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身代わり成就  作者: 長野智
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第三話


 その週の土曜日には、宗佑くんの後をつけた。あの子と会うのは分かっていたし、これからはより深く、あの子のことを知りたいと思ったからだった。


 二人は仲良さげに、楽しそうに笑い合う。


 入った喫茶店で真後ろの席に座れば、二人の会話も筒抜けだった。どれほど気さくな関係なのかも、その会話の調子から分かる。

 会話の中でまずわかったのは、あの子はどうやら、宗佑くんとは幼馴染ということだった。

 宗佑くんの実家のお隣に住んでいて、小さな頃から一緒に居たらしい。清楚で大人しい雰囲気に、控えめな性格。優しい彼氏が出来たけれど、たまに宗佑くんを切なそうに見つめる事がある。

 宗佑くんが私に声をかけた時期は、もしかしたら失恋直後だったのかもしれない。

 でもなければあの子のあの切なげな目に気付いて、手を伸ばさないはずがないのだ。


 一つ一つを拾い上げて、一つ一つを繋げていく。


 先にあの子が宗佑くんを諦めて、宗佑くんではない人を彼氏にしたようだった。

 宗佑くんはもちろん落ち込んだけれど、私と出会ってそちらで満足してしまった。だから諦めようとしている宗佑くんはあの子の視線にも気付くことなく、可哀想なことに偽物ばかりを追いかけている。二人は両想いなのに手も取り合えず、壮絶なすれ違いを現在進行形で繰り広げているらしい。


 この休日、宗佑くんとあの子を観察して、そこまでがなんとなく理解出来た。


 そういえばこれまで、セックスをする時は後ろからが多かった気がする。

 最近はあまりないけれど、最初はずっとそうだった。後ろから、もちろんキスをされる事もなく、「声は出すな」とでも言うように口は押さえられていた。

 どうして私はあの時、愛もないあの行為に、愛を感じていられたのだろうか。

 恋は盲目とはいえ、私はあまりにも盲目過ぎたのではないだろうか。


(……最近前から触れてくれるのも、私があの子に近づけているからで)

 眼鏡を外さないようにすれば、彼はずっと向き合ってくれる。

 もっともっとあの子になりきれば、彼は長く愛してくれる。大切にしてくれる。一緒にいられる。ずっと、手を繋いで歩いていける。


 幸せだ。幸せなのだ。

 今が、一番。

 そう思うのに――どうして心は、まったく満たされないのだろう。


 気がつけば、あの子になるための努力を始めて、ひと月が経っていた。

 服装や、細やかな表情、食の好みまで。あの子と宗佑くんが一緒に過ごしているところを遠目に見つめては、一つも見逃さないようにとメモをして覚えていく。

 だけどやっぱり、顔だけはよく見たら似ていない。間違えそうになるのはパッと見だけだ。そこはどうにも解消できそうにないから、眼鏡で誤魔化すことしか思いつかなかった。

 以前までの行為が嘘のように、最近の宗佑くんは正面から触れてくれる。だけどよく見られたらいけないからと、今度は私の方が後ろからを望むようになった。口も押さえられなくなったけれど、これも私が声も出さないようにと我慢している。

 これまで強いられていたことを、今は私が進んでおこなっている。それに気付いた時には、つい乾いた笑いが漏れてしまった。


 だけど仕方がないのだ。本当に些細なところから「やっぱり違うな」と、そんなふうに見限られたくなかった。

 あとは何が足りないだろう。あとは何をすれば、もっと彼に近づけるだろう。

 どうすれば、もっともっと愛してくれるのだろうか。


「お、宮岡さん。今帰り?」

 オフィスビルを出る直前で、背後からぽんと肩に手を置かれた。

 聞き慣れた声だった。そのため特に驚きもなく、にこやかに振り向いてみせる。

「吾妻さん、お疲れ様です。今帰りですよ」

「そうなんだ。宗佑は一緒じゃないの? あいつ定時でめちゃくちゃ急いでオフィス出てってたけど」

 ――今日は予定があると言われた日だ。相手が私ではない、という事は、あの子と一緒に居るのだろう。


 情報収集が出来る日だととっさに思ってしまうのは、もう末期なのかもしれない。今すぐにでも宗佑くんを見つけ出して、あの子のデータを集めたいと思ってしまう。


「一緒じゃないですね」

「え、あー、そうなんだ。そっかそっか、ごめん忘れて」

「どうして忘れる必要が?」

「……だって嫌でしょ、彼氏が自分の知らないところで何かしてるってさ。疑っちゃわない?」

 疑う、もなにも。彼はただ、今日は本物と過ごしているだけである。偽物ばかりを食べていたら本物が欲しくもなるのだろうし、それの何を「疑う」というのか。

「別に。……息抜きは必要ですよ。毎日私の相手をさせては申し訳ないですし」

「彼女なのにすごい控えめだね。びっくりした」

「控えめ?」

 それは、あの子の印象である。もしかして私は以前よりも、あの子に近づけているのだろうか。

「私、大人しくて控えめで、純真無垢な女の子に見えますか?」

 期待を込めて聞いてみると、吾妻さんは訝しげに眉を寄せた。

 どこか曇った瞳だ。そういえば吾妻さんは、確証はないけれどあの子の事を知っている感じだった。

「……なんで?」

 ああ、失敗したと。吾妻さんの表情を見て、直感的にそれを感じた。

 二人の邪魔をしようとしていると疑っているのかもしれない。吾妻さんは宗佑くんの同期だから、宗佑くんの味方なのだ。

「宗佑がそうしろって言ったの?」

 これは、どう答えるのが正解なのか。分からないけれど、嘘をつく意味もないためにゆるく首を横に振る。

「いいえ、宗佑くんはなにも」

「そういえば宮岡さん、以前よりも随分落ち着いたよね。キビキビはきはきしてたイメージだったのに、しとやかになったというか」

 つまり、あの子になれているという事だ。嬉しくて「ありがとうございます」と素直に返せば、納得出来ないのか、吾妻さんはさらに表情を固くする。

「……眼鏡をかけ始めた頃からだよな、変わったの」

「変ですか?」

「俺は前の宮岡さんの方が好きだよ。飾ってなくて」

「だけど今の方が幸せなんです。宗佑くんも嬉しそうだし」

 そこで、早く情報収集に行かなければと思い出した。宗佑くんにもっと愛されたいのなら、こんなところで会話を楽しんでいる場合ではない。

「え、宮岡さん、それってどういう意味、」

「じゃあ吾妻さん、お疲れ様でした。私は急ぎの用があるので失礼します」

「いやちょっと待って、」

「本当に急ぎなんです。また明日」

 吾妻さんを振り切って、宗佑くんとあの子の行動範囲へと向かった。


 二人はだいたい決められた範囲内で楽しんでいる。それに気付いたのは、情報収集を始めて間もない頃だった。宗佑くんは通うお店を開拓していくイメージがあるから、もしかしたらあの子が冒険をしない性質なのかもしれない。二人は今日も、待ち合わせ場所にもよく利用しているカフェにやってきたようだ。


(あ、でも、カフェから得られる情報はもうないかな……)

 すでに何度かこのカフェで二人を目撃している。その時におおよその情報は得ているし、今日もずっとここに居るのなら、これ以上二人をつける意味はない。

 ランチをしたら出てくるだろうか。いつものデートコースだと、ランチが終わると二人であの子の家に向かう。ただ送っているだけなのか、上がり込んで何かをしているのかは分からない。あの子の家に向かう足取りを確認してすぐ、私はいつも野暮なことはしないようにとまっすぐ家に帰っていた。

(……今日もいつもと同じならもう帰っても……)

 そう思うくせに、結局出てくるまではと待ち続けて一時間が経っていた。

 二人が並んで店から出てくる。気付いてすぐに後をつけようと踏み出した。


 以前まで宗佑くんに対して辛そうな顔をしていたあの子は、今では華やかに笑うようになった。どういう心境の変化があったのかは分からない。今の二人には確かに、以前にはあったお互いを意識しているような壁は一切感じられない。

 熟年夫婦とでも言うのだろうか。思春期のような初々しい時期を終えて、落ち着いた空気を漂わせている。

(控えめに笑う。口元に手を置いて、顎を引いて、大口は開けない)

 もう何度もインプットしたその仕草をさらに覚えるように、あの子を見つめる。

 お店から出てきた二人は、今日はどうやら寄り道をするらしい。少し歩いて、お昼から開いている近くのバーに入っていく。隣にはホテルがあった。すでにそういう関係なのかは明確には分からないけれど、夫婦のような雰囲気を漂わせている二人のことだ、そうであっても違和感はない。

 この様子なら近日の呼び出しはないだろう。そんなことを考えながら、これ以上は見なくても良いかとその場を離れた。




「宮ちゃんてなんで最近眼鏡かけてるの?」

 いつもの雑談の一環として、前のデスクの先輩が休憩がてらに私を見た。

 パソコンを見すぎて疲れているのか、先輩の表情には疲労が浮かんでいる。

「かけていた方が楽なので」

「なにそれー、そんだけ?」

「そうですよ」

「ほらー、ね、宮岡さんはそういう人だって」

 一人がそう言うと、周囲のデスクの子たちが賛同しながらも楽しそうに笑う。嫌な感じはしない。そのため純粋に言葉の意味が分からなかった。

「どういうこと?」

 隣のデスクの後輩に聞けば、隠すことでもないのか「実は」と簡単に言葉を続ける。

「宮岡先輩が男ウケのために眼鏡かけてるのかも、とか言い出して」

「だーってー、急に眼鏡とかかけちゃうからさー」

「宮岡先輩には佐原主任が居るんですから、他に色目なんて使う必要ないんですよ」

「そうだけど……ほら、秘書課って人気でしょ? 宮ちゃんは結構人気あるし、男どもは『秘書が眼鏡かけるとかエロい』みたいなことを思ってるわけよ。だからそれに応えてあげたのかと思うじゃん」

 先輩は拗ねたように唇を尖らせて、違ったかー、なんて残念そうに呟いた。


 先輩は三つ年上で、私がここに配属された時からすごく良くしてくれているから、嫌味でそんなことを思ったわけではないことは分かっている。だけどまさかそんなふうに子どものような顔をするほどだとは思ってもいなくて、年上なのに子どもっぽいのが可愛いなと笑みが漏れた。控えめに、口元に手を置いて、クスクスと笑ってみせる。そんな笑い方も、もうすっかり板についた。


「……宮ちゃん、なんか変わったよね」

「え?」

「なーんか……女の子らしくまるーくなった感じ」

 あの子を知らない先輩が、今の私が以前の私とは違い、まるであの子のようだと思ってくれた。これまでの行動が報われた瞬間である。思わず喜びから声が弾みそうになるのを我慢して、出来るだけ普通通りに言葉を吐き出す。

「そうですか?」

「そうそう。嫌いじゃないけどねー」

 楽しそうに笑った先輩は、息抜きを終えたと言わんばかりに真剣にパソコンに向かっていた。


 先日、会社帰りに駅前であの子を見かけた。恋人と一緒に居たあの子はすごく嬉しそうに笑っていて、あの子の恋人も、あの子を大好きだと隠さない瞳で見つめていた。きっとデートを楽しんでいたのだろう。誰から見ても、あの子たちは仲の良い恋人同士だった。

 きっと彼は知らないのだ。あの子が、宗佑くんと会っていることを。

 なんだか可哀想だなとは思うけれど、宗佑くんの幸せのためには仕方がない。何も教えないけどごめんねと、静かに心で謝っておいた。

(……そうだ。宗佑くんがもっと幸せになったなら、私がもっと愛されて、そうやって二人で幸せに……)


 だから私は今よりもっと、あの子にならなければならない。もっと近づかなければならない。だけどどうしたら良いのだろう。あとはどこを直したら、あの子にもっとなりきれるのか。


 仕草。好み。口調。服装。あとは、いったいなにが足りない。



「桐子さん、日替わりだよね?」

 メニューを開いたところで、宗佑くんが当然のように問いかけた。

 お昼を一緒に食べようと連絡をくれた宗佑くんと、いつも来ている会社近くの喫茶店に入ったのはつい先ほどのことである。

 日替わりだよね、なんて、そんな言葉も久しぶりに聞いた気がする。頼まなくなってから少しの間は言われたけれど、最近ではまったく聞かなくなっていた。

「ううん。今日はさっぱりしたものが食べたいの」

 あの子は、肉でも魚でもなく野菜が好きだ。どちらかといえば和食派で、肉か魚かの二択であれば魚料理を好む。この喫茶店で選ぶなら日替わりではなくて、きっとサラダバー付きの定食メニューの中から選ぶだろう。

「……なんで?」

 宗佑くんの言葉は、やけにトゲを含んでいた。驚いてそちらを見ると、声音と同じく表情も固い。

「なんでって、なんで? 気分だよ」

「いつも日替わりだっただろ」

「最近は違ってたでしょ。……食べ物一つでそんなふうに言うなんて、何かあったの?」

「何かあったのは桐子さんじゃないの」

 じっと、真っ直ぐに私を見つめる目はどこか鋭い。何を考えているのかが分からなくて、あの子のように愛らしく首をかしげてみせた。

 この仕草は特別あの子に似ている自信がある。宗佑くんの雰囲気も和らぐだろう。そう思っていたのだけど、いったい何が気に入らなかったのか。宗佑くんはぎゅっときつく眉を寄せて、軽くため息を吐き出した。

「……今週の休みは一緒に居られるよね?」

「そうだね。お母さんに聞いておくね」

「だめ。俺と過ごして。……実家には帰ってないんだろ、知ってるんだよ。話があるから、俺の家に来て」

 これはカマを掛けられているのか、確信があるのか。分からないからスルーして、返事はせずに口角だけ持ち上げておく。

 このタイミングで「話がある」なんて、つまりそれは、終わりということだ。

 

 唐突に、彼とあの子の壁のない優しい空気感を思い出した。

 気まずさもなく、遠慮もなく、二人だけの世界で空気を溶かす。恋人にしては遠いけれど、友人にしては近い距離だった。つまりそういうことだろう。二人のすれ違いは終わった。ようやく気持ちが一つになったのだ。

 本物を手に入れたのなら、もう偽物は不要である。


(……なりきれなかった)

 結局オリジナルには敵わない。あの子に恋人が居ても、絶対に勝てない。私は最後まで代替品でしかなかったということだ。

 あの子が振り向けばあっさりと終わる。最初から分かっていたことである。それなのに心のどこかが絶望して、本当にどこまでも情けない。

 そんな自分に気付かれないようにと、精一杯の笑顔を貼り付けた。


 極力自然な仕草を意識して、店員さんを呼ぶボタンを押す。宗佑くんは不満げだったけれど、店員さんが来た頃にはそれもすっかり消え去っていた。



 その日の就業後、母に連絡をすると、一度だけ宗佑くんが家にやって来たと教えてくれた。

 いつだったかは分からないけれど少し前の土曜日だったらしく、宗佑くんは私を訪ねて来たとはっきりと言ったそうだ。だけど私は当然実家には居なかったからその旨を伝えれば、すごく腑に落ちない顔で帰ったという。

『あんた、なんかこじれてるんじゃないでしょうね』

「そんなんじゃないって」

『もー、あんな素敵な人ほかに居ないんだからしっかり捕まえときなさいよ! あんたももう三十路なんだから』

「わかってるって……じゃあね」

 母はここ最近では特に、結婚はと頻繁に口にするようになった。姉と妹が結婚しているからこそ、私のそれが気になるのだろう。

 だけどあまりにうるさくて、実家に近寄らなくなった。

 今後もこの状態は続きそうである。

(……完全に嘘がバレてた)

 それでも、宗佑くんはそれを知った時点では私には何も聞かなかった。

 宗佑くんにとって、私と休日を過ごさないということはそれほど都合が良かったのだろうか。

 それならやはり「話がある」とは別れ話ということか。


「……結婚かあ……」

 玲香も幸せそうにしているから、それに対して憧れはある。だけどどうにも、自分が結婚している未来が見えない。

 ――うまくいけば宗佑くんと結婚出来るかも、なんて思っていたけれど、どうやらそれも叶いそうにない。


 眼鏡を外した。

 レンズに閉ざされていた世界が開けて、少しだけ心が軽くなった気がした。


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