第一話
「あ、この人……? 恋人なの。なんだか照れくさいね、幼馴染に紹介するのって」
幼い頃からいつも一緒に居た幼馴染は、俺の事が好きなのだと当たり前に思っていた。
何の確証も、何の裏付けもないただの過信である。だけどどうしてかその過信を俺はずっと疑わなかったわけで、だからこそ恋人を紹介された時には頭が真っ白になった。
特筆すべき点はないような、どこかですれ違っていそうな男が「初めまして」と軽く頭を下げる。そして「佐原さんの事は雛ちゃんから聞いてます」と気さくに言うと、初対面なんて気にさせないように親しげに笑った。
当たり障りなく、気も遣えるちゃんとした男だ。雛が好きになるのも分かる気がする。暴力的でもなさそうだし、今の段階では悪いところも見つからない。
それなのに、その場で俺だけが置いてけぼりにされていた。
「宗佑くん?」
「あ、うん。初めまして」
――なんで恋人なんか作ってんだよ。だって雛は俺の事好きなんじゃなかったのか。
そんな事を思っても、口から出てくる事はない。「何言ってるの?」と言われて傷つく事が怖かった。
ああ、なんだ。俺だけだったのだ。
今までの時間を特別に思っていたのも、きっとこのままずっと一緒に居られるなんて安心していたのも。
全部全部、独りよがりな思い込みだった。
それから少しの間は、雛に会うのが怖くなった。
雛は何も悪くないのに、お門違いにもきつく当たってしまいそうだったからだ。
とんだ勘違い野郎だった。それを悟られたくなかった。雛の前ではまだ格好つけたかったのだろう。みっともなくも残っていた恋心が、自身のプライドを守るために俺を動かしていた。
だからこそ、桐子さんを見つけた時に、とっさに体が動いてしまったのだ。
飲み物を買っていた桐子さんの後ろ姿を見て「何で雛が会社に」とつい腕を掴んでしまった。
桐子さんが振り返る前の一瞬で、雛ではないということは明らかだった。なのに放す事は出来なくて、振り返るのを待っている自分がいた。
「……え、え?」
困惑した表情。それを見下ろして、最低にも「やっぱり違う」と落胆する。
後ろ姿は完全に一致しているのに、彼女は顔を見てみると、当然ながらパッと見以外は雛とは似ていなかった。特に雛の事を長年好きだった俺が、彼女を見間違えるはずもない。
最初から雛ではないと分かっていた。俺のみっともない恋心が勝手に馬鹿らしい期待をしてしまっただけである。
――それでも。
腕を掴んだまま放せなかったのはきっと、そんなみっともない恋心が、まだまだ期待をしたかったからだろう。
「……え、と……宮岡です」
ああ、声も違う。
なんとなく期待していた心が、一つ一つ濁っていく。
「秘書課、で……今年三十ですけど……」
雛は「秘書課」なんて勤まる程しっかりしていない。それに年齢だってうんと違う。
違う。全部。何もかも。俺が好きな片寄雛紀とは、正反対と言える程に。
(……でも後ろ姿は)
一つでも希望は残っていた。だからこそ、関わりを持った。
好きだと言えば、桐子さんは嬉しそうに笑ってくれた。
雛とは違う表情で、雛とは違う声で俺に「私も好き」と言う。一つ一つ濁ったはずだった期待は、その頃にはすべて消え去っていた。
桐子さんの存在は存外心地よくて、出会ってから割と早い段階で雛と顔を合わせても平気になった。まだギクシャクとはしてしまっていたけれど、俺にはもう桐子さんが居る。そう思っていれば、雛と会って胸が痛んでも、桐子さんが笑いかけてくれるからとどこか強くなれたのだ。
だからこそ俺は、自分の心の変化に真剣に向き合うべきだった。
桐子さんがある日突然素っ気なくなったことから、緩やかな変化が始まる。
予定がなければ土日は二人でゆっくりと過ごす事が付き合ってからの「当たり前」だったというのに、桐子さんはある朝突然「休みだから帰る」と言い出した。
俺の予定も無いと言うのに、
「でもいいや。長居も申し訳ないし」
そう言って、あっさりと帰っていった。
いつもなら桐子さんは残ってくれていただろう。
だって桐子さんは俺の事が好きだ。瞳も、言葉も、態度や雰囲気だって、全てが俺に向いているのだと分かる。だから俺が一緒に居られると言うと、桐子さんは絶対に残る選択をするはずなのに。
一人になった部屋がなんとなく寒くて、再び布団に潜り込んだ。
(……桐子さんは、俺が好きなはず……)
だけど、本当にそうだろうか。
だって俺は、雛の事もそうやって勘違いしていた。あいつだって、俺の事を好きだと言う素振りを見せて、結局他の男と付き合っているのだ。
なら、桐子さんは。
桐子さんは本当に、俺の事を好き?
(……もしかしたらまた)
そんな予感がして、その日はどうにも動くことが出来なかった。
勇気を出して切り出す事もしないくせに、悪い未来を考えていっちょ前に傷つくことだけはする。
最低なのは分かっている。悲劇のヒロインかよと、自分自身でも罵ってやりたいくらいだ。
分かっていても、雛との事があって臆病になっているから、なんて言い訳をするくらいには、踏み込む事が恐ろしかった。
――そんな風に逃げていた俺に、天罰が下ったのかもしれない。
次の週、桐子さんは眼鏡を掛けていた。まるで雛が掛けているような眼鏡だ。形も色もまったく同じで、パッと見だけは雛と見間違う程に似ている桐子さんが、そのまんま雛に見える。
本当の本当に雛が会社に来たのかと思って、どうしてか営業のフロアに居た桐子さんを見て一瞬固まってしまった。
微笑んで、手を振られても。それは桐子さんのはずなのに、まるで違う人に思えた。
「おまえさあ、宮岡さんになんか言った?」
営業に出ていた吾妻が、帰社したと思えば俺を呼び出した。そうして第一声に言われたのがそれである。
自動販売機でコーヒーを買って開けながら吾妻を見れば、やけに真剣な表情をしていた。
「……何ってなんだよ」
「分かってんだろ。……宮岡さん、眼鏡掛けてたからさ」
「それで?」
「それで、じゃない。おまえ、片寄の事話したのか? あれじゃあまんま片寄だろ。本人は目が悪くてって言ってたけど……こんな偶然があるわけない」
かしゃ、と、吾妻がおしるこを開ける。甘党すぎるこいつは、いつだってこの自動販売機でおしるこを買う。こんな話の時にもブレないのかと、なんだか冷静に不思議に思えた。
「……なんも言ってない、けど」
「はあー……宮岡さんと付き合う事を止めれなかった俺が言える事でもないけどなあ、こういう事は拗れてからじゃあ遅いんだぞ。宗佑以外の口から片寄の事でも聞いてみろ、それこそ信用なんて無くなる」
「言ってどうなる。俺がフラれるだけだ」
「いっそフラれろ。その方がお互いのためかもな」
――吾妻にいったい何が分かる。俺がどれだけ長い時間雛を好きだったかを知らないくせに。どれだけ中身の濃い時間をあいつと過ごしたか。あいつがどれほど思わせぶりだったか。
なにもかも、知らないくせに。
「無理だろ。無理だ。別れたくない。今桐子さんと別れたら、俺はどうすればいいんだよ」
やっと雛と、普通に顔を合わせる事ができ始めたのに。
今更桐子さんを失うなんて考えられない。
「それで、どこまで隠せるんだ。宮岡さんには一生教えないのか?」
「教えない。そんなつもりはない」
「……もしかしたらもう知ってるかもしれないのに?」
「知ってるわけないだろ。言ってないんだから」
「だといいけどな。……俺は、宮岡さんにフラれる未来になっても、おまえはきちんと白状する奴だと信じてるよ」
ガコン、とおしるこの缶がゴミ箱に入れられる。ただのスチール缶のはずなのにやたらと重い音がして、少しだけびくりと体が震えた。
緩やかな変化だと思っていた。だけどもしかしたら、それは顕著だったのかもしれない。
土日は実家の手伝いで会えないと宣言された。マイナスの感情は見えなかったから、悪い意味合いではないのだろうし、本当に実家に帰る用事があるのかもしれないけど――タイミングがタイミングなだけに、避けられているのかという疑心は拭えない。
だから平日は会おうと伝えたのだけど、どうしてなのか、桐子さんの反応は微妙だった。
そんな反応だったから平日にも会えるという事にはなっても、心の隅っこで「もしかしたら」が引っ掛かって、手放しでは喜べない。
そもそも本当に、桐子さんは実家に用事があるのだろうか。
それが本当だったなら、桐子さんに変化はないと思ってもいいだろう。ただ単純にタイミングが悪く重なっただけで、桐子さんは本当に目が悪いだけだし、本当に実家に用事があって土日は会えないだけで、特に何にも気付いてなんかいないと。俺たちはこのままずっと一緒に居られるし、俺が桐子さんに捨てられるなんて未来は来ないのだと。
桐子さんの発言が全て事実ならば、そう信じられるはずだ。
(……なら今度、確認に……)
以前に一度だけ桐子さんの実家にはお邪魔した。だから場所は知っているし、行こうと思えば一人でも行ける。
そうだ。手土産を持って行ってもいいだろう。お久しぶりですとお母さんに挨拶をして、近くに来たから、なんて言えば、桐子さんも不審には思わないはずだ。一人で子守は大変でしょ、手伝うよと付け加えればその場に留まる理由もできるし、桐子さんのお母さんのことだから、そのまま夕飯まで一緒に居られるだろう。そうだ、それがいい。すごく自然な流れである。
(……だけど……)
だけどもしも、居なかったら。
桐子さんがそこに居なかったら、俺には「フラれる」という未来だけが取り残される。
そうしたら俺はどうするだろう。俺は今更、あの心地良さを手放せるのか。
罵られて、ぶん殴られて。果たして俺はそれだけで、桐子さんとの関係を終わらせられるのだろうか。たったそれだけのことで、はい終わりですと清々しく別れてしまえるのか。
桐子さんは。
俺との関係を、そんなことで終わらせてしまえるのか。
――そこで、ふと気付く。
俺はどうやら、桐子さんを代わりにしていたくせに、桐子さんと別れたくないと思っているらしい。
嫌われるのだって嫌だ。避けられるのだってすでに無理なのだから当然だろう。
かといって自分のした事を白状出来るのかといえばそれこそ本末転倒で、出来ればこのまま変わらず居られたら、なんて都合の良い事を考えている。
(……ひとまず、一緒に居られたらいい)
たとえば、俺が本当の事を言っても、桐子さんが離れられない様な環境はどうしたら生まれるだろう。桐子さんが「別れる」なんて言わないように、どうすればコトを運べるのか。
考えた末に、雛に連絡を取っていた。
そうして事情を説明すれば、雛はただ「出来るだけ調整してみるよ」とだけ言ってくれたのだけど。――雛ともきっと、これまでの事をきちんと話をした方がいいのだろうなと。
呑気にもまだ、そんな事を考えていた。