第四話
残念ながら現実はまったく優しくなくて、時は無情に巡るものである。
いつもどおりに仕事をこなしていると、あっという間に週末を迎えた。
金曜日の浮き足立ったオフィスが、今日ばかりはどうにも気まずい。普段は落ち着いている先輩はやはり金曜日は嬉しいのか、口元が常に笑っていた
「あっ!」
隣から後輩の焦った声が聞こえた。
しかし楽しい空気の中で、それは特に目立たない。気付いたのは私だけだった。
「どうしたの?」
「あ、えっと……昨日が期限だった経費申請、出し忘れてて……常務の接待分なので、結構金額も大きいんです」
「あー……ちょっと聞いてみるよ」
こういう時、経理に同期が居るとスムーズに話が進む。後輩から「すみません」と涙目に感謝されながら、内線を経理課に繋いだ。するとしばらくもしないうちに通話状態になり、幸いにも相手は玲香だった。
「秘書課の宮岡です」
『あらー、なに、珍しいね。どしたの?』
「昨日が期限だった領収書ってまだ申請通る?」
『ああ、うん、今日の十六時までならオッケー。あ! でもそれ広めないでね、期限は守ってもらわないといけないんだからね、ちゃんと「無理に通しました」って感じ出してね』
「わかってるよ。ありがとう」
『そうだ。電話借りてごめん、話は全然違うんだけどさ……この間、佐原さんとジュエリーショップ行ってなかった? 何も聞いてないけど、とうとう結婚とか?』
わくわくしたその声からは、悪意は一切感じられない。本当に嬉しそうな声で、玲香は「おめでとう」と言葉を続けた。
玲香は気付かなかったのだ。
宗佑くんと一緒に居たのが、私ではなくあの子だったということに。
(……あの子と、ジュエリーショップに行ったんだ……)
それなら、明日したい話とは何なのか。もう分かっていたはずなのに、心が重たくなっていく。
『桐子?』
「あー、うん、ありがとう。また報告する」
『そうして! じゃ、申請の件はくれぐれも伝え方間違えないでね』
静かに内線を戻して、後輩に「今回だけいいよって」と伝えると、急いで申請書を作成していた。生真面目なのは美徳だ。この後輩なら「あの時やってくれたんだから今回もして!」と、そんなことも言い出さないだろう。
後輩に感謝をされながら、何事もなかったかのようにパソコンに向かう。けれど集中はできなくて、なんとなく携帯を持ち上げた。
(……明日十三時に迎えに行く、か……)
宗佑くんからのメッセージを見返せば、自然とため息が漏れた。
終わりはもうすぐそこである。その時を、あの子になりきって迎える必要はあるのだろうか。
(何をしたって無駄なのに)
幸せになれると思っていた。私があの子になりきれば、私も宗佑くんも二人とも幸せに暮らせると心から信じていた。
けれどどうしてだろう。あの子に近づくたび、あの子になりきった私に宗佑くんが笑いかけるたびに、幸せが遠く離れていくような気がしていた。
今が一番幸せだと自己暗示を掛けてみせても、一瞬の後にはふと気付くのだ。
振り返れば何もない。誰もいない。残るのは虚無感と、醜く濁った「幸福」だったもの。
心が乾いて、胸が痛む。
私は今まで何をしていたんだっけと、次には何も分からなくなる。
デスクのそばに置かれたウェリントンを、指先でつつく。
それがなくなっても、視界はあまり変わらない。伊達を掛けるには気恥ずかしくて、せめてもとブルーライトカットの眼鏡を選んだ。
もう必要もないだろう。二度と掛けることもないそれをデスクの隅に追いやって、見ないようにと今度こそパソコンに向き合った。
――今日は花の金曜日だ。秘書課も相変わらず浮かれ気分で、みんなぞろぞろと定時には帰っていく。もちろん私も例外ではなく、特に予定は無いけれど、仕事も終わったために秘書室を後にした。
エレベーターの中も明るい空気に包まれていた。やはり連休とは楽しみなのか、どこを見ても誰の表情も明るい。その中で一人、私だけが暗い顔をしていた。
「よ、宮岡さん」
オフィスビルを出たところで、吾妻さんから声を掛けられた。営業課の人と会うのはなかなか稀なために、もしかしたら待っていたのかもしれない。
「お疲れ様です、吾妻さん」
「おう。……ちょっと時間あるか」
「まあ、はい。……ありますが」
吾妻さんが私に用事なんて、本来ならばあるわけがない。もしも何かがあるとするなら、それは共通の知り合いである宗佑くんのことで間違いはないだろう。
特に予定もないために、吾妻さんの誘いを断れなかった。了承のままについて歩けば、吾妻さんの行きつけだという居酒屋に案内してくれた。
個室があるから快適らしく、おすすめだから今度は宗佑と来てよと言われたけれど、その約束には頷けない。"次"がないことは私が一番よく分かっている。嘘をつくのも違うかなと、そこは曖昧に受け流した。
「いや、実は今日こうして誘ったのはさあ……」
当たり障りのない会話を楽しんで、お酒も回った頃だった。吾妻さんはようやく本題に入るらしい。
「宮岡さんのことが気になっててね」
「……私の何がですか?」
「んー、様子? ほら、この間言ってただろ、今の宮岡さんの方が宗佑が嬉しそうだってさ……どういう意味かなって、ずっと気になってたんだよ」
もう何杯目になるのか。ビールを飲み干してジョッキを空にすると、吾妻さんはもう一杯頼むつもりなのか、呼び出しボタンを軽く押す。
「なんでそんな事を吾妻さんが気にするんですか」
「……俺はあいつの同期でライバルで親友だからね。これでも幸せになってほしいとは思ってるんだよ。……宮岡さんが今眼鏡を掛けてないのも、ここ最近の変な様子と関係ある?」
デスクの隅っこに放置してきたウェリントンを思い出した。もう必要もなくなった小道具だ。
「……まあ最後だし、言っても良いかなあ……」
「最後って?」
「私たち別れるんです。だからもう飾る必要がないというか……だから外したんですよ、眼鏡」
軽い音を立ててカクテルの氷が溶けた。お酒の弱い私はまだ二杯目だ。吾妻さんのペースに合わせていたら潰れると途中で気がついて、マイペースに飲んでいたらこの結果である。
おつまみで頼んだ枝豆に手を伸ばした。同時に、吾妻さんの新しいビールがやってくる。
「……え。え? ちょっと待って」
「空いたジョッキください」
「あ、うん。ありがとう……いや、そうじゃなくて」
何故か混乱している様子の吾妻さんを置いて、店員さんにジョッキを渡す。空いた器も下げてもらった。その間もずっと「なんで? ねえ、なんで?」と疑問を口にしていた。
それがどうしても不思議に思えた。吾妻さんほど宗佑くんの近くに居る人なら、事情はすべて知っているはずである。
「……吾妻さんが一番分かってるんじゃないですか?」
しれっとした目で吾妻さんを見た。あの子が絶対にしない冷たい目である。
あの子になりきるのをやめて改めて気付く。私たちはあまりにも違う。「演じていた」のだと、はっきりと感じられるほどだった。
「……それってさ、片寄が関係あるよな、やっぱ」
「片寄さん?」
「あいつの幼馴染。……って言えば分かるだろ」
あの子は"片寄"という名前だったらしい。もう関係もなくなる頃に名前を知るなんて、なんだか変な感覚である。
「あー、のさ……その、愛想つかすのはもう少し待ってやってくれないかな。あいつも宮岡さんのこと真剣に考えてるし」
「……なんの話ですか?」
「……ん?」
どうして私が「宗佑くんに愛想をつかす」という話になっているのだろうか。
そもそも私はそんな立場ではなかった。いつだって主導権は宗佑くんにあって、この関係を終わらせるのも、代替品が不要になったからなのだ。
(……言ってない、のかな……)
あの子と付き合うことになったということも、もしかしたら親友相手にでも言い難かったのかもしれない。普通の人の感覚なら「今付き合ってる人はどうするんだよ」と責めるに決まっている。宗佑くんは、そうやって責められる未来を避けたのだろう。
私との関係をしっかりと終わらせてから吾妻さんに報告しようとしていたのか。もしもそうなら、先に言ってしまってなんだか申し訳ない気持ちにもなった。
「えっと……とりあえず、吾妻さんが思うほど複雑なことでもないので大丈夫です。あとは宗佑くんから聞いてください」
突然、肩の力が抜けた。案外私は、あの子になりきるということに疲れていたのかもしれない。
心の底からあの子になりたいと思っていたはずだった。ずっとずっと、宗佑くんに好きになってほしいと思っていた。だけどもう頑張らなくていいのだと思うと、途端に心が軽くなる。
言葉の裏を探るように考えていた吾妻さんは、少し後にふうと短く息を吐いた。
「聞いていい?」
「はいどうぞ」
「……宮岡さんは、片寄の事を知ってたよね?」
「はい。宗佑くんがその子を好きなことも知っています。その子に恋人が出来て、私を代わりにしたのも全部」
あまりにもさらりと言ったからか、吾妻さんは一瞬呆気に取られていた。しかしすぐに「待って」と頭を押さえる。
「え、じゃあ何であいつと付き合ってたの? 普通知ってたら付き合わないというか……付き合ってても別れるよね?」
「手遅れといいますか……あの子の存在を知ったのは、すでに宗佑くんを好きになった後だったんです。……代わりでもいいかなと思いました。宗佑くんに好きになってもらえるのならと、あの子の真似を始めたんです」
「ああ、なるほどね、繋がった。それで眼鏡か」
呆れた顔でやっぱり頭を押さえたまま、吾妻さんは数度軽く首を振った。酔いが回りますよと言ってみれば、そうじゃないだろと低い声が返ってくる。
「あの……私別に怒ってませんよ」
「あいつを止められなかった俺が言う立場でもないけど……怒るべきだよ。むしろ何で怒らない」
「だって、結局付き合ってたのはあの子じゃなくて私です。それなら愛してもらえるように、私があの子になればいいだけの話ですから」
「……おかしいよ、宮岡さん。それはすごく歪だ」
相手のことが好きなら普通だと思っていたそれは、どうやら一般的には「おかしい」ことらしい。言われても分からなくて、自然とぎゅっと眉も寄る。
「歪?」
「普通、という表現が正しいのかは分からないけど……だいたいはね、そういった時には泣いて相手を責めるんだよ。殴ったっていい。詰ってやれば良かったんだ」
「でも、好きなんですよ? あの子になるだけで、私は愛してもらえるのに」
「それは宮岡さんが愛されてるわけじゃない」
キッパリと言い切って、何故か吾妻さんが苦しそうな顔をした。
当人は私だ。それなのにどうして私が平気な顔をして、吾妻さんが傷ついているのだろうか。
「俺もね、宮岡さんを見つけたあいつを止めきれなかった。だから本当に、偉そうに何かを言える立場でもない。……ごめんね。あいつも宮岡さんも幸せそうに見えたから、なんだかんだ丸くおさまったんだと思ってた」
「……謝られている意味が分かりませんが……どうせもう別れますから、気にしないでください」
「いや、そう、そこも。……別れるって、なんで?」
「それは明日にでも宗佑くんから聞いてください」
「あいつが宮岡さんと別れるとかあえりえないと思うから、今聞いてるんだよ」
吾妻さんは「頭が痛い」と小さく呟いて、渋い顔でビールを飲む。
この人はいったい、何を根拠に「ありえない」と言っているのだろう。
宗佑くんはあの子とジュエリーショップに行った。その先に続く未来が分からないほど、私は馬鹿でも鈍感でもない。
ああ、そうだった。聞いていないのだ。
吾妻さんは、宗佑くんとあの子の恋の結末を知らない。
「……まあいいじゃないですか。吾妻さんが歪だって思うこともありえないって言ったことも、明日には全部考えなくていい事になります」
「……あー、もうどうしよう……ごめん宗佑……」
どこか落ち込みながらも、吾妻さんは「それでも」と言葉を続ける。
「その感じ、いつもの宮岡さんて感じで安心した。……前まではなんか、無駄にしとやかだったからさ」
「だって、もう私はあの子にならなくていいから」
「そうだね。いいよ、そのまんまで。……宗佑とさ、よく話し合ってよ。きっかけは確かに片寄だったかもしれないけどさ。人間、変わるもんだから」
「……変わる?」
「そう。宮岡さんは魅力的だからね」
意味の分からないことを言って、吾妻さんが呼び出しボタンを押した。
吾妻さんの前には、空っぽになったビールジョッキがポツンとあった。いつの間に飲み干したのか、どうやらまだ飲み足りないらしい。
「もしも宮岡さんが言ったように、宮岡さんが傷つく未来になったならさ」
元気よくやってくる店員さんを見て、吾妻さんがふっと笑う。そうして、
「俺を頼ってもいいからね」
ただ静かに、そんな事を言った。