第四話
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別れよう、なんて言葉を吐き出したことに、自分が一番驚いた。
私自身、宗佑くんの気持ちを受け取るものだとばかり思っていた。それなのに自然と出てきたのは、強がりから言われた宗佑くんの願いと同じだった。
(……宗佑くんも私も、少し考えすぎた)
疲れたと言ってもいい。だから落ち着くための時間と距離をつくる必要があった。
嫌いではない。だけど「好き」だけではきっと戻れない。
付き合っているのだから相手のことを考えないと、とか、恋人なんだからそばに居て当たり前だ、なんて前提を一切無くして、一人の人間として向き合うべきだと思った。
「別れた!? あんなにラブラブだったのに!?」
玲香のその言葉に、ようやく眠った麻琴と朋樹がううんと唸る。せっかく一生懸命寝かしつけたというのにそんなことはどうでもいいのか、玲香はただ前のめりに「なんで!?」と続ける。
「……うーん……ちょっとこじれちゃって」
「……桐子ってこじれること出来るんだ……」
「ん、なんで?」
「私の勝手なイメージだけど、桐子とこじれるとか喧嘩とか、そういうこと出来なさそうだなって。ほら、桐子ってすぐ引くじゃん。まあいっか、みたいな」
「あー……うん、まあ」
玲香の言うとおり、すぐに引けばこんなことにはならなかったのかもしれない。
(……結局、なりきろうとしちゃったし)
きっとそれくらい、なりふり構わず恋をしていた。
まっすぐに、ただ振り向いてほしいという気持ちを宗佑くんにぶつけていた。
そういえばあの頃は全部が楽しかった。
宗佑くんと居るだけで笑えて、宗佑くんから連絡が来るだけで嬉しかった。まるで中学生が初々しく恋愛を始めた時みたいに、何もかもがキラキラしていた。
側に居られるだけで良かった。一緒に居ることだけに意味を見出し、他には何を望むこともない。ただそんな時間だけがあればいいと、穏やかな毎日をいつも願っていた。
――いつから歪んでいたんだろう。
私の気持ちが、宗佑くんの気持ちが、正しくないところに向かい、幸せにたどり着けなくなった。
いったいいつから私たちは、笑えなくなっていたんだろう。
「まあ、そういう意味でもいい相手だったのかもね、佐原さん。桐子とこじれられる男なんてなかなか居ないよ」
「なにそれ」
「ほんとほんと。……でも仲はいいよね? ずっとお見舞いとか行ってるし」
「うん。もうすぐ退院だってさ。……仲悪くはないね。付き合ってないってこと以外、あんまり変わらないかも」
「……ん? じゃあなんで別れたの?」
心底不思議そうな顔をして、玲香は軽く首をかしげる。それには詳細を語るわけにもいかなくて、曖昧に笑って流しておいた。
――別れたと言っても、結局私たちに大きな変化はない。
お互いにもういい大人だし、変に避けられたりだとか、突然態度がおかしくなったりとかもない。「恋人」という関係でなくなったというだけの、ごくごく普通の「仲の良い友人同士」として、ほど良い付き合いが出来ている。
好きとか好きじゃないとか、恋とか恋じゃないとか、そういった話ではなく、今は対等にあれることが何より楽だと思えた。
きっと私たちは世界を狭めすぎていた。だからがんじがらめになって、閉鎖的な中で答えを出そうと無理にあがき、どうしたいのかも分からなくなった。
だから今がすごく楽だ。
それはきっと私だけではなく、宗佑くんも同じ気持ちなのだろう。表情も柔らかく、雰囲気だって朗らかになったと思う。切羽詰まったような顔も見なくなったし、顔色も良くなった。
あの時はまったく未来が見えなかったというのに、今はそんなこともない。結果的に良い方向へと好転できた。だから私たちは、今度こそ間違いなく正しいところに進めるだろう。
進んだ先にある未来で、もしかしたら私たちは離れ離れになっているかもしれないけれど、それでも、そんな未来でも受け入れられる気がするのだ。
「あれ。宮岡さんもお見舞い?」
病院に入る手前で、気さくに声をかけられた。今日は休みで、午前中は玲香と会っていたために午後からのお見舞いになったのだけど――今やってきた吾妻さんも、もしかしたら午前は何かをしていたのかもしれない。
少しだけ着飾った吾妻さんが、焦る様子もなくこちらに歩み寄る。普段のスーツ姿しか知らないためになんだか新鮮だった。
「はい。吾妻さんもですか?」
「そう。一緒に行こうよ、あいつの反応も見てみたいし」
「……反応?」
「一緒に行けば分かるよ」
意味深に言って、先導して歩き出す。結局何が言いたいのかは分からなかったけれど、行き先が一緒なために今更別々に行くわけにもいかない。大人しくついて歩けば、吾妻さんは満足そうに笑う。
(……そういえば、吾妻さんは宗佑くんから何か聞いたのかな)
エレベーター待ちの沈黙で、なんとなくそんなことが気になった。
「宗佑と別れたんだってね」
「え!?」
「え?」
「今ちょうど、どこまで知ってるのかなと考えていて……」
「はは、そうなの? 全部……って言っていいのかも分からないけど、知ってると思っていいよ。宗佑とちょっとあってね、牽制されつつ報告されたというか」
「ちょっと……? というか牽制って、」
「いやいや、聞き流して」
やってきたエレベーターが口を開く。それに乗り込んで、いつものようにボタンを押した。
「二人って今不思議な関係だけど……もう宗佑のこと好きじゃなかったりするの」
何気なく、本当になんてことないようにそんなことを聞かれた。
――別れたからといって、すぐに「もう好きじゃありません」となれるわけでもない。
むしろ少し離れた今のほうが惹かれているのだから、恋とは分からないものである。
それは本当に些細な場面で、本当に何気ない瞬間に、本当に日常的な、いつもどおりに過ごしている中で、突然「この人が好きだ」と心地よく広がる。
そして同時に思い知る。
彼はもう私の恋人ではない。だから私が、たとえば手を握りたいと思ったとしても、そんな距離に居る人ではないと。
「……好きですよ。前よりたぶん、今のほうが」
「それならどうして付き合わないの」
目的地に到着したエレベーターが開く。私が降りるのを待っている吾妻さんは、動かない私に不思議そうに振り返る。
「……今の宗佑くんを見ていたら、私は邪魔なんじゃないかと思えてくるんです」
踏み出してフロアにおりたけれど、本当はこのまま向かっていいのかも実は分かってない。
私と別れてから、宗佑くんは雰囲気が変わった。私と離れて明るくなった。笑顔が増えた。前向きになった。
誰の目にも明らかに、以前よりも人としての魅力が増した。
けれどもしもまた付き合ってしまったなら、あの時みたいな宗佑くんに戻ってしまうかもしれない。
(……本当は行かないほうがいいのかも)
これ以上側にいても、どんどん好きになっていく自分が辛いだけである。
最初からやり直すと言ったけれど、絶対にまた恋人になろうねと約束したわけではない。宗佑くんはきちんと「友人」としての距離を保っているし、私みたいに未練のあるような感情も見当たらない。
私はこのまま、宗佑くんが誰かと一緒になるところを、近くで見ていることしか出来ない。
「宗佑くん、すごく良く変わりました。それなのに私と付き合ったら、また逆戻りかも」
「そう思う?」
「可能性はありますよね。……たとえば宗佑くんが今すごく楽で、すごく開放的に楽しめているのなら、私は邪魔じゃないですか」
宗佑くんの心がもしも、私を見て少しでも濁っているのなら、私は彼のそばに居ることは選べない。
「考えすぎ考えすぎ」
吾妻さんの大きな手が私の肩に触れたかと思えば、そのままぽんぽんと軽く叩く。
「宗佑が本当に宮岡さんのことを嫌だと思ってるんなら、俺は牽制なんかされてないって」
吾妻さんは優しい人だ。そしてとても誠実で頼りになる。大人で落ち着いていて、尊敬も出来る賢い人だとも思う。
(……私の理想の人にぴったり)
それでも心は宗佑くんしか考えられないのだから、本当に理想と現実はままならないものである。
「そんなに不安ならさ、入ってからの宗佑の顔、見てなよ」
病室の前までやってきて、吾妻さんが小声でそんなことを言う。まるでイタズラっ子のような顔で、どこか楽しそうだった。
「……顔ですか?」
「あいつきっと勘違いするよ。休日の午後に一緒に来るとか……ほら、午前は何してたんだって思うだろ? 俺と宮岡さんがデートしてたんじゃないかってさ」
「思いますかね」
「それは見てからのお楽しみだ。……きっと嫉妬するからさ、しっかり宗佑のことを好きでいてくれよ」
吾妻さんの手が扉に伸びる。
開く直前、なぜかすごく穏やかな、優しい顔をしていた。
「吾妻さ、」
「宗佑ー。来てやったぞー」
「休みにまで来るとか暇人かよ」
「あー! 吾妻くん!」
同室の男の子はまた宗佑くんとじゃれていたらしく、吾妻さんを見つけてすぐにキャッキャと飛びついた。そんな光景を見ていた宗佑くんがふと、またしても立ちすくんでいる私を見る。
「え! あれ、桐子さんも来てくれたんだ」
「あ、うん。お邪魔します」
顔を見ろと言われたけれど、今までとまったく変わらない。ベッド横の椅子に腰掛け、にこにこと見守られるところまですべていつもどおりだった。
「なんか今日雰囲気違うね。出かけてた?」
「そうだね、午前中に少し」
「ふぅん……」
宗佑くんの目が、ちらりと吾妻さんを見る。つられて私も見たけれど、吾妻さんはやっぱり男の子と遊んでいるだけだった。
宗佑くんに視線を戻した頃には、宗佑くんはじっと私を見つめていた。
「な、なに?」
「……あー、早く治したい」
どこかふてくされた声である。それに頷いて先をうながせば、面白くなさそうにじろりと睨む目に変わる。
「入院中じゃ不利すぎる。……当の本人はのほほんとしてるし……」
「ほらな。言っただろ、宮岡さん」
話を聞いていたのか、男の子のベッドの近くで遊んでいた吾妻さんが軽やかな笑い声をあげた。楽しそうなのは吾妻さんだけだ。宗佑くんは「何の話だよ」とさらに表情を曇らせる。
「吾妻くん、ジュース飲みたい!」
「おー、買ってやろう。一緒に行くか」
「行くー!」
吾妻さんは宗佑くんの言葉に答えることなく、男の子と出ていった。
病室が静かになったのは一瞬だった。次には宗佑くんが口を開く。
「午前中は何してたの?」
言われたのはそんなことだった。ふてくされてはいるけれど、口元は怒っていないから心底不機嫌というわけでもないらしい。
「玲香のところに行ってただけだよ。変わったこともないし」
「ああ、松尾さん。……吾妻は?」
「吾妻さん? さあ、下で会っただけだから知らないけど……何かしてたんじゃない?」
探るような目を向けられたけれど、やがて諦めたのか、長く深いため息が聞こえた。
「まあ、うん。そっか」
「なに?」
「…………別に」
先程よりも表情が解けた。どうやらふてくされていた時間も終わったようだ。
相手の考えていることを読もうとしたり、好かれようと頑張ったり、それらを一切やめただけでこんなにも気持ちが軽い。
きっと宗佑くんも同じ気持ちなのだろう。沈黙の中でも、表情は優しかった。
「俺が退院したら、ご飯食べに行こうよ」
「うん。お祝いしないとね」
「休みの日には遊びに行こう」
「いいね、楽しみ」
「……そんで、そのうち旅行とかも行ってさ」
「そうだね、そのうち」
「……でさ、一緒に居る時間が長くなって慣れてきた頃に、家にご飯作りに来てもらったり、俺が遊びに行ったりして……しばらくしたら、もう家を行き来するのも面倒じゃない? とか言い出すから、その時には俺も昇進してる予定だし、一緒に暮らすようになるよ。そうなったら親に挨拶も行かなきゃだろ? んで上手く勘違いされて、桐子さんは外堀から埋められんの。いつ結婚するんだーって周りが騒ぎ出した時には、桐子さんに選択肢はないんだよね」
まるでそれが明確な未来予想図であるかのように、詰まることなく言い切った。
宗佑くんは笑っていた。
訪れる未来が明るいことを証明するかのような、朗らかな笑顔だった。
笑顔とは移るものらしい。もしかしたら、その感情さえ宗佑くんから移ったかもしれない。
笑みが漏れた。視界が滲んで、宗佑くんの笑顔も見えなくなる。それでも宗佑くんが笑っていることが分かったから、安心して涙を拭いていられた。
「俺が立てた三年計画ね」
「……計画通りいかないかも」
「それなら練り直すだけだよ」
「なにそれ……」
「三年で、信頼も好意も全部取り戻すって決めたんだ。内訳も聞いてみてよ、意外と計画的に組んでるよ」
「……どうして三年なの?」
「なんとなく。……一年とか二年とか、急ぎすぎて失敗すんの嫌だしね」
少しだけ声のトーンが落ちる。不安そうな表情はそれでも後ろ向きではなくて、口元だけは笑んでいた。
「もう間違えないから。桐子さんはただ、自分の気持ちにしたがってくれたらいいよ」
もしかしたら私の存在が邪魔になっているのかもしれないと、疑心暗鬼になっていた私をすくい上げるように、宗佑くんは未来だけを見て、こんなにもまっすぐにやり直そうとしてくれていた。
私が自分のことしか考えていなかった時にもきっと、彼は私のことを考えてくれていたのだろう。
もしかしたら三年も要らないかもしれないよと、そんな言葉が喉に詰まってうまく出ない。
だけど彼はただ静かに、急くでもなく焦れるでもなく、泣いている私を見守っていた。
きっと未来の私たちは、今より少し成長して、今より深く理解ができて、今より絶対に好きでいられる。
自然とそんなふうに思える、穏やかな時間だった。
「とりあえず、退院したらご飯に行こう。まずは計画を始めないとね」
宗佑くんの笑顔が見えない。だけどきっと大丈夫だからと、一度しっかりと頷いた。




