第五話
宗佑くんは時間に正確だ。今時珍しくきちんと十分前には待ち合わせ場所に居るし、迎えに来てくれる時も早すぎず遅すぎないように三分前に呼び鈴を鳴らしてくれる。
約束の休日も、例に漏れず正確にやってきた。話があると言っていた割にはいつもの様子と変わらない。変わったのはあの子に似せていない私の服装だったけれど、宗佑くんは何も言わなかった。もう代わりは必要ないからだろうか。
結局、あの子でなければ愛してもらえない。私がどれほどあの子になりきろうとも、宗佑くんが必要としているのはあの子だけなのだと、言外に伝えられたような気がした。
「今日は俺が作るよ」
迎えに来てもらった後、映画を楽しんで宗佑くんの家に戻ってきた。いつもと変わらない様子でキッチンに立つ彼の姿を尻目に、ひとまず私はリビングのソファに腰掛ける。
もう何度も訪れた家である。けれど今日ばかりはなんだか気が引けて、来慣れているはずなのにどこかよそよそしい空気を感じた。
「桐子さん、苦手なものなかったよね?」
「うん。大丈夫」
答えを聞いて、彼はさっそく野菜を取り出す。
(宗佑くんが作るって……どうしていきなり……?)
いつもどおりだと思っていたけれど、もしかしたら認識違いだったのだろうか。
思い返せば、映画の時も少しおかしかった。
これまではずっと宗佑くんが観る映画を選んでいた。私には選択権は与えられず、すでに予約を取ってくれていたから拒否をすることもなく受け入れていたけれど、今考えれば、あの時観ていた映画はすべてあの子の趣味を考えて選んだものだったと分かる。あの子の存在を知ってからは代替品として当たり前のことだと思っていたし、もちろん今日だってすでに予約をしているのだろうと思って映画館に向かった。
しかしどういうわけなのか、今日は「桐子さんこういうの好きだよね?」と私の好みの映画を当ててみせた上に、それを観るのだと言い出した。今までにはありえなかったことである。
(宗佑くんの目的は……)
上機嫌に調理を進める彼を見つめるけれど、答えなんか見つからなかった。
「実は、桐子さんに紹介したい人が居るんだけど」
軽快な音の間から、宗佑くんがにこやかに話を振る。
「俺の幼馴染で、もうほんと小さな頃から一緒にいる子でさ」
女の子なんだけど。そう続いた言葉で、あの子のことを言っているのだとすぐに理解した。
私をあの子に紹介する。いや、あの子に私を紹介されるのか。
だけど、それはいったい何の為に?
悪い考えばかりが浮かんでは消える。さすがに自分にはまだ対面する勇気はないのだと、この時に初めて向き合えていないのだと知った。
ここにあの子が居ないから私は「愛される」。だけど顔を揃えてしまえばきっと、宗佑くんは私のことなんか眼中にも入れなくなる。
その瞬間を目の当たりにする勇気は、私にはない。
「…………だからさ、今度、時間もらえる?」
やけに探るような眼差しだ。緊張も含んでいるようなそれにどういう意味が込められているのか、分からないほど馬鹿でもない。
私とあの子が会うその時が、きっと終わりの時なのだろう。
「いいよ、暇だったらね」
「暇じゃなかったら時間くれないの?」
「……私はもう、私が最優先だからね」
わざわざ自分から傷つく選択をしなくてもいい。
暇だったら、なんてあの子は絶対に言わないであろう言葉を口にしても、宗佑くんは笑うだけだった。
その笑顔はやがて、少しばかり気まずい色を滲ませる。軽く息を吐くと、宗佑くんは手元に視線を落とした。
「俺さ、すっごい聞きたいことがあるんだ。桐子さんにね、教えてほしいこと」
野菜の焼ける音が聞こえる。いい香りがして、食欲が湧くようだった。
「だけどそれを聞くには、まずは俺から話さないといけないから、聞いてくれるかな」
手を動かしていないと気まずいのか、宗佑くんの視線はいまだ手元にある。
緊張と焦燥。感じる二つから別れ話かとも思ったけれど、今度あの子を紹介してくれるということは、その時まではこの関係は続行しているのだろう。
ともすれば、宗佑くんの話の着地点が分からない。
「うん。なに?」
「……実は……俺にはずっと、好きだった子がいて」
あれ。
その話をしてしまったら、私があの子に会う意味なんか無くなってしまう。
「さっき言った幼馴染なんだけどさ……何ヶ月か前に、そいつに彼氏が出来たんだ」
私の認識が正しかったとでも言うように、宗佑くんの口から真実が語られる。
すべてを知っているために動揺もない。何かを言いたいとも思わない。落ち着いてただ、静かに聞くだけである。
宗佑くんは、私があの子のことを知っていることを知らない。だからそわそわとして、不自然にも気まずそうに目を合わせようともしなかった。
「正直ショックだった。あいつも俺を好きなんだと勝手に思い込んでたんだ。……そんな時に偶然、桐子さんを会社で見かけた」
彼は料理が得意だったのだろうか。仕上がったそれが皿に移されると、美味しそうな香りがリビングで待っている私の元にまで届く。何を作ったのかは見えないけれど、お肉の香りはしている気がする。
「ごめん、最低な話だ。桐子さんは幼馴染に似てた。だから、つい声を掛けてしまった」
引き寄せられるままにキッチンに向かうと、宗佑くんはさすがに驚いたのかびくりと体を震わせた。
何を言われるのか。そんな緊張がひしひしと伝わる。
ああそうか。このタイミングで来てしまったら、責められるとか怒られるとか、そう思って身構えるだろう。良い匂いにつられただけなのだけど、変に誤解をさせてしまったらしい。
「あ、回鍋肉だったんだ。すごいね、素使わなかったよね?」
「――……え?」
「美味しそうな匂いだなって思って。宗佑くん、料理上手なんだね」
そのままリビングには戻らずに、ダイニングテーブルに大人しく座る。
「いや、えっと……」
「聞いてたよ、ちゃんと。だけど知ってたから別に気にしてない。気負わなくていいよ」
こんなことを言えば、吾妻さんみたいに驚くものだと思っていた。けれど宗佑くんはそれまでと変わらない難しい表情で、もう一度「ごめん」と繰り返す。
「吾妻から聞いてはいた。確証はないけど、桐子さんはもしかしたら知ってるかもしれないって。桐子さんが眼鏡を掛け始めたあの日に、少し怒られた」
そういえば、あの時営業フロアで吾妻さんと話したかもしれない。あそこで何かを察したのだろうか。あるいは、浮かれた私が不用意な言葉を残してしまったか。
「そうなんだ。私は別に良かったよ。だって眼鏡を掛けてれば、宗佑くんは私をもっと好きになってくれたから」
「……服装も変わってたね」
「そう、勉強したの」
「ふとした表情も、ちょっとした仕草も?」
「そうだよ。全部あの子のコピー。……よく見たら顔は似てないから、そういうところで補わないとって思って」
似てたでしょ? なんて他意なく聞いたのだけど、宗佑くんはやっぱり難しい顔で手元を見つめていた。
まな板の上で止まったままの手。近くではぐつぐつと鍋の煮える音が聞こえる。
「宗佑くん、弱めたら?」
「あ、うん」
溢れ出しそうだった鍋は、無事に温度調節で救われた。
「……どうしてそこまでしたの。俺のこと怒ったりせずに」
宗佑くんがそれを聞くのが、なんだか面白くて笑ってしまった。
だって、それを望んでいたのは彼のほうだった。私の変化に満足していたはずだ。それなのに今更第三者が気になりそうなことを聞くなんて、矛盾しているような気がした。
「宗佑くんのことが好きだからだよ。……怒ったり、泣いたり、叫んだり、そんなことをしたら別れるとか言い出すでしょ? それが嫌だから私は受け入れたし、宗佑くんも私もハッピーになれる未来にしたかった」
そんな未来に、なるはずだった。
いったいどこから間違っていたのか。
あの子に近づくほど、ぼろぼろと幸せが壊れていった。
「幸せ……幸せだったよ。うん。確かにシアワセだった」
宗佑くんがとうとう鍋の火を止める。出来上がったのか中断したのかは分からない。しっかりと手を止めたところを見れば中断とも思えるけれど、あの鍋はもうあのまま放置しても出来上がりそうだ。
「……それなら今眼鏡を掛けてないのはなんで? 服装が、雰囲気が、仕草が……全部桐子さんなのは……?」
あのウェリントンは手元にない。もう飾る必要も、偽る必要もないと思ったからだ。
それをどう思ったのか、宗佑くんは泣きそうな顔で私を見ている。最後まで飾ったままで居てほしかったのに、という意思表示ではなさそうだった。
「全部俺が好きだからしてくれてた。俺に愛されたくてしてくれてたんなら、それを全部やめた意味は……?」
切なげな瞳が伏せられる。
「なあ、都合がいいって笑ってほしいんだ。調子が良すぎるって罵って、俺を思い切りぶん殴ってほしい」
泣いているのかと思った。だけどそんなことはなくて、声が震えているだけだった。
自嘲的な言葉に、嘲笑が貼り付けられた。危ういその表情には思わず胸が締め付けられる。
「……好きだ。好きになってた。俺は、あいつに似ているからじゃなくて、桐子さん自身を好きになった」
表情や声のトーンは、真実を語るもので間違いはない。
夢のような言葉だ。宗佑くんがあの子ではなく私を愛していると言った。これ以上のことはない。何よりも望んでいたはずのことである。
だけどどうしてだろう。嬉しいと思うのに、一線の向こう側に感情を置いてけぼりにしたみたいな感覚で、ごくごく冷静にこの状況を見ている私が居る。
――ああそうか。だって彼は知らないのだ。
あの子になりきった私しか知らない。だから平気で「好き」なんて言える。
最初は確かに「私」だった。だけどあの頃には彼の方が私をあの子にしようとしていて、そして最近では私があの子になろうとしていた。
きっと彼は私がどれほどあの子と違うのか、もう覚えてもいないのだろう。
深層心理ではただあの子から逃げているだけではないかと、心のどこかでそう思ってしまえば彼の言葉もまったく響かなかった。
「勘違いだよ」
視線を向けると、迷子になった子どものように呆けた表情の彼と視線がぶつかる。
「気のせい。間違えてる。全部錯覚なの」
「……違う、違うよ。俺は本当に、」
「もういいよ。早く本題を話そう。……あの子と結婚するんでしょ?」
ぴくりと、宗佑くんの眉が揺らぐ。
「なに……なんでいきなりそんなこと……」
「二人でジュエリーショップに行ったのを知ってるから。……今度私とあの子を会わせた時に言おうと思ってたのなら、ごめんね」
もっと感情的になるものだと思っていた。本当のことを話す時にはきっと宗佑くんを責めてしまうと、出来るだけ冷静でいられるようにしなければと覚悟をしていたほどである。
けれど案外落ち着いている。自分の感情がどこにあるのかも分からなかった。
「今更変なことを言って繕おうとする宗佑くんがいけないんだよ。最後まで嘘をつきたいのなら、ここで種明かしなんてするべきじゃなかったのに」
「……嘘じゃない」
「私は本当は躊躇いもなく物を言うし、気も強いしマイペースなの。控えめで大人しくて清楚なあの子とは正反対で、宗佑くんの好みじゃない。……そもそも、結婚を決めた相手が居るのにその場しのぎに私に好きって言うのは不誠実だと思う」
「その場しのぎなんかじゃないよ、俺は本当に桐子さんが、」
「可愛いって言った」
言葉を遮られたからか、宗佑くんが不安げに息をのむ。
「私があの子に近づくたびに、宗佑くんは可愛いってたくさん言った。それまではそんなこと言われたことなかったのに」
可愛いね、その服似合うねと、そう言われるたびに世界が色褪せて見えた。
幸せだと思っていたはずだった。嬉しかった。もっと愛されたかった。確かにそう思っていたのに、私の心は感情とはまったく反対に動いていた。
「……それを望んだのは私なんだから、今更気を遣わないで。……あの子も宗佑くんのことが好きだって気づいてもいたの。だからいつかは本物のところに行くんだろうなってちゃんと分かってたから」
「……ごめん」
「いいよ。擬似的にでも愛してもらえて嬉しかった。……あーあ、暗い感じに終わるつもりなかったのになぁ……」
せめて最後は笑顔居ようなんて、そんな映画みたいな終わりを考えていた。
華やかなエンディングで彼はあの子の手をとって、エンドロールの裏側で偽物はただ静かに涙を流すのだ。
現実はどうにもうまくいかず、華やかでもなければ涙さえも出てこない。
「俺の身勝手な都合で、桐子さんを傷つけてごめんね」
傷つけた。そう言われて初めて、すとんと心に何かが落ちた。
私は傷ついていたのだろうか。
最初から全部知っていたし、このシアワセは続かないことも分かっていたはずだ。
それでも私は、傷ついたのか。
(……そっか……胸が、痛いのは……)
うっすらと感じているだけだった、強がりに隠された痛み。気付いてしまえばもう手遅れで、ようやく涙が溢れてきた。
ほろりと一つ流れたそれは、気が付けばボロボロと溢れて止まらない。
「あ……はは、分かってたのにね……変なの……泣いてる」
変なの。まるで被害者みたい。
私が望んだことだというのに、さながら悲劇のヒロインのようだ。
(変なの。変なの……今更、怒りを感じるなんて)
最低。ひどい。好きにさせるだけさせておいて、軽く捨てるとかありえない。
そんな感情が今更になって浮かんでは、口から飛び出す前に消えた。
涙は止まらなかった。
映画の幕引きらしいラストシーン。ここで一発殴れば、「衝撃のラスト」と言わしめることが出来るだろうか。
「ごめんね。嬉しい。……今まで分からなかった桐子さんの感情が、今は全部手に取るように分かる。俺を好きだって言ってる。ごめん。桐子さんが今泣いていることが、傷ついていることが、嬉しいんだ」
彼は嬉しそうに笑って私の元にやってくると、そのままぎゅうと抱きしめた。
いつもと同じ腕だ。けれど代替品を抱くにはあまりにも慎重で、そして少し震えていた。