第二話
――秘書室は仕事中も意外と賑やかで、楽しく仕事をしている。
誰かが電話対応をしていない時にはだいたいみんなで仕事をしながら話しているし、電話対応中でもひそひそと声を潜めて世間話を絶やさない。
つまらなければ仕事が行き詰まる。全員がそれを理解しているのだ。
とはいえ不真面目というわけでもなく、そこはやはり賢い集団というのか、引き際もよく理解している。仕事のオンとオフ、それをしっかりと弁えていると言うのが正しいのだろう。
今日も秘書室は和やかな雰囲気だった。全員が朝から程よく気を抜いてパソコンに向かっている。そんな中、正面のデスクの先輩が、内線片手にひょこりと仕切りから顔を出した。
「ねえ宮ちゃん、今日って専務に付き添い?」
「いえ、付き添いは梶さんが行きます。私は今日は事務作業ですが……」
「お願いなんだけど、今日、営業部の兼務秘書の応援にいけないかな。二人もインフルらしくってさ、さらに風邪気味のインフル疑惑で念のため休んでもう一人いないから、まったく人数足りてないらしいの。こっちから一人くれって言われてて……」
「いいですよ。一人でいけます? それ」
「宮ちゃんなら百人力だよ。とりあえず伝えるね」
内線を再び耳に押し当てて、先輩は了承を口にした。
営業部の兼務秘書といえばチームになっている部門である。営業一課と二課の部長から局長、そして本部長までを兼務してまとめていて、常に業務に追われているイメージだ。そこから三人削られたともなれば、忙しい様子が目に浮かぶようだった。
今頃バタバタしているのかなと呑気に考えながら荷物をまとめていると、内線を切った先輩がこちらに向かって苦笑を漏らす。
「ありがとー宮ちゃん。いつも通りやってくれたらいいから!」
「私だけで間に合いますかね」
「大丈夫大丈夫! 人手不足なだけで雑務ばっかりだから! たぶんこっちより暇な方だよ」
ありがとねと、もう一度私にお礼をくれた先輩は、そのままにこやかに手を振った。いわく「すぐに行け」ということらしく、それを察して素早く立ち上がった。
「あれ? 宮岡さんじゃない? 何してんの営業のフロアで」
営業フロアのエレベーターをおりると、見慣れた人が驚いた表情で私を見ていた。
営業一課の主任である吾妻さんだ。宗佑くんからは同期でライバルで飲み仲間だと聞いている。
「今日、営業課付きの秘書が三人お休みしたので応援に来たんです」
「へー、てか眼鏡なんかしてたっけ? ぱっと見誰か分からなかった」
――実は先日、玲香と別れた直後、忘れないうちにと眼鏡を買った。あの子がかけていたウェリントンだ。よく見えなかったから曖昧だけれど、リムが薄い黒縁で、アームの部分は鼈甲柄だったと思う。あの子と同じ眼鏡をかけている私は今、少しでもあの子に見えているだろうか。
「実は少し目が悪くなって……似合います?」
「あー……うん。似合う。似合うけど……」
少しだけ気まずそうな空気が漂う。宗佑くんと仲が良い吾妻さんはもしかしたら、あの子のことを知っているのかもしれない。
それならば成功だ。あの子を知っている人がこういった反応をするという事は、それほど似ているということである。
私は、あの子に一歩近づけたのだ。
「なら良かった。それじゃあ私、急ぐので」
「あ、待って、あのさ、眼鏡似合うけど、普段は外したら? 眼鏡かけてると視力悪化するって聞くし」
「どうしてですか。大丈夫ですよ」
それじゃあ失礼します、と、まだ何かを言いたげな吾妻さんとの会話を終わらせるために、やや強引にその場を離れた。
背中に張りつく視線。それにどんな意味があるのかは分からなかったけれど、なんだか居心地の悪いものだった。
秘書チームの居るデスクは、営業とは別の個室に用意されている。そこに辿り着くまでに営業一課の前を通れば宗佑くんが居て、通りがかった私を見て固まっていた。そんな様子を見てやっぱりこの眼鏡作戦は成功だったと確信すると、出来るだけあの子に似るようにとにこやかに手を振っておいた。
営業の秘書チームと合流してすぐ、さっそく歯抜けになったデスクが目についた。聞いていたはずの三人以上の空席がある。どうやら有給者も居るらしく、事態は思っていたよりも最悪らしい。
出勤している人は全員マスクをしているけれど、体調は良いと聞いていたのに全員がどこかげっそりとしていた。
「うわーん! ありがとう宮ちゃん!」
「救世主……!」
「お願いします! 本部長は私たちでやるので、一課と二課の局長の事務さばいてくださいっ!」
まるで縋るように泣きつかれては、本当に私一人で乗り込んで大丈夫だったのかなと不安が襲う。けれど一つ一つを見てみればどうやら先輩が言っていた「雑務だけ」というのは本当だったようで、案外どうにか乗り切れそうだった。
それから、どれほどの時間が経ったのか。雑務をさばいて、電話対応をしてとバタバタしていると、正面のデスクに居た小野さんが「宮ちゃん」と片手を上げて私を呼んだ。
パソコンの画面に集中していた目をそちらに向ければ、持ち上げられた片手が外を指さしている。
「お迎え。休憩行ってきなよ」
いつから居たのか、小野さんがさした先には、宗佑くんが立っていた。
しっかりと秘書室に入ってきている。集中しすぎてノックも何も聞いていなかった。
「だいぶ落ち着いたからこっちはいいからね」
少しだけ固い雰囲気の宗佑くんに気を遣ったのか、秘書室を出る前に小野さんがそんな言葉をくれた。
「なにその眼鏡」
ランチに行くためにオフィスを出ると、彼の第一声がそれだった。彼はじっくりと私を見て、やけに真剣な顔をしている。あの子に見えるから感動でもしているのか、あるいはおまえなんかがあいつの真似をするなという怒りでも覚えているのか。どちらでもないようにも思えて、宗佑くんの気持ちが分からない。
「……似合わないかな?」
「いや、似合わないとかではないけど……眼鏡かけるほど目、悪かったんだなって思って」
「なんて言うんだろ、無いなら無いでいいんだけど、あった方がいいなって感じの視力なの。実はずっと欲しかったんだよね」
行きつけの喫茶店に慣れたように入って、宗佑くんは奥のソファにさりげなく誘導してくれた。当然のようなその仕草に違和感は一切なくて、さすがだなと関心してしまう。
彼にとっては、あの子とご飯を食べに来た感覚なのだろう。ともなれば、そういった紳士的な振る舞いにも納得である。
「何にする?」
メニューに目を落とす。正面からは、彼の視線を強く感じる。
――本当は、宗佑くんがあの子のことを好きだなんて、半信半疑だったのかもしれない。だからこそ今確信を目の当たりにして、ちくちくと胸が痛むのだろう。
そんなことは間違っている。だって私はあの子になりきって愛してもらうと決めたのだから、胸が痛むなんておかしな話だ。
(痛くない痛くない。幸せに近づいてるんだから)
きっと宗佑くんは今、じっと私を見るその瞳の奥で、私への愛を深めている。ずっと一緒に居たいとさえ思ってくれているだろう。
(……あの子はこういう喫茶店で、どんなものを頼むんだろう)
好みまで似せたら、もっと愛してもらえるだろうか。
「桐子さんはいつもの日替わりでいい?」
「えっ」
ちょうど悩んでいたそれを拾われて、つい素っ頓狂な声が出た。
「え? 違う? ……いつも日替わりだったよね?」
――あの子の好みの注文を、とは思うけれど、知らないのだから仕方がない。時間を無駄にしてしまうと気づいてすぐに、そうしようかなと返事をした。
注文を終えても、彼は隙あらばじっと私を見る。
ぱっと見は似ていても近くで見たら実はあまり似ていないから、本当はそんなに見られると夢が覚めそうで恐ろしい。彼からすれば、少しでも似ているというだけで充分なのだろうか。
「……桐子さん、この間の休みは何してたの?」
「何って……玲香と会ってたよ。ほら、経理の同期」
「ああ、松尾さんね。それって日曜?」
「うん。なんで?」
「……それなら土曜日は俺と過ごせたんじゃないかなって思って。ほら、土曜の朝、帰っちゃったでしょ」
あれは私がまだまだ「幸せ」について考えられなくて、混乱していたからだ。宗佑くんが私を好きじゃないと思えばその場にも居づらかっただけで、今ならじっくりと日曜日まで一緒に過ごすだろう。
いや、今は、彼にはあの子と過ごしてもらって、私があの子の観察をする時間がほしいかもしれない。
そうすればあの子と過ごせて宗佑くんはハッピーだし、宗佑くんに愛されるためにあの子の観察が出来て私もハッピーだ。
(しばらく土日は会わない方がいいかな……一人の時間を増やせば、宗佑くんは絶対にあの子と会うだろうし)
そうだ、そうしよう。今後のために、より精度を高める必要がある。
「桐子さん?」
「え? あ、うん。そうだね。そういえばさ、私、今週から土日は実家に帰らないといけなくって」
「……なんで?」
「実は姉が帰ってきててね、甥っ子と姪っ子の面倒見るの手伝ってるんだよね。お母さんだけじゃ大変そうだし」
「……ふーん」
何かを探るような含みのある目が、やけにじっとりと私を映していた。
(そんなに見られるとあんまり似てないのバレそうで嫌だなあ……)
だけどもしかしたら、似ているから見られているのかもしれない。そう思えばこの居心地の悪さも我慢ができる。
「なんか桐子さん、変じゃない?」
「変……? なにが?」
「よそよそしい」
だから変な目で見られたのかと、そこでようやく気がついた。
あの子は宗佑くんによそよそしく接しない。むしろ二人は親しげで、どういう関係性なのかは分からないけれど、近しい間柄ということには違いないだろう。
よそよそしくしたつもりは無かった。あの子のことを知らなかったから、どんな態度を取れば良いのかが分からなかっただけである。
「そうだった? そんなつもりなかったんだけど、ごめん」
「ごめんって……まあ別に……」
宗佑くんが何かを言い出すより早く、ランチを持った店員さんがやってきた。私にとっては有難いタイミングだ。
手際よく日替わりランチを二つ並べて、店員さんはにこやかに立ち去る。
「土日が無理なら、平日の夜は会えるよね?」
「いいけど……次の日仕事だから泊まらないよ?」
「スーツ持って来ればいいよ」
「…………そうだね」
どうしてそこまで粘るのだろうか。一瞬考えて、またしてもじっと私を見ている宗佑くんと視線がぶつかった。
つい考え込んでしまうのも仕方がない。なにせ今まで平日の夜はあまり会っていなかった。翌日が仕事だということもあるけれど、引っ張りだこである彼はほとんど接待があり、夜は家に居ないのだ。
だから平日の夜に会うとしても、週に一回程度の頻度になるのだろう。それだと結局、ただセックスをして寝るだけになるのは目に見えているけれど――なんて考えて、待てよと一度思考を止める。
(……宗佑くんはあの子とそういうことが出来ないんだから、私ってその役目として必要じゃない……?)
私が唯一、もっとも必要とされる場面である。そう考えれば、平日の夜に会う必要性も高い。
「いや、そうだよね。うん。お泊まりセットがあればどうにでもなるよね」
「そうそう。……じゃないとさ、会社でもあんまり会えないのに、俺たちほかにどこで会うの」
それはほら、これからは本物と土日にプライベートで会えるじゃない。なんて言葉は賢明にも言わなかった。彼は、私があの子とのことを知っていると知らないのだ。
「そうだよね。……楽しみだなあ」
心の奥の奥がきりきりと痛む。
だけど、はっきりと口に出せば、楽しみになる気がした。