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元聖女アイリスの反乱⑦

 ビクターのアイリスに対する態度は、日に日に丁寧になっていった。

 腰に痛みがない日々が続くのに比例して、痛みを取り去ってくれたアイリスへの感謝と信頼が大きくなっていく。

 ビクターはアイリスに多くの便宜をはかった。

 アイリスに彼女の大好物の菓子や、とびきりの化粧品を贈った。もちろん元聖女を監視するという任務を考えれば、職務違反だとは分かっている。だが治療代だと思えば、安いものだと自分を納得させた。


 そんなある朝、聖女はまた紙を手にして床にかがみ込んでいた。

 既視感のある光景に、ビクターはアイリスが何をしようとしているのかを、瞬時に理解した。

 ビクターは素早く屈んで両手で蜘蛛を掬い上げ、蜘蛛が逃げないように掌に空間をつくった状態で手中に蜘蛛を閉じ込めた。

 肘で窓を開け、両手を振って中にいた蜘蛛を逃してやる。


「先日は聖女様が逃がそうとされていた蜘蛛を踏み潰してしまって、申し訳ありませんでした」


 逃し終えたビクターが、切なそうにそう言う。

 アイリスはほんの数秒のうちに終わったこの救出劇を、驚いたように見守っていた。

 床に座り込んでいるアイリスに対して、ビクターが窓辺から声をかける。


「僕は信じられません。……虫も殺せない女性が……、こんなにお優しくて可憐な方が、本当に舞踏会場での大火事を引き起こしたので?」

「ですから前にも言ったように、あれは濡れ衣です。わたくしから殿下を横取りしようとした女魔術師の陰謀なのです」

「本当は無罪なら、こんな扱いをなぜ我慢できるのですか?」


 ビクターは昨夜の夕食の風景を思い出した。アイリスを嫌う兵士が、彼女の夕食のパンを床にわざと落とし、デザートのフルーツを目の前でわざと握りつぶしたのだ。

 だがアイリスは憤慨するビクターの腕に、そっと触れた。


「わたくしのために怒らないで。神の与えた試練だと思って、耐えますわ。人を憎みたくないのです。どんな境遇であっても、聖女らしくありたいと思っているのです」


 予想を超えたアイリスの返事に、ビクターは感激して胸が熱くなり、涙が浮かびそうになる。


「聖女様は、心根までお美しい。あなたこそまさしく真の聖女です」

「ビクターったら。今の言葉が、例え貴方の優しさからくる嘘だとしても、嬉しいわ」


 アイリスがビクターにお礼をするかのように、椅子から立ち上がって粗末なワンピースの裾を持ち、片足を引いて腰を落とす。

 王宮の住人らしいその優雅な仕草に、ビクターはしばし目を奪われた。どんなにみすぼらしい所に追いやられようとも、生まれ持った輝きは隠せないのだと、感動を覚える。


「僕は嘘を言ったのではありません。聖女様、これは僕の本心です」


 ビクターの言ったことを信じていないのか、アイリスはただ黙って微笑んだ。そしてビクターにはその曖昧な微笑が悔しかった。嘘ではなく心からアイリスを尊い存在だと思っているのだと、どうにかして伝えたい焦燥感に駆られた。




 新しい便箋をテーブルの上に出し、再びペンを滑らせていく。

 精一杯心を込めて、美しい字で謙虚な文面を綴らなくてはならない。

 文通相手の名は知っていても、アイリスはこの人物がどんな顔をしているのかを知らない。だが、確実にその手に渡るようにしなければならない。――失敗は絶対に許されない。

 いつものように王太子宛の手紙ならば、父母が面会に来た時に彼らに渡せばよい。だが、たとえ侯爵といえども面会の後は持ち物検査を受けるのだ。

 父母がこの手紙を手渡されたことがバレれば、兵士に没収されてしまうだろう。それだけは避けなければならない。

 なぜなら、この文通相手はアイリスの命綱なのだから。

 アイリスは胸に手を当て、心の中でその名を呟く。


(サーベル王国軍 元総司令官、セオドシウス将軍。貴方の勇気に心から敬意を表します)


 いつまでもこの虫けらのごとき扱いに、耐えるつもりはない。このままでは、ゼファーム家も没落の一途を辿るだけだ。

 アイリスは聖女の価値を理解してくれる者達の所に行かねばならない。この地獄から自分を正当な場所に引き上げ、得るべきものを与えてくれるのは、最早サーベル王国の将軍しかいない。

 ミクノフと同盟を組んでいたレイアと戦い、敗戦したばかりのサーベルならば、聖女を喉から手が出るほど欲しているはずだ――アイリスはそう考えた。

 何しろアイリスの力があれば、兵士達を治癒術によって無限に復活させられる。兵士達が死んでさえなければ、新品の状態に戻すことができるのだ。

 聖女を連れて再び進軍すれば、サーベルは不死身の軍隊を手に入れたも同然になる。レイアとミクノフが終戦直後で油断している今、聖女を連れたサーベルが再び反撃に転じたのなら、勝利の可能性がぐんと上がる。

 そうなれば、後悔するのはレイアの方だ。ゼファーム家はサーベルで戦勝功労者として歓迎され、レイアは聖女を冒涜し不当に扱った己の罪を、遅まきながら嫌というほど自覚してくれるに違いない。何よりアイリスを手放したことを悔しがるのは、王太子だろう。


(きっと、かつてわたくしに夢中になったことを思い出して、また欲しがってくださるはずだわ)


 その瞬間を想像し、己を鼓舞する。


『将軍閣下。貴方様がわたくしを国境まで迎えに来てくだされば、聖女は貴国のものになりましょう。レイアとの戦いに、勝利をお約束いたします』

 アイリスはそうしたためて、便箋を折り畳んで封筒に入れた。

 今日の患者のもとにアイリスを連れて行くため、ビクターがやってくるのを彼女は今か今かと待ち侘びる。

 やがていつもの時間ぴったりに扉をノックすると、ビクターが現れた。


「おはよう、ビクター。待っていたわ」


 戸口に立ってアイリスは和かに呼びかけた。

 だが対するビクターはいつもと違って少し表情が暗い。アイリスは可愛らしく首を傾げた。


「どうしたの? 今日は元気がないのね」


 ビクターが気まずそうに目を伏せたまま、答える。


「実は先ほどゼファーム侯爵夫人がいらして……いつも聖女様に誠心誠意お仕えしているお礼にと、贈り物をくださろうとなさったのです」

「お母様が? まぁ……」

「ですが、僕などでは到底買うことができないような、高価なマントだったので……。お断りしました。いただくわけにはいきません」

(なんてつまらない男なの。絵に描いたような小物ね)

「貴方はなんて謙虚なのかしら。素晴らしいわ、ビクター」


 ビクターは勢いよく首を左右に振った。


「僕はこれでも聖女様の見張りですから。その親族から贈り物を受け取るわけにはいきません」

「わたくしが母に貴方のことを話してしまったから。貴方にとてもよくしていただいていて、心から感謝していると話してしまったせいね。そのせいでかえって貴方を困らせてしまうなんて、ごめんなさい……!」


 胸の前で両手を組み、申し訳なさでいっぱいの表情を浮かべるアイリスを見て、たまらずビクターは部屋の中に入っていく。


「いいんです、聖女様。どうか謝らないでください」

「でも……わたくしったら好きな人達を困らせてばかりで、苦しいわ」


 数秒の間が開いた後、ビクターが鸚鵡返しにいう。


「す、好き……?」


 ビクターは首まで真っ赤になっていた。

 その時、また廊下の先から怒声が響く。


「おい! モタモタするなよ。ビクター、さっさと元聖女を起こせ! 今日も仕事をさせるぞ」


 廊下の方に顔を向け、ごくりと生唾を嚥下した後で、ビクターは視線をアイリスに戻した。怯えたように微かに全身を震わせるアイリスを見て、彼の中で怒りが込み上げたのか、歯を食いしばってから絞り出すようにつぶやく。


「こんな状況……。か弱い女性に冤罪を着せて、牢に閉じ込めるなんて……! おかしいです。納得いきません」


 アイリスは部屋の中の小さな窓から、かろうじて見えている小さな空を見つめた。


「そうね。おかしいわよね。……わたくしは大貴族や聖女になんて、生まれたくなかったわ。どこかの田舎でひっそりとつましく暮らすのがわたくしの望んだ生活だったのに」


 外は快晴のため、小さな窓からは明るい日差しが差し込んでいる。アイリスの上半身は日差し浴び、黄金の髪と白磁の肌はまるで光の中に透け、このまま消えてしまうのではないかと思えるほど、色が薄かった。

 咄嗟にビクターは手を伸ばし、アイリスの手首を掴んでいた。

 驚いて顔を上げたアイリスの目を、ビクターが必死の形相で見入る。


「僕に、聖女様をお逃しできる力があれば……!」


 アイリスは掴まれた手首をそっと抜いた。そうして彼女はテーブルの上に手を伸ばすと、置かれていた封筒を手に取った。

 手を放されて少し傷ついたように後ずさるビクターを、アイリスが再び見上げる。


「ビクター……。もしもその言葉が本心から出ているなら、貴方にお願いしたいことがあるの」

「ぼ、僕でお力になれるのなら、何でも仰ってください!」

「貴方の勤務終了後にこの手紙をこっそり王立病院から持ち出して、私の父に渡してもらえない? 父母がここから持ち出す手紙は、いつも検閲されてしまうから……。できるだけ密かに持ち出して欲しいの」


 ビクターは封筒を見下ろした。宛名は書かれていないが、中に便箋が入っていることはわかる。

 手紙を持ち出すだけでアイリスの助けになるのなら。断る手はないと考えて、ビクターは大きく頷いた。


   ♢♢♢



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