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元聖女アイリスの反乱④〜アイリスのいま〜

♢♢♢ ♢♢♢ ♢♢♢


 今日も酷い一日だった。

 フラフラに疲れて自室に戻り、粗末な鏡台の前に腰を下ろす。

 ヒビが入った鏡に映るのは、目の下にクマができた生気のない女だ。


(わたくしが、こんな惨めな姿でいていいはずがない。こんな女は、アイリス=ゼファームではあり得ない)


 十ヶ月前ほどまで、アイリスはこの国で――いや、この大陸で最も輝かしい場所にいた。

 誰もが彼女を称え、憧れ、好意を寄せた。

 黄金の髪はツヤツヤと輝き、頬は薔薇色で唇は桜色。その愛らしい大きな瞳に見つめられれば、どんな男も心を奪われたものだった。たとえそれが他の女の男であろうと。


(その上、わたくしは大陸に一人しかいない癒しの力を持ち、聖女として王宮に迎え入れられた身だったのよ)


 王太子までアイリスに魅了され、王太子妃となるまで、本当にあと少しに思えたのに。

 その時、誰かが部屋の扉をノックする音がした。


「おい、元聖女。ドアを開けるぞ?」

「――どうぞ」


 ドアを開けたのは、ここ王立病院で警備を担当している兵士だ。

 髭の生えた武骨な顔をアイリスに向け、ぶっきらぼうに告げる。


「急患が出た。下の階に子供が運び込まれたから、すぐ来い」


 このような態度や発言は、聖女に対してばかりか上級貴族の家の令嬢に対しても、信じられないほど無礼なものだ。だが、今のアイリスに対する扱いは、これが日常となっていた。

 名高いゼファーム家の一員としては、到底許すことができず、アイリスは歯を食いしばって屈辱的な扱いに耐えた。


「もう今日のノルマは達成したはずよ。二十人きっちり手当てをしたわ」


 アイリスがささやかな抗議をすると、兵士は分厚い胸板をそらし、ハッと鼻で笑った。


「人を助けることは、やはりあんたにはノルマでしかなかったんだな。聖女だったなんて聞いて呆れる」

「今更誰もわたくしを聖女として扱ってはくれないくせに、都合のいいことを言わないで」

「フン。いいのか? 反抗的な態度をとっていると、明日のあんたの飯が、半分に減らされるだけだぜ」

「い、行くわよ! 行けばいいんでしょう、この卑怯者!」


 ゼファーム家の令嬢たる自分が、食事を減らされることに怯えて無理矢理指示に従わされるのは、頭の中が沸騰しそうなほどの屈辱だった。

 だが、背に腹は変えられない。

 この兵士はアイリスの見張りを担当する者達の中で、最も彼女に対して態度が辛辣だった。

 疲れ切った体を引きずり、病院の中を歩かされる。

 なんの飾り気もない白い壁と、建物の中に充満する薬の匂いで、めまいがしそうだ。

 足元の床はギシギシとうるさく音を立て、ニスのハゲた木製の手すりは手を添えるだけで虚しい気持ちにさせる。

 王宮の壁は金や七宝、漆で飾られ、天井に至るまで美しい絵が描かれているものだった。床は乳白色の大理石で、階段にまでフカフカの絨毯が敷かれていたのに。

 案内された病室にいたのは、痩せた母親の腕に抱かれた三歳くらいの幼児だった。

 馬車に轢かれて、たった今王立病院に運び込まれたらしい。


(こんな平民の子を、なぜわたくしが聖なる力を使って助けなくてはならないの? 本当に納得がいかないわ)


 アイリスは幼児に一切同情をしなかった。

 人は皆、生まれによって神から区別をされている。例えば馬車を所有し、一生誰かに移動の世話をさせることができる者と、馬車に乗れない者に。

 後者は道端で轢かれようが、そういう運命の元に生まれているのだから、足掻くだけみっともないのだ。

 粗末で汚れた者は、視界に入るだけでこちらの気持ちまで荒ませる。だからこそ、できるだけ関わりたくないのに、幼児の母親は縋るようにアイリスを見上げた。


「どうかお願いです、聖女様。貴女様がこの病院にいて、本当に幸運でした! どうか息子にお慈悲を」


 どうやら母親はいまだ聖女を信仰しているらしい。たかが貧しい平民の一人ではあるが、味方は一人でも多い方がいざという時に役に立つ。ものの数秒でそう判断し、途端にアイリスは極上の笑みを披露した。

 たおやかな澄んだ声で、母親に話しかける。


「貴方達親子と出会えたのは、神のお導きですわ。さぁ、気の毒な坊やをわたくしに抱かせて」


 本音を言えば、身分卑しい者達に触れるのは、拒否感しかない。

 彼らの持つ負の要素が、高貴な自分の身を汚すような気がするからだ。

 だがそんなことは噯気にも出さず、アイリスは優雅に手を差し伸べる。


「わたくしの癒しの力で、絶対に元気にして見せますわ」


 腕の中に幼児を抱え、右手を彼にかざす。

 癒しの術を繰り出すのは、疲れるが難しくはない。生まれ持った能力であり、教わってできるのではなく本能的なものなのだ。

 幼児の頭から爪先まで、体の不具合を(つぶさ)に透かして探るような気持ちで、手から光を放つ。

 黄金色のその光は優しく温かなのに力強く、包み込んだ幼児の体の傷を次々と消していく。骨折しているのか不自然な方向に曲がっていた足は、痛みもなく元のまっすぐな位置に戻り、頬のアザは嘘のようになくなっていく。

 母親は目の前で起きた奇跡に感涙した。


「ああ、坊や! なんてこと!」


 母親が歓喜の声をあげ、アイリスの足元に跪く。彼女は両手を擦り合わせ、声を震わせて言った。


「息子を助けてくださり、本当にありがとうございます。このご恩は、決して忘れません!」

「まぁ、そんな。大袈裟ですわ。わたくしに出来ることをしただけですもの。今後も神のご加護がありますように」


 母親はなんて謙虚な方なのだろう、とアイリスに向かって額を床に擦り付ける勢いで頭を下げた。


 病室からアイリスの自室までは、先ほどの兵士とは違う者が付き添った。

 態度が悪く大柄な兵士とは違い、今度の兵士は物腰が低く、アイリスはホッと胸を撫で下ろす。

 それどころか兵士は階段を上りながら、やや興奮気味にアイリスに言った。


「僕は奇跡を目撃したのでしょうか……? 貴女がを誰かを治療していく様子を、初めて拝見しました」


 アイリスは自分の後ろを歩く兵士を、最上段からゆっくりと振り返った。

 茶色の髪は短く刈りそろえられ、見上げてくる緑色の瞳は純粋な驚きに満ちていた。

 アイリスは久しぶりに自分のことを「悪評しかない元聖女」や「類い稀な力を持つ便利な女」としてではなく、一人の人間として見てくれる人を見つけた気がした。

 肩にかかる髪の束を耳の後ろにかけ、首を傾けて兵士を観察する。


「初めてお会いする方ね。お名前を教えていただけるかしら?」

「ビクターと申します。祖父は王都の副司教をしておりました」


 副司教といえば、宗教界の役職としてはかなり出世したことになる。家柄は悪くないらしい。

 とはいえ自己紹介に親ではなく祖父の話を持ち出すということは、両親は祖父を超えることはなかったのだろう。

 アイリスは王立病院では地位が高過ぎる者を警戒したが、かといって低過ぎる者は役に立たない。心から嬉しくなり、微笑む。


「ここでのわたくしの見張り役の兵士達の中には、乱暴な方も多くて。貴方のようなご親切な方とお会いできるとホッとするわ」


 王立病院で元聖女の見張りをする者達の彼女に対する態度は、大抵極端にどちらかに分かれた。「世紀の悪女」として罪人のように扱うか、「堕とされても聖女」として手厚く扱うか。

 ビクターはなんと答えるべきか、迷う様子を見せた。すぐには口を開かず、何度か純粋そうな目を瞬かせる。

 

「――僕は誰かのひととなりを判断する時は、人任せにせず実際に接することで、どんな人なのかを知るべきだと思っています。単純にそれだけです」

 

 ビクター自身もアイリスの悪行を、聞いてはいたのだろう。だがどうやら彼は、人から聞いた話を鵜呑みにするのではなく、今目の前にいるアイリスを見て、彼女の人となりを判断しようと考えたようだった。

 アイリスは天使のような微笑みを浮かべるだけで、それ以上は何も言わなかった。だが彼女は柔らかな印象を与える大きく丸い瞳で、目の前の人物を鋭いナイフのように切り込んで観察した。

 ビクターのやや垂れた目尻とすぐに逸されがちな視線からは、彼の気の弱さを感じ取ることができる。それは今のアイリスにとっては、好都合だと言えた。

 もっともアイリスはそれ以上の会話はしなかった。


(過度な接触はどちらのためにもならないわ。――少なくとも今は、まだ)


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