第六話
「だから言ったろ、別れるとかありえないってさ」
がやがやと賑わう社食を背景に、吾妻さんはいつものように爽快に笑った。
根拠のない自信を携えた笑顔だ。それに釈然としないまま、ひとまず昼食のカレーライスを口に運ぶ。
「……別れてないとは言ってませんけど」
「嘘だろ。え、嘘だろ」
「本当です」
「あれ、桐子、社食なんて珍しくない?」
昼食を食べ終えたのか、食器を返した玲香は帰り際にやって来てそう言うと、一緒に居た吾妻さんに視線を移す。そうして軽く頭を下げた。
「佐原さん出てるんだ?」
「そう。玲香はもう食べたの?」
「食べたよ。……吾妻主任も居るから控えるけどさ……結婚の話、近々詳しく聞かせてよねー」
え! と。反応する吾妻さんを置いて、玲香はカラカラと笑いながら社食を出て行った。
控えると言った直後にこれだ。吾妻さんと宗佑くんの関係を理解している上で、吾妻さんはすでに知っているという前提での言葉だったのだろう。だけど残念ながら、吾妻さんは何も知らない。
「なに、結婚すんの? 宗佑と? 話ぶっ飛びすぎじゃない?」
「しませんよ。……玲香が勘違いしているだけです」
――あの後。
私が泣きやむまで抱きしめてくれていた宗佑くんは、私が泣きやんでからも変わらず微笑んでくれて、ご飯作るから待っててねと中断していた料理を仕上げた。
中華料理が得意らしく、鍋の中身は中華スープだったようで、冷めてしまった回鍋肉も温め直して、さらには炒飯も作ってくれて、二人で気まずい空気の中で黙々とご飯を食べた。
別れるとか別れないとか、それは今も曖昧なままだ。それでも私は家に帰る事もなく、もう見慣れた宗佑くんの寝室で、ただ抱きしめ合って眠りについた。
その中で、ジュエリーショップのことを口にはされなかった。あの子とのことも、これからのことも、宗佑くんは最後まで何も言わなかった。
結局どうなるのか。いや、どうなったのだろうか。彼がどういうつもりでいるのかさえ、私には何も分からない。
私たちは、別れたのだろうか。
「いやいや、宮岡さんと仲良い松尾さんが言うなら結構有力情報じゃない? いいと思うよ、結婚」
カチャン、と、思ったよりも大きくスプーンが鳴った。力を入れたつもりはない。他意もなかったためか、吾妻さんも気にした様子はなかった。
「……宗佑くん、片寄さんとジュエリーショップに行ってるんですよね」
私の言葉を聞いて、吾妻さんの動きが止まる。
「私と片寄さんが似てたから玲香は間違えてるんですよ。宗佑くんと一緒にジュエリーショップに入るなんて私しか居ないだろうって疑ってもいません。……それだけです」
「宗佑に確認は?」
「昨日聞いたんですけど……結局曖昧で、どうなったのか、何だったのかも分かってません」
もしかしたら、誤魔化されたのだろうか。
真実を隠すために優しくされただけで、抱きしめ合って眠ったあの時間は、私が思うよりも意味のない時間だったのかもしれない。
思い返せば、何一つ分かっていない。ああやって、まるで私の事を好きだというようにふるまって大切に扱えば、宗佑くんの事を好きな私なら流されると計算していたのだろうか。
「……私もいいと思いますよ、結婚。宗佑くんも二十八歳ですからね」
「片寄も二十八だしな?」
「そうですね」
「はー……やっぱりまだ疑ってたか」
「疑う?」
「宗佑と片寄のこと。……片寄は彼氏いんだぞ」
「……思ってたんですけど、吾妻さんて片寄さんとも仲が良いんですか?」
「俺は大学から宗佑と片寄と一緒だよ」
へえ、と、思った以上に興味のなさそうな声が出た。カレーライスを食べながら、吾妻さんには見向きもしない。そんな私を見て、吾妻さんは苦笑を漏らす。
「興味なさすぎるだろ」
「興味はありますよ。ただ、もう私には二人のことは関係がないだけです」
「別れた気持ちなのか?」
「……たぶん。そうなるんですかね」
「あっさりしてんね。……宗佑のことそんなに好きじゃなかった?」
好きじゃなかった。そんなわけがない。
あの子になりたいと思うくらいには、彼のことが好きだった。
(……だけど、あの日に全部、溢れて)
自分でも分からないうちに溜まっていた感情が、涙と一緒に全部流れ出た。
怒りも、悲しみも、彼を好きだという気持ちも全部。自分の中にすとんと落ちて、力強い腕に抱きしめられて、心の奥底から「幸せ」だと思えた。
あの瞬間、すべてを受け入れられたのだ。
宗佑くんが私を利用したことも。私を見てくれないことも。あの子を好きなことも。あの子と結婚することさえすべて、「もういっか」なんて、最後の幸福一つで受け入れてしまえた。
自分でも馬鹿だと思う。だけど、たった一度「私」を見て抱きしめてもらえただけで満足になるなんて、本当に宗佑くんのことが好きだったんだなと誇らしくも思えるのだ。
「……もう一回言うけど、片寄には彼氏が居るからな」
「知ってます」
「じゃあもっと自信持てばいいだろ」
「……見る限り、あの二人は両想いなんですよね? 自信がない片寄さんは宗佑くんを諦めるために彼氏を作って、宗佑くんはそれで自棄になって私に声を掛けて……引っ込みがつかなくなったって感じなんですかね」
「あー……」
遠からず、という顔で吾妻さんが声を出す。その反応だけで、確証はなかった宗佑くんとあの子の関係が、くっきりと形になったように思えた。
それでも気持ちは凪いでいた。あの優しい腕を思い出せば何も悲しいことはない。私は一瞬でも、宗佑くんにあの子ではなく「私」として抱きしめられたのだ。
「……半分ハズレ」
カレーライスを食べ終わって、スプーンを置いた頃だった。
しばらく何かを考えていた吾妻さんが、ポツリと小さくつぶやいた。
「……何がですか?」
「さっきの話な。……あの二人は確かに両想いだった。片寄は宗佑にアタックすることを諦めて彼氏を作ったし、宗佑も一時期自棄になってたけど、全部過去の話。だから引っ込みつかなくなったとかはないよ」
俺から言えるのはここまでだな。
そう言うと、吾妻さんは「そろそろ出るか」と苦笑を浮かべて立ち上がった。
宗佑くんから、今日は予定があるから会えない、と連絡が来たのはお昼休みが終わった頃だった。
今日も会う予定だったのかと、そんなことを一番に思ったけれど、よく考えたら半同棲だったために、宗佑くんの家には私の私物が溢れている。それの回収の話をするつもりなのか、はたまたこれからどうするかという話があるのか。どちらにせよ、確かに一度は会う必要があるだろう。
(はっきりさせないと……)
どうなるかなんて分かりきっている気もするけれど、こういうことは曖昧にしておいても良いことはない。
――ビルを出ると、外はもうひんやりと冷えた空気が漂っていた。
肌寒い季節である。着たら暑く脱げば寒いこの季節が、私には一番苦手だった。
そんな空気の中、早く家に帰ろうとふと視線を持ち上げて、そこに立っていた人物に気がついた。
よく見たら似ていない。だけどぱっと見れば、間違える程にはよく似ている。
彼女は私と目が合って、一度大きく瞠目した。そうしてすぐに違うと気付いて、だんだんと呆けた表情に変わる。
「……あ、あの、宮岡さんですか?」
「……はい……」
「やっぱり! 遠目に見たことがあったんです!」
出待ちをしてまで、この子が私に用事なんてあるわけがない。だとすればこの子が待っているのは宗佑くんということで、宗佑くんの「用事」はこの子ということだ。
「私、片寄雛妃っていいます。宮岡さんの彼氏の、佐原宗佑の幼馴染です」
「はい。初めまして。宮岡桐子です」
知り合うつもりなんかなかった。いや、知り合う必要はなかった、というのが正しいのかもしれない。これから先、私がこの子と関わる未来なんて来るはずがなかったからである。
「……あの……」
キョロキョロと周囲を確認した片寄さんは、言い難そうに言葉を切る。
宗佑くんが来る前にと思っているのか、そんな感情がありありと伝わった。
それなら、今から何を言われるのか。なんとなく分かってしまいそうな答えからは、臆病なままに目を逸らす。
「……宗佑くんから話、聞きました?」
「……話?」
「あっ、いや、まだですか。すみません、忘れてください。えっと、でも、近日分かるので……」
要領を得ない会話に、心が静かにささくれ立つ。
可愛いこの子はそれに気付くこともなく、とても愛らしい仕草で恥ずかしそうに頬をかくと、ふにゃりと柔らかな笑みを見せた。
本命の余裕かのような、そんな笑み思えた。
物分かりよく別れられると思っていたのに、どうやら私はまだ宗佑くんのことが好きらしい。
この子を前にして苛立ちしか感じない。恋人はまだ私なのだから出しゃばって宣戦布告なんてしに来るなと、そうやって怒鳴ってやりたい気持ちである。
そうすればこの子は泣くだろうか。いや、泣いてしまえばいいのだ。
これから宗佑くんと付き合って幸せになれるのなら、いっそのこと今、思いきり傷ついてしまえばいい。
「……近日?」
「はい。でも私からは言えなくって……だけど宮岡さんがイメージ通りの人で安心しました」
それは、さっぱりと別れられそうな女だったから?
カッと頭に血が上って、思わず手を振り上げていた。人が見ている。だけどどうしても止まらない。
私と宗佑くんの問題に、どうしてこの子が入ってくる。どうして、最後の最後に顔を出す。放っておいてくれたなら、きちんとこの子に返してあげられたのに。
悪いのは、全部この子だ。
「なにしてんの」
振り上げた手が、ぐっと優しく掴まれた。
「宗佑くん」
呼んだのは私ではなかった。だけど、宗佑くんは訝しげにまっすぐに私を見ている。
責められているように思えた。その目が、守る色をしていたからだ。
「……雛、会社には来るなって」
「だって宮岡さんに会いたかったし」
「そのうち会わせるって言っただろ」
「それじゃあ絶対遅くなっちゃうじゃん! それに、急いでたのは宗佑くんでしょ」
「こっちにもタイミングがあるんだよ」
区切りの良い所で、この子に向かっていた宗佑くんの目がゆったりと私に戻ってきた。何を言うつもりなのか、宗佑くんが息を吸い込んだところで、掴まれていた腕を振り払う。
乱暴な動きだった。これまでにないその仕草に、宗佑くんも驚いたように言葉を止めた。
「もういい」
思った以上に低い声が出る。それに、二人の空気が一気に固く変わる。
「……桐子さん?」
「もういいよ。こうして片寄さんとは会えたし、よく分かった」
「分かった……?」
よく見たら似ていない。性格もまったく違う。声も。口調も。何もかも似ていない。
最初から私は、ずっと無駄なことをしていた。
目の当たりにすれば明らかだった。あの子に対する宗佑くんの砕けた態度は、私に対するものとはまったく違う。
最初からずっと、私はただの当て馬だった。
「私、はっきりしない男って嫌いなの。二股とか最低。こっちから願い下げ」
落ち着いたはずの怒りを思い出して、そのまま言葉が溢れ出る。
すべてが許せたと思っていたのに。すべてを無かったものにして、このまま終われると思えていたのに。
「あなたのこと、無事嫌いになれそう。だからさようなら」
なんて嫌な女だろう。これまではっきりさせなかったのは私である。二股をさせたのも私で、宗佑くんをずっと繋ぎ止めていたのも私なのに、その私が自分の感情ひとつで彼を責めている。
分かっていても止められなかった。ささくれ立った心が、彼を責めてやれと叫んでいた。もっともっと罵れと、もっと傷つけてやればいいと、耳元で悪魔がささやくのだ。
――これ以上、ここに居てはいけない。それに気付いてすぐにその場を離れた。苛立ちにまかせて歩けば早足になって、幸いにもパンプスに疲れを感じることもなく踏み出せる。
少しだけ背後が気になった。
それでも振り返ることはできなくて、ただ早足で帰路についた。