第三話
静まり返った病室に、宗佑くんの言葉が余韻を残して消える。
――別れたほうがいいと思う。
彼は確かに、はっきりとそう言った。
違和感のある表情で、清々しくすっぱりと、何の迷いもなく、これまでのことをすべてリセットしたような声だった。
(……これは、頷くべきなのかな)
どうだろう。
気付かないふりは出来る。何も知らないふりをして、「分かったよ」なんて受け流してしまえばいい。そもそも私が最初に別れを切り出した。別れた方がいいとも思っている。
それなら尚更、深追いさえしなければ私たちは別れて終わりだ。
「いや、別れよう、が正しいかな」
わざわざ訂正をして、宗佑くんは再び手元に視線を落とす。
――入院中に考えたと言っていたっけ。
(……これが宗佑くんの答えなら……)
私と同じことを思っているのなら、このまま終わらせるのが最善である。
「なんて。……桐子さんからすればもう別れたつもりだったかもしれないけど……でもほら、こういうのってはっきりさせておいたほうがいいだろ? ちゃんとしないとさ、なんか……」
横顔が軋んだ笑みを浮かべた。
宗佑くんは別れを選んだ。私だって別れることを選んでいた。私たちの意見は一致しているのだから、もう何も言うことはない。
(受け入れたほうがいい)
私たちは「好き」も「別れ」も少しずつ時期が違っていたから変にこじれてしまったけれど、宗佑くんが別れを選んだのなら、ようやく元に戻すことができる。
(……ここで頷けば)
ふと、ある日の休日が浮かぶ。
いつか見たジュエリーショップ。デートの途中で連れられて、アクセサリーを贈りたいと、宗佑くんは熱心に選んでくれていた。
私があの子になりきる、ほんの少しだけ前の頃だった。
宗佑くんは楽しそうに店の奥まで見に行き、私も浮かれ心地でショーケースを眺めていた。
素直に喜べたのは、あの子の存在をまだ知らなかったからである。
そうして一つのネックレスが目に止まる。
小さな宝石の付いた、とてもシンプルなデザインだった。
「それ可愛いですよね。出しましょうか?」
「……はい」
真っ赤な宝石が一つ。それがはめ込まれただけのシンプルなデザインだけれど、細工が細かくて一際目を引いた。
「これください」
振り返るとそこに宗佑くんが居て、店員さんに包装を頼んでいる。戸惑う私を尻目にサクサクと話を終わらせてしまい、店員さんもあっという間に包装を終えた。
帰り際、店員さんが晴れやかに語る。
「そちら、ガーネットを使用しております。とても素敵なプレゼントですね」
素敵らしいよ。なんて笑った宗佑くんは、先々歩いて行ってしまった。
きっと彼は何も知らない。店員さんが言ったことなんて何一つ分かっていない。それでもすごく得意げで、私もどうでもよくなった。
確かに私は幸せだった。
あの子の存在を知る前も、あの子の存在を知ってからも、きっと私はずっと幸せだった。
「……私もね、考えたの。吾妻さんが来てくれて」
ぴくりと、宗佑くんの指先が揺れる。なぜか体も固くなり、微かに眉間にシワが寄る。
「……吾妻が、ね。なんて?」
「宗佑くんが必要か、必要じゃないか。……それだけ聞かれた」
あの時吾妻さんが来てくれなかったら、私は今も宗佑くんへの気持ちを深く考えることなく、モヤモヤを抱えて仕事をしていたかもしれない。
宗佑くんは何を思ったのか、先ほどまでの貼り付けた表情を一切削いで、つまらなさそうに手元を見ている。
しかし、それも少しの間だった。私が口を開こうとすれば、先に宗佑くんが言葉を紡ぐ。
「……思うんだよ、俺。桐子さんは、吾妻みたいな誠実な男のほうが似合うんじゃないかって」
「……吾妻さん?」
「うん。……俺と別れたら、そういう選択肢もあると思う。桐子さんは自由になるし、もう俺のことなんか忘れるだろうし……お似合いだと思うよ、本当に」
そんな言葉を平気な声で吐き出すくせに、瞳だけはどこかぼんやりとしていた。
――様子がおかしいなんて、気付かないふりをすればいい。
ここで素直に頷いて「うんそうだね、分かったよ」と病室を出るのが最善だ。
私たちの答えはようやく一つになった。だからこれでもう終わりだ。このまま病室を出れば、何もなかったように、それまでと変わらない日々に戻る。
それでいいのだ。それが、私の望んだ結末だった。
分かっている。そんなこと、私が一番理解している。
だけど、
「どうして嘘をつくの?」
どうしても、見ないふりはできそうにもなかった。
それは、私がまだ宗佑くんのことを好きだと思うからだろうか。
「……嘘なんかついてないよ」
「変な顔してる。見たことない……無理してる顔」
「してないって」
「してる」
じっとりと重く、沈黙が落ちた。
鳥の声さえも聞こえてきそうなほどの静寂だ。部屋が広いため、余計にそれが気になってしまう。
外は快晴で晴れやかなのに、この病室だけがなんだか少し陰っているように思えた。
「……本当は何を考えたの?」
言葉はやけに大きく聞こえた。
それでも宗佑くんは微かに「いいから」と呟いて、私を見ようともしない。
「……宗佑くん」
追及はせず、ただ名前を紡ぐ。
しかしそれで充分だったのか。宗佑くんは諦めたように、ハッと乾いた笑みを吐き出す。
「聞いてどうするの。どうしようもない、俺の頭の中なんか、桐子さんにとっては無意味なことでしかないのに」
「無意味かもしれないけど……」
「別れようって言葉にただ、うんって言ってくれればいい。そんで家に帰って、いつもどおりに過ごしてくれればいいんだよ」
「……吾妻さんと?」
「そうだよ、そうしてくれたらいい。あいつは良い男だ。桐子さんも泣かない。幸せになれる。俺なんかすぐに忘れられる」
「吾妻さんにも選ぶ権利くらいあるのに」
「いいんだよ! なんでもいい! ……別に吾妻じゃなくたって」
「……本当は何を考えたの? 私が来なかった少しの間に」
来なかった。違う、知らなかった、だ。
好きな人の大変な事態でさえ、薄情なことに私はまったく知らなかった。
吾妻さんが出張だったから。秘書室が離れているから。私たちが別れたことを知らなかった周囲が気を遣い、触れないようにとその話題を避けていたから。言い訳はいくらでもある。だけど宗佑くんからすれば、結果はあまりに残酷だ。
宗佑くんが一番大変な時に、一番不安で寂しい時に、そばに居なかった。
「……別に、面白くもないよ。……目ぇあけて、生きてることに安心して泣いて、めちゃくちゃ泣いて……桐子さんに、会いたくなって」
指先が震えている。表情はまだぼんやりとしていた。
「……なんで居ないんだよって思った。なんで居てくれない。俺が死んでも良かったのかよって、馬鹿みたいに被害妄想膨らませて、でも次の日も来なくて……思ったんだ。もしかしたら桐子さんはもう俺のことはどうでもいいのかもしれない。もう俺たちは別れたのかもしれない。そしたらそれが当たってる気がして、今頃誰と居るのかとか、もう俺のことなんか忘れたんだろうとか、そんなことばっかり」
「……うん」
「俺だけが好きだったんだ、俺は簡単に捨てられるような存在だったんだって、結局そう思えてきてさ、自分がしたこと棚に上げて桐子さんをずっと責めてた。おかしいだろそんなの。なのに止まらないんだ、最低だ最悪だって、会いにきてくれって思ったのに、桐子さんは来てくれなくて」
ぐしゃりと、ようやく表情が歪む。
とても悲しそうに、とても悔しそうに、たくさんの感情が綯い交ぜにされた、とても悲痛な表情だった。
「嫌いだ。大っ嫌いだ。俺がこんなに愛してるのに、どうして愛してくれないんだよって。分かってるんだよ、それがどんなに自分勝手なことか。ちゃんと分かってる。分かってるよ。俺に責める権利なんかない。俺が捨てられるのも呆れられるのも当然なんだ。フラれて当たり前だ、大嫌いと言われて受け入れるべきなんだ。分かってるよそんなこと。でも無理なんだ。無理だって思った。目を開けた時。生きてるって分かった、あの時に」
真っ赤な目から涙が溢れた。拭われず伝ったそれは、布団に落ちてシミを広げていく。
宗佑くんの気持ちと同じだ。溢れ出して止まらないそれがただ流れるのでさえも、私は見守ることしか出来なかった。
「……分かってるんだよ、自分勝手で最低なことを言ってるんだって。お前自分が何をしたか分かってるかって、そう思うだろ。俺も思うよ。分かってる、俺は最低だ。最低のクソ野郎だ」
一度言葉を切り、震える言葉を続ける。
「分かってるのに……俺だけが、おかしい」
「……うん」
「俺だけが子どもみたいに駄々をこねて、俺ばっかりがまだ好きなんだ。……別に桐子さんじゃなくてもいいのに。どうせすぐ、雛の時みたいに忘れられるだろって思うのに……無理なんだよ。無理だった。目を開けて、なんで居てくれないんだよって思った時に……同じだけ好きでいてくれよって、勝手なことばっかり考えてた」
「……そっか」
「どうしたって過去は変わらない。俺は自分の過去のおこないをどうやって正せばいいのかも分からない。タイムスリップでも出来ればぶん殴るよ、いい加減にしろって、未来の俺に迷惑かけんなって、そうやってめちゃくちゃ殴る自信がある。でも出来ないだろ。じゃあどうすればいい。土下座でもなんでもする。気が済むまで殴ったっていい。俺は桐子さんと離れないためならなんだってやれる。……でも、俺がそんな気持ちでも、桐子さんは側に居てくれない」
ぐしゃぐしゃになった心が現れたような、ぐしゃぐしゃな顔だった。
きっと、宗佑くんも多くの矛盾を抱えていた。
私があの子になりきって愛されようとしたように、愛されているのは私じゃないと分かっていながら見ないふりをしたように、都合の良いように現実にフィルターをかけて、悪いことに気付いていながら、省みることもしなかった。
宗佑くんもきっと、たくさん葛藤を抱えていた。
「……大嫌いだよ。俺だって、俺のことが嫌いな桐子さんが嫌いだ。だから別れたらいい。それで俺も楽になれる。吾妻とだって、誰とだって一緒になればいいだろ。勝手にしろ。関係ない。そう思うのに……いざ受け入れられそうになると、無理だって思う。もう嫌だ。苦しい。こんなどっちつかずの気持ち、捨ててしまいたい」
好きなのに見てくれない。それなら別れたい。だけど離れたくない。手を放せば楽になれると、そんなことを理解していたって「それじゃあバイバイ」とはなぜか言えない。
最低だと心で罵って、別れてやると決意したって結局、尾を引く気持ちが邪魔をする。
何もかもが嫌になって、どうしたいのかも見つからなくて、好きだと言われても受け入れられず、相手を傷つける選択を繰り返す。まるで病を患ったように、同じことばかりを考えて――。
違和感を抱けないほどに、少しずつズレていく。気付いた頃には手遅れだ。心は矛盾を繰り返し、自分でも自分の気持ちが分からなくなる。
それでもきっと、最後には戻ってくるのだ。
「どうしたいの?」
静かに聞けば、目元を押さえた宗佑くんは、一度微かに鼻をすすった。
ほんの少しの間を置いて、震える唇がゆるりと開く。紡がれたのは、あまりに小さな、かすれた音だった。
「……俺のこと、また好きになって。これからもずっとそばに居て……俺と、結婚してほしい」
はっきりと聞こえたわけではない。それでも理解してしまうのは、尾を引く気持ちが期待しているからだろうか。
「……私、可愛い女じゃないよ」
「うん、桐子さんは、しっかりした人だ」
「服装もね、普段はカジュアルなの。仕草だって女の子らしくない。眼鏡はしないし、お酒も好き。恋愛映画も観ない」
「そうだね」
「浮気男は嫌いなの。女の子と連絡をとるとか、会うとかも一言くれないと嫌」
「……うん」
「誠実な、男らしい人が好き。嘘をつかなくてすごく真面目で、頼れる人」
これまでの恋人もそうだった。理想どおりの相手と恋をしていた。
理想と現実はこんなにも違う。本当にあっさりと覆されて、心はもうそちらにしか向きそうにもない。
繕うこともなく、綺麗に飾ることもなくすべてを伝えてくれた言葉が響いたのかもしれない。ありのままの宗佑くんの姿を見せてくれたからなのかもしれない。
あんなにも悩んだのに、案外呆気なく、答えは目の前に落ちてきた。
「全部違うのにね。私はやっぱり、宗佑くんが好きだよ」
うそだ。そんな言葉が聞こえた。だから私はただ本当だよと伝えて、何度も何度もそんなやり取りを繰り返す。
だけど、分かっているのだ。今のまま関係を続けてもうまくいかない。きっとまたどこかで問題が生じる。小さなことで不安になって、傷つけ合う未来が訪れるだろう。今度こそ、お互いを信じられなくなるかもしれない。
「だから、別れようか」
宗佑くんはずっと泣いていた。緩やかに首を振って拒否を示したけれど、それも黙殺する。
――これは、私たちの未来のために。
「最初からやり直そう。一回別れて、恋を始めるところから」
お互いしか選べないのならきっと戻ってくる。そうでなければ、それまでだったというだけだ。
宗佑くんはただ、しばらく首を振り続けていた。それでもずっと黙っていれば、少ししてから「分かった」とだけ言葉が返る。
やがて恥ずかしくなったのか、今度は「だせえ」なんて呟いたから、今までで一番格好良かったよと、それだけはしっかりと伝えておいた。