第一話
「あ、後藤ちゃん、吾妻主任今日と明日出張だから、営業の方専属でいける?」
先輩は隣の席の後輩にそう言うと、鳴り出した内線をすぐに持ち上げた。
――吾妻さん、出張なんだ。そう思いながら、それなら今宗佑くんが大変なのかなとなんとなくそんなことを思う。営業部は残念ながら上の人があまり動かないらしいから、一人抜けると大変と聞いた。
だからこそ、吾妻さんや宗佑くんが欠ける時には、秘書課が全力でサポートしなければならない。口うるさく監視してくる部下が居なくて、上司の気が緩むからだ。
「うー……頑張りますー……」
「今はいろんな人を回されるだろうけど、そのうち固まってくるから。もうちょっとだよ」
「はい。営業にならないようにだけ願ってます」
後輩はそう言って曖昧な笑顔を浮かべると、すぐに切り替えたようだった。
そういえば、あれから宗佑くんと連絡を取っていない。
それに気がついたのはお昼休みの後だった。
電話もメッセージもない。会社で会うこともない。あんな話し合いをしたから、「また会おう」とすぐに言われると思っていた。
(……連絡してみる……?)
だけど私から、いったい何を言えば良いのだろう。
自分の気持ちが未だに分からない。
どうしたいのか。どうしたらいいのか。どうすべきなのか。宗佑くんに何を言えばいいのか。それさえもはっきりとしていないのに、どんな言葉を送れるというのか。
好きだと思う。だけど私はその気持ちだけで、宗佑くんとやり直せるのだろうか。
(どうだろう……私は、どうしたいんだろう……)
幸せだと思っていた。
宗佑くんが好きだから、どんな形でも愛してもらえて嬉しかった。このままで良いと思えたし、あの子に似ているという事にさえ感謝した程だ。
眼鏡を掛ければ可愛いと言われて、普段よりも笑ってくれる。
私は愛されていると、そうやって思えるあの時間がとても幸せだった。
――何が正解だったのだろう。
あの時、どう言うのが正しかったのだろうか。
「宮岡さん、まだ居る?」
宗佑くんから連絡が来なくなって数日。秘書課のオフィスに吾妻さんが顔を出した。
ちょうど帰ろうとバッグを持った時である。そのためすぐに目が合って、軽く会釈を返して歩み寄る。
「どうされました?」
「いや…………あー、宗佑のこと聞いた?」
「宗佑くんのこと……?」
連絡も取り合っていないために、何も知らない。特に秘書課は重役の近くにオフィスがあるため、他の課の噂話は届かない。
営業課の秘書である先輩を振り返ると、なぜか私に向けて謝るように手を合わせていた。小さく「知ってると思ってた」と呟く。
「何かあったんですか?」
「いや、別に……ちょっとご飯行かない? 悩んでる顔してるし」
どうして吾妻さんにはいつも見透かされるのだろう。すぐに了承を返し、そのまま二人でビルを出る。
途中、吾妻さんが何度か声を掛けられていたけれど、内容から察するに、吾妻さんはどうやら今日は直帰予定だったらしい。
(……わざわざ戻って来たんだ……)
――どうして?
直帰のところをわざわざ帰ってきて、秘書課のオフィスにまで来て声を掛けられた。宗佑のこと聞いたか、という第一声と、少しだけ気まずそうな雰囲気。
宗佑くんから途絶えた連絡も、吾妻さんが直帰しなかった理由も、先輩が申し訳なさそうにしていたことも深いところで繋がっているのだろうか。
いつもの居酒屋についても、嫌な予感は拭えなかった。
吾妻さんはずっと落ち着いている。雰囲気も変わらなくて、いつものようにいつものメニューを頼んでいる。
本当に、何一つ変わらない。普段どおりだ。なのにどうして、胸がざわついてしまうのだろうか。
「ほい、お疲れ様」
「ああ、はい。お疲れ様です」
ビールジョッキがカツンと鳴って、吾妻さんはそのまま大きく呷る。おいしそうに飲んだ後、良い笑顔で「今日も頑張ったわ」と言ったから、なんだか肩の力も抜けた。
そうしていつもどおりの何気ない会話を繰り返しているうちに、だんだんと気も緩んでくる。
ここまでの疑心は結局、ただの杞憂だったのかもしれない。意味深な出来事が重なる時は多くあるし、それらがまったく繋がっていないというのもよくある話だ。ずっと気を張っていたから、疑心暗鬼になっていただけなのだろう。
「最近どう? 宗佑とはちゃんと話した?」
何気ない話の切れ間に、なんとも自然にそんな言葉が投げられた。飲み始めて一時間半。酔いも回って来た頃である。
「……そう、ですね。まあ」
「ん、なに。歯切れ悪いね」
「……もう、あんまり分からなくて」
私が思っていた「シアワセ」はもう遠く薄らいで跡形もない。
好きだと思うのに手を取っていいのかも分からない。どうしてそれが出来ないのかも、どうして素直に受け入れられないのかも何一つ分かっていない。
私は、どうするのが正解なのか。
ふうと一つ息を吐く。思った以上に深いものだった。
「……私、馬鹿なんですよ。全部私が選んだのに……宗佑くんがあの子を好きなことも、宗佑くんが私を代わりにするのも全部、私がそれでいいって自分で決めたことなのに、それがしんどくなったんです」
「……当たり前のことじゃない?」
「そう。当たり前です。……それが、自分の決めたことでなく、強要されたことだったなら」
「宗佑は充分強要してたろ。たまたま宮岡さんの選んだことと宗佑の求めたことが合致しただけだ」
「でも私は、選んだんです」
好きだったから考えて、別れたくないから決めた。
あの子になることも、宗佑くんがあの子を諦めないことも、そうすれば「幸せ」になるのだと信じて疑わなかった。
「……馬鹿なんです。自分で決めたことにしんどくなって、勝手に傷ついて……宗佑くんが『好き』って言ってくれても、どこか遠い世界の出来事みたいでした」
振り回されたのは私だったのか、宗佑くんだったのか。
もしもなんて考えても仕方ないけれど、もしも最初に私が宗佑くんに問いただしていれば、何か違った未来があったのかもしれない。
恋は盲目。まさに私はそうなっていた。本当は分かっていたくせにあえて見ないふりをして、考えないようにと遠ざけて、双方のためだからと理由をこじつけたのだ。
押し付けていたのは私も同じだった。
「……じゃあさ、宗佑が居なくても、宮岡さんは大丈夫?」
吾妻さんはもう何杯目かになるビールを店員さんから受け取ると、そのまま視線をこちらに向けた。
酔っているはずなのにやけに真剣な目だ。それにはほんの少し、肩に力が入ってしまう。
「それだけでいいだろ、考えることなんか。これから先の人生に必要か必要じゃないか。側に居てほしいか、居なくてもいいのか。……宮岡さんは考えすぎなんだよ。正しくあろうとしてる。それも、自分にとってじゃなく、相手にとって」
「あんまりピンときません」
「我慢をしてるってことかな。……自分のことを馬鹿だなあと思うならそれでいい。そこは重要じゃないだろ。宮岡さんは今、すごく足踏みをしてるよ。どうしようもないことを考えてぐるぐるして、だから『分からない』に陥ってる」
「……でも、どうしたらいいかとか……その、宗佑くんがくれるものをどう受け取れば良いのかも分かってなくて……」
「受け取りたいとは思ってんだね」
吾妻さんの言葉に、思わず動きが止まった。
私は確かに今「受け取り方が分からない」と言った。それは、受け取りたいと思っているということなのだ。
宗佑くんに好きだと言われた。
あの時、一番最初に何を思ったっけ。
「……わ、分からないんですよ。だって未来が見えなかったんです。好きだって言われて嬉しかった。だけど幸せってなんだったっけって、そう思ったら急に、まるで遠い出来事みたいに思えて……吾妻さんは相手のことを考えてるって言ってくれましたけど、私は自分のことばっかりなんです。宗佑くんのことを考えたなら、あの時ありがとうって言うべきだったのに」
そのためにこれまで、あの子になりきっていたはずだった。けれどいざその場面になると、手を取れなかった。迷子になった心地で、ただ宗佑くんと距離を取ることしか出来なかった。
自分勝手に、宗佑くんを受け入れなかった。
「……なんで、言えなかったんだろう……」
初めて湧いた疑問だった。
それを思うままに言葉にすると、吾妻さんは眉を下げて、困ったように乾いた笑いを上げる。
「未来が見えなかったのも、気持ちを受け取れなかったのも当たり前だと思うよ。だって信用できないでしょ、自分を好きな女の代わりにしてた男なんか」
自分を責めることでもないよと、吾妻さんのそんな言葉に、突然心が軽くなった。
ああそうか。私はきっと、宗佑くんを測っていた。
どこまでが本音か。どこまで信用できるのか。
それならまだいい。きっと心の片隅では、それだけじゃなかった。
次、また私を見てくれなかったら……?
そんな疑心を抱いて、これ以上傷つきたくないからと、保身のために距離を置いた。
私は私を守るためだけに、宗佑くんの気持ちを疑ったのだ。
「私、どうしたらいいんですかね」
「それは俺にも分からないけど……宮岡さんがどうしたいかでしょ。もう一回聞くけど……宮岡さんは、宗佑が居なくても大丈夫?」
少し前に聞かれたそれが、今度は違って耳に届く。
たとえば、宗佑くんが居なくなったら。
「……充分だと思うけどね。その反応だけで」
私は、どんな顔をしていたのか。吾妻さんはただ私を見てそう言うと、半分くらい残っていたビールを一気に飲み込んだ。
「本題を話そうかな」
やけに強く、ジョッキがテーブルを打つ。表情も少しだけ固く、体にも力が入っている。――宗佑くんとのことを聞くのが本題かと思っていたけれど、どうやらそうではなかったらしい。
「……本題、ですか」
「そう。……聞きたかったんだ、宮岡さんがどうしたいか」
まるで独り言のようなそれは、賑やかな居酒屋にはかき消されそうなほどに小さい。けれどきっと伝えようともしていない言葉なのだろうと察して、それの意味は聞かなかった。
「……宗佑と連絡とれてないだろ。たぶん会ってもないはずだ」
「……はい。でも、なんでそれ……」
「俺が出張に入る前……宮岡さんの家に宗佑が行ったと思う。最後に話し合った日」
なぜかそこで、吾妻さんは苦しそうに顔を歪めた。
嫌な予感を思い出す。ここに来る時に覚えた違和感だ。
どうして直帰しなかった。どうしてわざわざオフィスに来て連れ出した。最初に言われた、宗佑のこと聞いたか、なんてあの言葉は、いったいどういう意味だった。
「あの日、宗佑、事故ったんだよ」
疑惑が確信に変わる。
吾妻さんはきっと、これを伝えるために今日、私をここに連れてきた。
「……事故……え、じゃあ今、」
「うん、入院中。……宮岡さんがもう宗佑のことどうでもいいって思うんなら、教えなくてもいいかなって思ったんだけど……そうでもないみたいだから」
宗佑が居なくても大丈夫? なんて言葉の重みを、今になって理解する。
覚悟を試されるような状態なのだろうかと、それを思えば「容態は」とも聞けなかった。
「会社近くの総合病院ね。明日午前休取って行って。……出来るだけ早く」
「……出来るだけ早くって、何で……」
どうして早く行く必要があるのだろう。だって別に午前休を取らなくても、お昼休みとか、次の休みの日でもいいはずである。
どうして早く行かないと会えなくなる、とでも言いたげな焦りかたを――。
「意識不明の重体だからだよ。……行っても話せないけど、顔は見てきなよ」
――信号を見ていなかった車が、ブレーキなしで突っ込んだ。幸いにも人が多く、目撃者も多数居たためにすぐに運転手は捕まった上に、救急車を呼んだのも早かったから、処置は悪くなかった。
ただ、宗佑だけが目を覚まさない。安定もしてないから、峠がいつ来るかも分からない状態だ。
吾妻さんの説明に、私は一度も相槌を打てなかった。
ただ聞いている中でぼんやりと、最後の日の宗佑くんを思い出す。
好きだと言ってくれた。
それでもいいよ。それでも俺は桐子さんが好きだよと。何度も繰り返し言って、抱きしめてくれた。
その時彼は、どんな顔をしていたっけ。
(……あれが、最後……?)
手が震える。今すぐにでも、病院に駆け込みたい気持ちだった。




