第七話
いつから間違えたのかなんて明らかだった。
宗佑くんの本当の気持ちを知った時、彼を思い切り罵って終わらせていれば良かったのだ。あの子になろうなんて、そんなことを思ってしまったのがそもそもの間違いである。「好き」なんて感情を優先させず、吾妻さんの言ったとおりあの時に「最低だ」と詰って別れるのが最善だった。
宗佑くんはただ、叶わない恋を諦めて私を受け入れる事にした。だから「好き」なんて言ったけれど、結局あの子の事も突き放しきれずに、そっちがうまくいってしまっただけである。
何が間違いで誰が邪魔者なのか、なんて、馬鹿にも分かる。
あの時に間違いを選ばなければ、こんな気持ちにもならなかったかもしれない。
熱いシャワーを頭から浴びて、落ち着いた頃にお風呂から出た。
宗佑くんの名残がある私の部屋は、匂いまで残っていそうで落ち着かない。部屋の隅っこに目をやっても思い出すのだからもう重症だ。
(……思ってたよりしんどいかも……)
以前の自分はどんな感じだったっけ。それも分からなくなるくらいには、私はすっかりあの子になってしまった。
バスタオルで乱暴に髪の毛をかき回して、何もしたくないからとそのままベッドにダイブする。
髪も乾かしていない。バスタオルだって干さないと。明日の準備もしてないし、電気だって消してない。何をするにも中途半端で、このまま寝ることも出来そうにない。
ああ、本当にやる気が起きない。
ピンポン、と、玄関の呼び鈴が鳴った。
夜の来客なんて、酔っ払いの間違い訪問と相場は決まっている。もちろん出るわけもなく、だけど寝ることも出来ないすべてが中途半端な状態で、目を閉じていた。
動きたくない。今はただその一心である。
すると再び呼び鈴が鳴る。これも黙殺して、深いため息を静かに吐き出す。直後にまた一つ音が聞こえた。間違いにしてはしつこいために、危ない人でも来たのだろうか。それならば尚更動けないなと黙っていると、今度は扉を軽く叩く音が聞こえた。
「……桐子さん」
本当に小さな声だった。幻聴とも思える程に抑えた声だ。それが微かに聞こえて、ぱっと上体を持ち上げた。
「……桐子さん。お願い。開けて」
ものすごく躊躇いながら、静かなノックが続く。
「お願い。桐子さん」
トン、と。その一回を最後に、音は止んだ。
「話をしにきた。……開けてほしい」
部屋の電気が点いているから、私が居るのは分かっているのだろう。
さっきの今で話があるなんて、どんな内容かは明らかである。
(どうせ言い訳しながらの別れ話だろうし……)
そもそも私は、八割くらいは別れた気持ちだった。宗佑くんの気持ちを知っていたと私の口から告げた時点で、私にとってはそれは終わりと同義だったのだ。
好きだと言ったのもきっと、勘違いだとか逃げだとかそういった類のもので間違いない。あの子とうまくいったのなら、このまま静かにフェードアウトしてくれた方がまだ楽だった。
音も止んで、言葉もなくなってから五分はしっかり考えた。その上で玄関に向かうのだから、私はやっぱり宗佑くんのことが好きらしい。
結局、惚れた方が負けである。最後の最後は折れてしまう。
(……どうせもう帰っただろうけど)
居ないと思って、躊躇いもなく玄関を開けた。
すると、静かに佇んでいた宗佑くんと視線がぶつかる。
数秒の間があいた。ぼんやりとしていたのか、宗佑くんは私が出てきたことにも気付かなかったようだ。その目に光が戻った頃、ようやく止まっていた時間が動き出す。
「あ、桐子さん。ごめん、夜に」
「……別に」
「風呂入ってた? 寝る前だったかな」
「まあ、うん。……寒い、し、入る?」
「……よければ」
どこか沈んだ声だ。私を探る瞳にも慣れない。
いや、機嫌を伺われていると言うのが正しいのか。
あの子を真似た私への対応しか知らないから、どうしたらいいのかも分からないのだろう。叫ばれたり暴れられたり、ましてや刺されたりなんかするかもしれないと思えば、確かにそういう目にもなる。
もしかしたら私たちは、ほとんど「初めまして」なのかもしれない。
言葉もなく促せば、宗佑くんはいつもの位置に腰を下ろした。
お茶は出さなかった。長居をさせるつもりが無かったからだ。
「何の話をしにきたのかはなんとなく分かるけど」
さようならと啖呵を切った後なのだ。何をしに来たのかも分からない程鈍いわけでもない。
だけどあの子なら「分からない」という顔をするのかもしれない。だってあの子は初心で純粋で可愛らしかった。
「私から話すことはないから。……だんまりなら、帰ってほしい」
口を開く様子がなかったためにそう言ってみれば、宗佑くんは弾かれたように伏せていた目を持ち上げた。
やっぱり、私の機嫌を測っている目だ。何かに怯えているようにも見える。
いつもは私が宗佑くんを窺っていたために、それと逆のことが起きている今が、なんだか可笑しいものにも思えきた。
「……俺たち、別れた?」
そこから? なんて、私の心の副音声でも聞こえたのか、ハッとした宗佑くんは再び目を伏せてしまう。
「いや、そっか。そうだよな。二股は最低で、俺みたいにはっきりしない男は嫌いって……さようならって言ってたしな。そうだよな」
「……それで、どうしたの?」
「どうした……?」
「片寄さんは? 置いてきたの?」
他意はなかった。ただ、本当に疑問に思っただけだった。
わざわざ私の顔を見に来たあの子は、私と宗佑くんの関係を知っていたのだろうか。
他の女が恋人と名乗って、身体まで許していた。まるで本当の恋人のように彼の隣を陣取って、デートもして、楽しげに休日を共にして――私があの子なら、代替品の恋人だったとはいえ、いい気分にはならない。
しかも、さっきの別れ際は最悪の空気だった。
けれどあれほど強烈に別れを見せつければ、あの子も安心出来たのではないだろうか。
「なんだよ、それ」
宗佑くんの声に、トゲが滲む。少し驚いて、つい身体を強ばらせた。
「俺が悪いのは分かってるよ。だけど、なんだよそれ。桐子さん、俺のこと本当に好きだった? そんなふうにあっさり言えちゃうくらいすぐ身を引けてさ、他の女のこと気にして、それって本当に俺が好きなの? ……いや、分かってんだよ。桐子さんは俺のことが好きだって。あいつになりきって俺に好かれようとするくらい好きでいてくれてるって、分かってんだけどさ……。けどもう、桐子さんの気持ちが見えない」
宗佑くんは悔しそうにくしゃりと顔を歪めると、一瞬の後には自嘲気味に笑う。
「……あー、いや……俺のこと、嫌いって言ってたんだっけ。好きではないよな……そうだよなあ……」
そうして誰に聞かせるでもなく、宗佑くんは諦めたようにつぶやいた。肩はすっかり落ちている。力ない姿で、どこか弱弱しくも見えた。普段から威風堂々としているところしか知らなかったために、そんな姿は初めてである。
だけどそんな姿を見ても、私は何も言えなかった。何かを言わなければという焦りもない。ただ宗佑くんが吐き出す言葉を素直に受け取って、冷静に整理するだけである。
もしかしたら吾妻さんが言ったように、私たちは歪みすぎたのかもしれない。
疲れた、と感じてしまった時点で、恋はすでに消えてしまったのだろうか。
「……最初はさ、確かに似てるって思ったんだ」
やけに細い声で、静寂の中に言葉が落ちる。
「初めて見た時には雛だと思った。だからとっさに腕を掴んだ。だけどよく見たら違ってて、どうしようかと思ったんだけど……でも俺、本当に長い間雛のこと好きだったから、引きずってて……」
「……うん」
「最初のひと月はね、ごめん。雛の代わりにしてた」
「知ってるよ。それについては別に、」
「聞いて」
責めるような強さもなく、怒っているようなトゲもなく。宗佑くんはあくまでも冷静に、落ち着いた声音で私の言葉を遮る。
「確かに、桐子さんと雛は似てたけどね、やっぱり違ったんだよ。何もかも違った。正反対かってくらい。好みも、仕草も、話し方も、声だって何一つ重ならないんだ。だからそれがすごく嫌で、最初は、無理に雛にしようとしたんだけど」
思い出すのは、デートの行き先や、映画の選択、そしてセックスの時には必ず後ろからしていた、なんてことだった。
(……あの頃はまだ何も知らなかったから……)
宗佑くんが本当は誰を好きかなんて気付いてもいなかった。だから私だってあの子になろうなんて思わずに、ただ「私」として宗佑くんと接していた。それに「違うな」と思うのも当然である。
「なんか、突然分かったんだよ。半月前くらいだったかな。……桐子さんが俺の家で料理してる時に、それ見てたら『桐子さんだなあ』って思えて。……ああ、違う。なんて言えばいいのかな……ストンと、不意に落ちてきたんだ。見えてなかったものは、実はずっと目の前にあった、みたいな」
半月前。思い出してもいつかは分からない。だけどその時期はちょうど、私があの子のことを知るほんの少し前ではないだろうか。
「大切にしようって思った。雛じゃなくて、桐子さんを大切にしようって。逃げたわけじゃないよ。雛がダメだったから桐子さんで妥協とか、そんなことでもない。……ちょっと前に、雛とよく話し合ったんだ。桐子さんが眼鏡を掛け始めて、その事で吾妻に怒られて……もしかしたら桐子さんが雛の事を知ってるかもしれない、なんて思ってる時に休日も会ってくれなくなったから、いい加減しっかり終わらせようと思って」
「……終わらせる?」
「そうだよ。今まで、俺と雛は曖昧すぎた。お互いが好きだって態度に出てたのに、告白もしないままで近くに居すぎたんだ。だから、よく話し合った。……そうしたらさ、やっぱり雛も俺を好きだったって言ってくれたよ。でも俺は恋人の桐子さんが好きだからって、きちんと伝えてさ。……雛も、今の恋人を大事にしようと思ってるって」
それが本当なら、二人が突然熟年夫婦みたいな落ち着いた雰囲気になったのは、二人がうまくいったからではなくて、むしろまったく逆の理由だったということだろうか。
お互いに踏ん切りがついて関係が曖昧ではなくなったから、ようやく気まずさもなくなって――。
「……俺は、桐子さんが好きだよ。俺が桐子さんにしたことも、桐子さんを傷つけたことも、何も無かったことになんかならないけど……これから絶対幸せにするから、俺とこのまま、最初からでもやり直してほしい」
宗佑くんは、真剣な瞳をまっすぐに向けている。
嘘はないと分かる。これは冗談でもない。きっとすべて、宗佑くんの精一杯の謝罪と私への気持ちなのだろう。
(……私を、好きだって)
ずっと欲しかった言葉だった。
あの子じゃなくて私を見てほしい。私を好きになってほしいと、確かにそう思っていた。あの子の存在を知った時から、あの子になりきっていた時から、長く待ち望んでいた言葉だった。
(じゃあこれで、私たちは幸せになれる……?)
だってそのためにあの子になった。宗佑くんに私を見てほしくて、あえて盲目的にそこまでしたのだ。そして宗佑くんは今、私自身を好きだと言ってくれた。それならあの子のことなんて考えなくていい。宗佑くんはあの子じゃなくて私を選んでくれたのだから、私も宗佑くんを好きだと伝えて、手を繋いで、これからを取り戻すみたいに側に居て、笑いあって、離れないように隣に居ればきっと。
想いを繋げて、心を混ぜ合う事が出来たなら、それで。
――それで、幸せになれるのだろうか。
(……シアワセに……)
あれ。おかしい。どうしてまだ、遠くに感じるのだろう。
好きだと言ってもらえたのに。宗佑くんが、私を選んでくれたのに。
――疑心なんて少しもないのに、どうしてなのか、宗佑くんとの未来が見えない。
「……ごめん、宗佑くん」
ああ、最低だ。
こんなにも幸せな現実が、まるで画面の中みたいに遠い。
「ごめん……」
好きだと思った。
今も変わらない。宗佑くんのことが好きだと胸を張れる。それなのにどういうわけか、素直に気持ちを受け取れない。
頬を伝う涙に、一瞬遅れて気が付いた。やがて、驚いたような宗佑くんも深く滲む。
「桐子さん……」
「ごめん。私も好き……でも、もう分からない……」
宗佑くんは少しだけ黙り込んで、そっか、とだけ呟いた。落ち着くまではずっとそばに居てくれて、それでもいいよと。それでも俺は桐子さんが好きだよと。宗佑くんは、何度も何度も言ってくれた。