第二話
雛は、幼い頃からパソコンばかりをいじっていた。
俺が隣でゲームをしていても気にせずずっとパソコンをいじっているような子どもで、それは中学生になっても、高校生になっても、大学生になったって変わらなかった。
いったい何をしていたのか、というのは正直知らない。一度画面を見たことはあるけど俺には難しかったし、すぐに雛に隠されたためにあまり分からなかった。
それが何だったのかを知ったのは、大学も二年目を終えて、就活の話になった時だ。
実は高校の頃から――なんて言われた時には驚いたけれど、雛の発想の豊かさがあれば納得が出来ない事でもなかった。
「それで、どんな人なの、宮岡さんて」
もう高校の頃から行きつけにしている喫茶店で、いつものように雛と向き合っていた。
雛の前にはパソコンが開かれていて、ペンタブレットも構えられている。室内では液晶タブレットを使うらしいのだけど、今日は外だからとわざわざペンタブレットを持ち込んだらしい。
「……どんなって……何回も言ってるけど、しっかりしてて、大人な人で、あとはたまに可愛いところとか……」
そこまで言って、言葉が止まる。
――最近の桐子さんはどうだろうか。俺が今言ったように、しっかりとして大人で、たまに可愛らしいところを見せるような人だったか。
どちらかと言えば、今の桐子さんはまるで雛みたいな……と正面に座る雛を見れば、雛はきょとんとして首を傾げる。そういった仕草をすれば桐子さんに似ているなと、頭のどこかで思いながらも、違うだろうと首を振る。
「何?」
「いや、別に……えっと……」
「まあとりあえず、しっかりして大人の感じで可愛い雰囲気の人ね」
さらさらと、タブレットの上をペンが滑る。
画面を見る目は真剣で、その手も迷いなく動いていた。
――こうして見ると、雛はしっかりと「デザイナー」である。
大学二年で、来年の就活嫌だなあ、とぼやいた俺に「私デザイナーなんだよね実は」と言ってのけただけはあるというものだ。
とはいってもネット上でだけ有名なデザイナーらしく、どこかの専属というわけでもないようで、幼馴染特典という事で今回は無理を聞いてもらった。
桐子さんに贈る指輪のデザインをしてもらえないかと、桐子さんが前に雛がデザインしたネックレスを気に入っていたのを覚えていたために、複雑ながらにお願いしたのだ。
「んー。写真とかあればいいんだけど」
「……ない」
「撮らないんだね。……もうちょっと待ってね」
ふわふわしてて可愛らしくて、優しくて穏やかな雛がたまにこうやって真剣な顔をするのが好きだった。可愛いのに格好いい。その二面性に魅せられていたのだろう。
だけど今は、目の前に居ても何も思わない。
それがきっと、今の気持ちの答えである。
(……会いたいなぁ)
今頃桐子さんは何をしているのだろう。
今日は、この間言われた「実家に帰っていて会えない」という土曜日だ。今頃宣言通りに実家で甥や姪の相手をしているのだろうか。桐子さんは面倒見が良いから、きっと甥や姪からは大人気だろう。引っ付かれて困っているかもしれない。いや、その責任感から全力で相手にしているのかも。
そう考えればなんだかおかしくて、つい口元が緩んだ。
しかし。
突然「もしかしたら」がどこからともなく湧いてきて、晴れた心を覆い隠す。
今頃何をしているのか。
二回目は、明るい事なんて到底考えられなかった。
「……顔が怖いよ」
ぴたりと、雛の手が止まる。
「……顔?」
「そう。……宮岡さんと、何かあったの?」
心配そうな目だ。そこに他意はなさそうで、以前のような「俺を好きだ」という色はない。
――胸はまったく痛まなかった。それならやっぱり、俺はもう雛を吹っ切っているし、雛だって真剣に恋人と付き合っているという事なのだ。
「……あったかもしれない。けど、なかったのかもしれない」
「何それ?」
「……俺さあ、桐子さんの事好きなんだよ」
雛の指が揺らぐ。しかし表情は変わらなくて、傷ついた様子も無い。
(そうだよなあ……)
当然だ。雛だって彼氏が居る。――それなら、今が話し時なのかもしれない。
雛は俺の事を好きではなかったのかもしれないけど。確かに感じていた俺への好意と、桐子さんと付き合い始めてからの少しだけのぎこちなさ。それらの答え合わせをして、お互いにスッキリすべきではないだろうか。
(……最低だな)
嘲笑が微かに漏れた。
俺は雛に懺悔する事で、少しでも楽になろうとしているのだ。
それでも終わらせる事はしなければと正当化して、話の続きを待っている雛を見つめる。
「でも俺、大学まで……つか、雛が彼氏作るまで、雛の事好きだった」
緊張を帯びた固い声。自分でもそれに気付いたけれど、最後まで言えと自身の尻を叩く。
「馬鹿だろ。雛も俺の事好きだと思っててさあ、あのままずっと一緒に居れると思ってたんだ。けど雛が彼氏とか作っちゃって、あー俺の勘違いかよって、結構ショックで……桐子さんに会ったんだ」
雛の目が、ゆっくりと瞠目する。
そこに期待の色はない。ただ驚き一色に彩られて、何度も瞬きを繰り返していた。
「自棄になってたんだろうな、雛の代わりだって、思ってたのに……今は本気で好きなんだよ。雛の代わりにしてた事バレたくないとか、嫌われたくないとか別れたくないとか、そんなこと思うくらいには本気なの」
「…………ああ、そ、か……」
雛の手から、ことりとペンが離れた。
そうして一度画面を見て、静かにパソコンを閉じる。
「雛?」
「じゃあさ、私にお願いする事じゃないね」
「……は?」
「だってさ……宗佑くんの思ってた事ね、勘違いじゃないんだよ。私も宗佑くんが好きだった。でももう無理なんだろうなって諦めちゃって、逃げちゃっただけなの。私も今は彼氏が好きだよ。それでも少しの間は宗佑くんの事引きずっちゃってたし……きっと宮岡さん、そんな私がデザインした指輪なんか要らないと思う」
泣きそうな顔で笑うと、雛は「ごめんね」と小さく呟いた。そうしてパソコンの片づけまで始めてしまって、俺の意見を聞くつもりはないのだと伝わる。
(そうか……)
やっぱり思った通りだった。俺は間違ってなかった。
俺たちは、ちゃんと両想いだった。
そして俺たちはもうそれぞれに好きな人が出来て、その相手を大切にしようと踏み出している。
どこかで引っ掛かっていた心が、今ではスッキリと晴れやかだ。
雛が俺を好きだったと知っても、今はそうでないと分かっても、何も思わない。
つまり、そういう事なのだ。
「……あ、待って雛。桐子さん前にさ、雛がデザインしたネックレス気に入って……えーっと」
以前に購入したネックレスの画像を探して、雛の前に差し出す。すると難しい顔をした雛はすぐに「ああ!」と声を上げて、明るい笑顔を浮かべた。
「それね、私がたまにお世話になってるお店の専属デザイナーさんのネックレスだよ。私のも置いてるお店だから、混同しちゃったんじゃないかな」
そうだったっけ。
言われて改めて画像を見ても、あまりよく分からなかった。デザインに関してはまったくのド素人なのだ。雛らしい、とか、らしくない、なんて事も分からない。
「その人斉賀さんていうんだけど、結構人気のデザイナーさんでね、私より忙しい人だよ」
「……そうなんだ」
「でも私仲良しだから、もしかしたらお願いできるかも」
匂わせるセリフに、つい期待する目を向けてしまう。すると雛は面白そうにクスクスと笑って、何も言っていないのに「いいよ」とだけ言ってくれた。
「私もね、モヤモヤしてたの。もしかしたら宗佑くんは私の事が好きなのかもとか、でもいつまでも関係は平行線だし違うのかもとか、ずっと思ってて……それに疲れて無理やり恋人作って諦めた感じだったから、正直まだ完全には終われてなかった。でもやっと今日終われたよ。宗佑くんが、きっちり話してくれたから」
「……雛も、気付いてたんだ」
「当たり前でしょ。でも私、宗佑くんから告白される事ばっかり待ってね、自分からは何もせずに勝手に疲れてた。……最低だよね。人任せで、悲劇のヒロイン気取りで……」
分かるよ。だって俺もそうだった。
何も言わないくせに、気付いているだろと態度で示す。伝えなくても伝わっていると思い込んで、そうでない現実に直面すれば「思わせぶりだった」とか「裏切られた」なんて勝手なことばかりを考えて、全部を雛に押し付けて逃げる事を正当化していた。
「でもやっとスッキリした。……こういう話も宗佑くんからしてくれるの待ってるとか、やっぱり私は成長出来てないんだろうけど……これからはね、胸を張って彼に好きって言って、頑張っていこうと思う」
キラキラとした笑顔だ。それを見て、俺は無意識に数回頷いた。
「うん。……俺も頑張るわ」
「そうだね! だからまずは、斉賀さんにデザインお願いしなきゃね」
「頼むよ」
「予算とかあるの?」
「そこはほら、給料三か月分で」
「ベタ!」
雛はそう言うと、口元に手を当てて控えめに笑う。
それを見て、桐子さんを思い出した。雛の笑い方は、桐子さんに似ている。そういえば仕草も、口調も、雰囲気も似ているのではないだろうか。
(……最初はまったく違うと思っていたのに)
今は、雛が桐子さんに見えて仕方がない。
眼鏡を掛けているからもあるのだろう。
それにしてもおかしいくらいに似ているなと、今になってようやく気付く。
(そういえば……)
眼鏡を掛け始めた頃からではないだろうか。
言葉が柔らかくなった。仕草が女の子らしくなった。雰囲気が丸くなった。
以前の桐子さんをもう思い出せないほど自然に、緩やかに変化を終えている。
雛が桐子さんに似ているのではない。
桐子さんが、雛に似ているのだ。
(……どうして)
桐子さんは雛の事を知らないのに。ましてや俺が雛を好きだったなんて、知らないはずなのに。
おかしいくらいに似ている。いや、似せている、というのが正しいだろう。
だって思い出せる限り、桐子さんと雛は正反対だった。だから最初に腕を掴んだ時、自分勝手で最低な失望が過ぎったのだ。
それが、今はどうだろう。
俺はごくごく自然に、雛が桐子さんに似ていると思っていた。
その日はなんとか平静を装って雛との時間を乗り切り、すぐに桐子さんの実家に向かった。
それまでの「桐子さんが居なかったらどうしよう」とか「避けられていると突きつけられるのが怖い」なんて不安は、動き出した頃にはすでに跡形もない。
――もしかしたら、もう終わっているかもしれない。もしかしたら、すでに取り返しがつかないことになっているのかもしれない。そんなことを思えば、桐子さんに避けられている現実、なんてものよりも恐ろしい未来が訪れる気がして、動き出さずにはいられなかった。
すぐに確認しなければと、気持ちはとにかく急いていた。ただ一心にそこに向かい、そしてうっすらと思っていた事が現実であると理解する。
「あら宗佑くんいらっしゃい! ……え、桐子? 来てないわよ。宗佑くんと来てくれたっきりなの。あの子もすっかり顔出さなくなっちゃって、私もお父さんも心配してるんだけどねえ……」
俺の想像をはるかに超えて、すでに未来は歪んでいるのかもしれない。
俺が傷つきたくないと恐れている間に。俺がすべてから目を背けて逃げている間に。現実はただまっすぐに、一番最悪な方向へと突き進んでいたのかもしれない。
――ああ、聞いておくべきだったのだ。
吾妻が忠告してくれた時に、俺は包み隠さず「疑惑」の段階ではっきりとさせておくべきだった。
「……もしかしたらもう知っているかもしれないのに?」
吾妻の言葉がどこからか聞こえた。
それに背を押されるように、桐子さんとしっかり話そうと、そこでようやく覚悟が決まった。