令嬢たちから物欲しそうな視線が向けられる。そんな中、シャーロットという婚約者に縛られていることに、彼は我慢がならなかった。
ジョゼフは、積極的に彼に近付いて来た令嬢のうち、伯爵家出身で華やかなアナベルと、新たに婚約を結ぼうと決めたのだった。
俯いたまま口を噤んだシャーロットの頬を、一筋の涙がすうっと伝い落ちた。
ジョゼフの言葉とシャーロットの涙に、それまで彼女の隣で顔を伏せていた従者が、怒りに満ちた瞳でジョゼフを睨み返した。
「お嬢様に向かって、よくもそんなことが言えますね」
従者の青年を、ジョゼフはじろりと見つめた。プラチナブロンドの髪に菫色の瞳をした彼は、シャーロットが孤児院から連れて来たという話だったけれど、驚くほどに整った顔立ちをしていた。
ジョゼフに並んだアナベルが、頬を染めて思わず従者に見惚れていたのも、彼にとっては面白くなかった。
シャーロットは首を横に振ると、従者を制した。
「いいの、エヴァン」
「ですが……」
エヴァンは悔しそうにジョゼフを見つめた。
「今まで、お嬢様はあれほど甲斐甲斐しく貴方様に尽くしていらしたというのに。貴方様が病に臥せっていた時、お嬢様は三日と空けずに貴方様を見舞っていたのに、貴方様という方は、今日もお嬢様を見舞うでもなく……」
ジョゼフは微かに瞳を揺らした。二人の婚約が調った時、彼は原因不明の奇病でベッドの上から動けなかった。そんな彼との婚約を受け入れ、献身的に尽くしてきたのがシャーロットだったのだ。
彼の家を訪れる度に、美しい見舞いの花束や果物を携え、顔色の悪かった彼に温かな笑顔を向けてくれた彼女のことを、ジョゼフはぼんやりと思い出した。思うように身体の動かない彼の口に、食べやすく切った果物を運んでくれたのも、彼の辛い心情に静かに耳を傾けてくれたのも、全部彼女だった。
確かに、当時のジョゼフは、彼に救いの手を差し伸べてくれたシャーロットのことを愛していたし、彼女の優しさに縋るように日々を過ごしていた。美しいエヴァンが常に彼女の隣にいることを嫉妬したのも、一度や二度ではない。
けれど、ジョゼフにとって、それは昔見ていた悪夢の向こう側のような、もう過ぎ去った日の出来事だった。
ジョゼフの身体に改善の兆しが見られ始めたのと同時に、シャーロットの体調は次第に悪くなっていった。彼の奇病が移ったのでは、とシェルナ伯爵家の使用人たちが噂する中で、苦しかった病の記憶を思い起こさせる、かつての彼によく似た病状が現れ始めたシャーロットから、ジョゼフは少しずつ距離を置き始めたのだった。そのまま、彼の心もシャーロットから離れていった。
しばらく口を噤んでから、ジョゼフは再びシャーロットを見つめた。
「俺のことは、今日を限りに忘れて欲しい。男爵には俺から話をつけておく」
「……承知いたしました」
シャーロットは静かに頭を下げた。
ジョゼフがシャーロットの父である男爵に婚約破棄を申し入れると、男爵も淡々と婚約破棄を受け入れた。
解放感に満たされた彼は、アナベルを伴って訪れた夜会を心ゆくまで楽しんだ。
***
夜会の後、アナベルを家に送り届けてから帰宅したジョゼフを待っていたのは、怒りに顔を真っ赤にした彼の父親だった。
「ジョゼフ、お前は勝手に何て言うことをしてくれたんだ……! シャーロット嬢との婚約をお前が破棄しに来たと、ノルト男爵家当主から連絡があったぞ」
「……その話ですか」
ジョゼフは一つ溜息を吐くと、父を見つめた。
「父上が彼女を気に入っていたことは知っていますが、重い病を患う彼女では、今後私の妻として伯爵家夫人の務めを果たすことはできないでしょう。……それに、ご安心ください。彼女よりも俺に相応しい婚約者には既に目星を付けていますので、父上にも今度ご紹介を……」
「大馬鹿者が! いい加減にしろ!!」
激昂した父を前に、ジョゼフは青ざめていた。
「私がどれほど男爵に頭を下げて、シャーロット嬢をお前の婚約者にと頼み込んだのか、お前は知らなかったのか! しかも、身体の悪かったお前にあれだけ尽くしてくれた恩人に対して、別の令嬢を伴って婚約破棄を告げに訪れるなんて、失礼極まりない。無神経にも程があるだろう」
「それは……」
「お前がこれほど愚かだったとは、知らなかったよ」
冷ややかな眼差しの父を前にして口籠ったジョゼフの耳に、近付いて来る足音が聞こえた。年の離れた彼の弟のルカが、父の怒声を耳にしてやって来たのだった。
まだ学生になって間もないルカは、眠そうな目を擦りながら口を開いた。
「兄上、シャーロット様との婚約を破棄なさったのですか?」
「ああ、そうだ」
「それは残念ですね。もっと大切にした方がいいって、兄上にはあれほど言ったのに」
悲しそうに眉を下げたルカを、ジョゼフは苛々としながら睨み付けた。
ジョゼフがシャーロットとの婚約破棄と、新しい婚約者を見付けることを急いだ理由の一つが、この弟ルカの存在だった。
ルカには、国の中でほんの一握りだけの者だけが持って生まれるという、特殊能力があるようだった。ごく稀に、彼には未来の場面が見えることがあるようで、幼い頃から時に予言のようなことを呟いては、周囲の人々を驚かせていた。
長男であるジョゼフがシェルナ伯爵家を継ぐ予定にはなっていたけれど、ルカが成長して、その能力を確かなものにして家督を争うことになる前に、ジョゼフは家格の釣り合う令嬢を見付けて身を固め、自分の地位を確かなものにしておきたかったのだ。
シャーロットとの婚約は父によって調えられたものではあったけれど、それが今では逆に、自分が家督を継ぐ上では足枷になっているのではないかと、ジョゼフはそう想像していた。
「僕、シャーロット様のこと大好きだったのになあ。あんなに素敵な方、なかなかいないと思うけど。従者のエヴァンさんもいい人だったし……」
シャーロットがジョゼフを見舞いに訪れる度、彼女と共にルカの遊び相手をしてくれたエヴァンにも、彼はよく懐いていた。
近頃は体調を崩して、シェルナ伯爵家の屋敷にはめっきり姿を見せなくなっていたシャーロットのことを、彼は心配していたのだった。
ルカの言葉に、伯爵は深い息を吐くと彼の頭を撫でた。
「私も同意見だよ、ルカ」
そして、落胆と失望を滲ませてジョゼフを見つめた。
「ジョゼフ、お前は自分を過信しているようだな。私も育て方を誤ったようだ。我が息子ながら、見損なったよ。……この家の跡取りも、考え直す必要があるな」
「か、必ず俺は立派にやって見せます! ですから……」
慌てて口を開いたジョゼフを、伯爵は厳しい表情で遮った。
「お前が今後、シェルナ伯爵家当主としての務めを満足に果たせないようなら、この家はルカに継がせる。よいな?」
「……はい」
そんなことはあるはずがないと思いながら、ジョゼフは悔しげにぎゅっと拳を握り締めた。
「いつかまた、二人に会えるかな……」
ジョゼフに背を向けて、そう寂しそうに呟いたルカの目に、突然シャーロットとエヴァンのいる場面が映った。シェルナ伯爵家よりも遥かに豪華な内装の、しかもどこかで見たことのある屋敷にいる二人の姿に、ルカは目を瞬いた。
(これは、もしかして……)
険しい顔をしたジョゼフとは対照的に、ルカはふっと口元を綻ばせていた。
***
一方のシャーロットは、ジョゼフから婚約破棄の申し入れがあり、それを受け入れたことを父からも聞いて、小さく息を吐いていた。
エヴァンは心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。
「お嬢様、どうぞ気を落とさずに。貴女様になら、あんな酷い男よりもずっと良い方が現れますから」
シャーロットが婚約破棄を告げられて流していた涙を思い出すだけで、エヴァンはジョゼフに対する怒りが胸に滾るのを感じた。
彼女は、エヴァンの恩人でもあった。定期的に孤児院を慰問に訪れていたシャーロットは、かつて身体の弱かった彼に寄り添い、親身になって世話を焼いてくれていた。さらに、彼が健康を取り戻し、すっかり美しい少年になって、時に邪な視線を向けられるようになると、彼の求めに応じて従者として引き取ってくれた。もしも彼がそのまま孤児院に残っていたなら、彼は男娼としてどこぞの金持ちに買われていたかもしれない。
それだけでなく、彼は彼女と同様の貴族教育まで十分に受けさせてもらっていた。他の貴族と比べても抜きん出て優秀な彼を、シャーロットは心から褒めていた。
エヴァンのシャーロットに対する感謝と尊敬は、単なる主人への気持ちを超えて、一人の女性に対する深い愛情に変わっていた。けれど、自らの出自を考えると、身分違いの恋だと、とてもその気持ちを口に出すことはできなかったのだ。
シャーロットは気丈に微笑んだ。
「私なら大丈夫よ。それに、ジョゼフ様に愛されていないことはわかっていたもの。むしろ、彼から婚約破棄されてよかったわ」
いくらやつれても、エヴァンの瞳には誰より美しく映るシャーロットを、彼は切なげに見つめた。
「……僕は、これから何があっても一生、お嬢様のお側でお仕えしますから」
彼女の幸せを祈りながら、どうにか彼に言えたのはその言葉だけだった。シャーロットは嬉しそうに笑った。
「あなたが側にいてくれるなら、私にはそれだけで十分よ」
身体の具合が悪くなり始めた途端、少しずつ自分から迷惑そうに離れていったジョゼフとは逆に、シャーロットがどれほど美しさを失っても、常に彼女の身体を第一に考え、尽くしてくれるエヴァンに、彼女も次第に惹かれ始めていた。
他の男性と婚約している身なのだからと、彼女は必死に自分を律していたけれど、だんだんその気持ちを抑えることが難しくなっていたのだった。
シャーロットがジョゼフの前で流した涙も、さっき吐いた息も、自己中心的な婚約者からようやく解放されたことへの安堵と、今後のジョゼフに対する微かな憐憫の情によるものだった。
シャーロットの笑顔に堪らなくなったエヴァンは、思わず彼女の痩せ細った身体をそっと抱き締めた。
「いつも支えてくれてありがとう、エヴァン」
優しく温かいエヴァンの腕の中で、彼女が幸せそうに頬を染めていたことに、その時の彼はまだ気付いてはいなかった。
そんな二人の運命は、その後間もなく届いた一通の手紙によって大きく変わることになる。
***
ジョゼフは、ベッドの上から落ち窪んだ目で父を睨み付けていた。
「どうして教えてくださらなかったのです!? シャーロットも特殊能力の持ち主だったと……」
シャーロットとの婚約を破棄してから、急坂を転げ落ちるように再び身体の具合が悪くなったジョゼフは、このところはベッドの中で過ごす日々が続いていた。
彼の体調が思わしくなくなり、その顔が醜くこけ始めた途端、アナベルは逃げるように彼の元を離れていった。
「もし、シャーロットが病を引き受ける能力を持っていると知っていたなら、俺だってもっと彼女を大切にしたのに……!!」
彼の父は溜息交じりに首を横に振った。
「それが、シャーロット嬢とお前の婚約を調えた時の約束だったんだ。無理矢理にこちらから婚約をお願いした時に、彼女は一つの条件を出した。お前の言うことを何でも聞く代わりに、彼女に特殊能力があることはお前には伏せておいて欲しい、と」
「だからと言って……!」
彼は冷ややかに息子を睨んだ。
「私がどうして、家格が下の男爵家に何度も頭を下げて婚約を頼みに行ったのか、お前は想像したことすらなかったのか?」
「それは……俺が長いこと病に臥せっていたから、承諾する令嬢がなかなか見付からなかったのだろうと……」
「まあ、それも間違いではないがな。だが、残念だったな。せっかくルカがくれたチャンスも棒に振って」
「……ルカが?」
不思議そうに尋ねたジョゼフに、父は続けた。
「ああ、そうだ。お前の側にいるシャーロット嬢の姿と、回復していくお前の姿を、前にルカが見たんだ。調べてみたら、シャーロット嬢が孤児院の子供達に小さな奇跡を幾度も起こしていることがわかった。それで、私は彼女にお前との婚約を依頼したんだ」
「でも、俺が彼女に初めて会った時は、顔色も良く健康そのものでしたよ? 何度も病を引き受けて来たようには見えませんでしたが」
「それこそが、お前の傲慢さの現れだ」
息子に向かって、彼は険しい顔でぴしゃりと言った。
「シャーロット嬢の力は、病を引き受けるのと同時に、患者からの感謝で、その身体を回復させられるというものだそうだ。……彼女がその能力をお前に伏せて欲しいと頼んで来たのも、お前が感謝と愛情をもって彼女に接するのかを確かめるためだったのだろうな」
「そんな……」
後悔に顔を歪めたジョゼフは、わなわなと震えながら口を開いた。
「彼女を迎えに行きます。今度こそ、彼女を大切にすると誓って来ます。だから、家督は俺に……」
婚約破棄を告げた時にシャーロットが流した涙を、彼は思い出していた。
目の前に差した一筋の希望の光を、彼は逃したくはなかった。
「……もう手遅れだよ、ジョゼフ。お前のその身体では、シェルナ伯爵家当主としての務めは果たせない。この家はルカに継がせる」
「ま、待ってください、父上……!」
父がそのまま自分に背を向けて部屋を出て行く姿を、ジョゼフは失意と共に見つめた。
***
よろめく身体を支えるために杖をつきながら、ある豪邸の前で立ち止まったジョゼフは、見上げるような立派な屋敷に呆然としていた。
(ここにシャーロットがいるというのは、本当なのか……?)
シャーロットにどうしても一度謝罪したいとの口実で、嫌がるノルト男爵を説き伏せて、彼はどうにか彼女の居場所を突き止めていた。
暖かな春の陽射しの差す庭先から、談笑する声が門戸の先まで響いて来た。門戸の中から、すっかり元の美しさを取り戻したシャーロットとエヴァンに見送られて出て来た人物に、ジョゼフは目を瞠った。
(どうして、ルカがここに?)
少し息を潜めた彼は、ルカに声を掛けた。
「なあ、ルカ。何で君がここにいるんだ?」
こともなげに彼は答えた。
「ああ、シャーロット様もエヴァン様も、僕の大切な友人だからね。二人のお祝いに来ていたんだ」
「エヴァン様? お祝い……?」
従者だったはずのエヴァンを思い浮かべて、ジョゼフは訝しげに首を傾げた。
「ああ。エヴァン様は、父上のご友人でもある、この侯爵家の当主様が長らく探していた息子だったんだよ」
「……はっ?」
丸く目を見開いたジョゼフに、ルカは続けた。
「今の当主様は、昔、侍女と恋仲になって、それを押し通して結婚するつもりだったらしいのだけれど、先代の反対で侍女が追い出されてしまったんだって。既に彼女が妊娠していることを知っていた彼は、急いで彼女の消息を辿ったけれど、行方がわかった時には既に亡くなっていたらしい。でも、残されていた日記から、息子を死ぬ直前に孤児院に預けたとわかったんだって」
「でも、どうしてそれがエヴァンだと……?」
「ああ、僕には、エヴァン様と抱き合って涙を流す侯爵様の姿が、前にはっきりと見えたからね」
ルカはにっこりと笑った。
「ずっと前にも、僕の能力を聞いた侯爵様の相談に乗るために、ここに話を聞きに来たことがあったんだけど、その時は何も見えなくて。それからしばらく経って、ようやく見えたんだ。……エヴァン様は、侍女だったお母様に瓜二つだったそうだよ」
「そ、そうか。なら、なぜシャーロットもここにいるんだ? もう、エヴァンは彼女の従者をする必要なんてないだろう?」
その時、ルカの後ろから現れた人影が口を開いた。
「それは、シャーロットが、今では僕の愛しい妻だからですよ」
すっかり高位貴族らしい立派な服装が板についたエヴァンは、じっとジョゼフを見つめた。
驚きに口の中がからからになるのを感じながら、ジョゼフはエヴァンを見つめた。
「う、嘘だろう? そんなはずはない。……シャーロットは俺を愛していたはずだ。頼む、シャーロットを呼んでくれ」
彼はルカと目を見交わすと、首を横に振った。
「貴方様が以前仰った言葉の通り、きっと妻は、貴方様のことなどもう忘れていることでしょう。もう、これ以上妻を困らせないでいただきたいのです」
「そうだよ、兄上。今更見苦しいよ」
ルカに引き摺られるようにして、絶望を滲ませたジョゼフは家路へと向かう馬車に乗り込んだ。
「何かあったの、エヴァン?」
門戸の先で、エヴァンとルカが誰かと何かを話している様子を目にして、戻って来たエヴァンにシャーロットは尋ねた。
エヴァンは首を横に振った。
「いや、何でもないよ、シャーロット」
遠目に見たら、健康だった時からは別人に見えるほど痩せ衰えていたジョゼフのことが、シャーロットには一見して誰だかわからなかった。
「そうかしら? なら良いのだけれど」
エヴァンは愛しげにシャーロットの身体を抱き締めた。
「久し振りにルカ様にお会いできて、楽しかったね。君の妊娠を祝うために駆け付けてくれるなんて、彼も優しいね」
「ええ。ルカ様とは、これからも親しくさせていただけたらいいわね」
「ああ、そうだね。それに、彼は僕の恩人だからね。彼がいなければ、愛する君に求婚することも、きっとできなかっただろう」
ジョゼフにシャーロットが婚約破棄されて間もなく、ルカの言葉によって侯爵家当主からエヴァンに届いた手紙を皮切りに、彼が侯爵家の跡継ぎだと判明した。その結果、エヴァンはすぐにシャーロットに求婚し、二人の婚姻がつつがなく調ったのだった。
「……彼の兄を思い出すことはあるかい?」
気遣わしげに尋ねたエヴァンに、シャーロットは首を横に振った。
「いいえ。婚約していた期間は長かったはずなのに、もう、あの方の顔すらはっきりとは思い出せないの」
彼女自身でも不思議に感じるほどに、ジョゼフの顔や彼に纏わる記憶はすっかり遠いものとなり、今ではほとんど覚えてはいなかった。
「……でも、あの婚約のお蔭でルカ様と知り合うことができ、今の幸せがあると思えば、あれも一つのご縁だったのかもしれないわね」
「ああ、そうだね」
微笑んだエヴァンは、優しくシャーロットの腹部を撫でた。
「僕たちの子供に会える時が、今から待ち切れないよ」
「ふふ、私もよ」
エヴァンはシャーロットを抱き寄せると、嬉しそうに笑う彼女にそっと口付けた。
暖かな陽射しの中で、シャーロットは、心から自分を愛してくれるエヴァンが夫として隣に立っていることに、確かな幸せを感じていた。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました!
(2023/5/8追記)他の商業作品と主要人物の名前が重なると教えていただき(その作品を私は知らずに書いてしまい、意図したものではありませんでしたので)、ジェフリーの名前をジョゼフに変更いたしました。