表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
身代わり成就  作者: 長野智
15/20

第八話

 





 勢いでやってきた桐子さんの部屋は、当然ながら静まり返っていた。

 玄関の前に立って数分。中からは物音もなく、ひややかな空気さえ漂っている気がする。

(……帰ってない、わけじゃないよな……?)

 自信はない。そのため遠慮がちに一度インターホンを鳴らしたのだけど、やっぱり反応は返らなかった。


 少し時間は経ってしまったが、まだ寝るような時間ではない。だとすれば単純に無視をされているのかと不安になりながら、もう一度それをゆっくりと押し込む。

 室内から聞こえる、間延びした音。余韻を残して消えるそれに、何かが動く気配は感じられない。

(……帰ってない?)

 だとしたら、いったいどこに行った?

(誰と。なんで……あんなことの後に?)

 俺に嫌いだと、さようならと突きつけて、何も思うことなくどこかに行ってしまったのか。そんな風に思ってしまえば自然と指先が動いて、どうか居てくれともう一度押す。

 それでも何も起きなくて、とうとう扉を直接叩いた。

「……桐子さん」

 自信がなくて、声は大きくはならなかった。もし居なかったら、今頃誰かと過ごしていたら、その時俺はどうすれば良いのだろう。

(女ならまだいい)

 ただの友人であるにしても、男だったら最悪だ。

 ぐるぐると悩んでいると、室内が動いた気配がした。気のせいかもしれない。それでもなんとなく「居るのではないか」と思えてしまって、もう一度、それでも自信はないままで小さく呼びかける。

「桐子さん。お願い。開けて」

 反応はない。気のせいだったのかとも思えるほど、空気も張り詰めていた。


 ノックをしながら、もう一度呼びかけた。結果は同じで、やがて手から力も抜ける。

 ――カバンの中に潜めた指輪。こいつは無事、役目を果たすことが出来るだろうか。

(せっかく吾妻から取り返したけど……)

 もしかしたらあのまま吾妻に渡して、吾妻がここに居たほうが良かったのかもしれない。そうすれば桐子さんはすぐに出てきて、吾妻と話して、慰められて、傷を癒して、そのうち付き合ったりして――俺の事なんか綺麗さっぱり忘れて、優しい吾妻と一緒に居られたかもしれない。

(……覚悟したんじゃないのかよ)

 もしかしたら、なんてことをいつまでも考え続けるとは、どこまでも情けない男だ。そんな自分に嘲笑しか漏れなかった。


 しばらく動けないまま数分が経った。強引に押し入りたいのにやっぱり躊躇ってを繰り返していると、内側から扉が開く。

 静かに、控えめに、警戒しているような慎重さだった。開いた先に居た桐子さんと目が合ってもすぐに反応できないほどには、そこが開いた事実に驚いた。


 少し前まで会っていたのに、久しぶりに会った心地だった。

 まるで遠距離恋愛中の恋人と数ヶ月ぶりに再会したような、あるいはずっと会えていなかった初恋の人と偶然再会できたような、そんな場合ではないというのに心の片隅が浮かれている。

 また、その目が俺を見た。たったそれだけのことである。


 しかし。

 感慨に耽る間もなく、訝しげな視線を受けてすぐに我に返る。

「あ、桐子さん。ごめん、夜に」

「……別に」

「風呂入ってた? 寝る前だったかな」

「まあ、うん。……寒い、し、入る?」

 入ってもいいの、と。そう聞き返しそうになり、すぐに言葉を引っ込めた。

 ここでそんなことを聞けば、やっぱり嫌だと言われるかもしれない。

「よければ」


 他に気の利いたことも言えなくて、それからも特に会話もなく無言で促された。

 桐子さんの部屋にはもう何度も通ったはずなのに、今は寒々しく色褪せて拒絶の強い他人の部屋のように映る。

 いつもの場所に座ったって、そこが定位置であったかさえも分からない。他人行儀なそこは、どうにも居心地が悪かった。

 だからなのかもしれない。

 いつもは気を遣って出してくれるお茶とかコーヒーがない、なんてそんなちょっとしたことにも胸が痛む。

(……家ごと拒絶されてるみたいだ)


 重たい沈黙が落ちる。桐子さんは落ち着いた目をして俺を見るだけで、当然ながら何かを言い出す様子も見られない。

 俺が押しかけたのだから当たり前だ。それは分かるのに、どうしてあんなことの後で俺に対して何もないのかと、ふつふつと腹の奥が微かに煮えていた。

 そこまでの存在だったのかよと、俺がそんな風に思うのは間違っているというのに、どうしてもそんな感情が過ぎる。


「何の話をしにきたのかは、なんとなく分かるけど」


 やがて小さく切り出したのは桐子さんだった。

「私から話すことはないから。……だんまりなら、帰ってほしい」

 帰ってほしい。やっぱり、そんなふうに言う。

 どうでも良いように。突き放す言い方で、俺を拒絶して。――まるで、俺たちはすでに終わった関係だとでも言いたげだ。

(……終わった?)

 もしかして。

 視線を上げると、桐子さんはやっぱり俺をじっと見ていた。


「俺たち、別れた?」


 どうか否定をしてくれと、そんな願望を打ち砕いた桐子さんは、違うの? なんて表情で息を呑む。

 これから何を言われるのか。なんとなく想像がつくそれが聞きたくなくて、話す隙を与えないようにと口を開いた。

「いや、そっか。そうだよな。二股は最低で、俺みたいにはっきりしない男が嫌いって……さようならって、言ったしね。そうだよな」

 そうだよな。

 一つ一つ、自分の言葉がしっかりと突き刺さる。

 二股は最低。はっきりしない男は嫌い。さようなら。すべて別れの言葉である。


 胸が痛い。だけどこの痛みは、今まで桐子さんが受けてきた痛みだ。俺はこれを拒否する資格なんかないし、受け入れなければならないとは分かっている。

 分かっているのに、身勝手な恋心が「そんな酷いことを言わないでくれ」と必死に叫んでいた。

 

「……それで、どうしたの?」


 ぐるぐるとする思考の中に、ぽつりと桐子さんの言葉が落ちた。

「どうした……?」

「片寄さんは? 置いてきたの?」

 ここでどうして雛が出てくる?

 だって俺は桐子さんを追いかけてきた。桐子さんのことが好きだと伝えたはずだし、雛のことはもうなんとも思っていないと分かってもらえたと思っていた。

 信用されていないのは仕方がない。

 だけどこんなのは、あんまりじゃないか。

「なんだよ、それ」

 少しだけ言葉が尖る。

「俺が悪いのは分かってるよ。だけど、なんだよそれ。桐子さん、俺の事本当に好きだった? そんな風にあっさり言えちゃうくらいすぐ身を引けてさ、他の女の事気にして、それって俺の事好きなの? …………いや、分かってんだよ、ちゃんと。桐子さんは俺の事好きだって。あいつになりきって俺に好かれようとするくらい好きでいてくれてるって、分かってんだけどさ……。けどもう、桐子さんの気持ちが見えない」

 分からない。どうしたら良いのか。どうしたら伝わるのか。どうしたら、やり直せるのか。

 あと何を言えば、何をすれば、その心に届くのか。


「あー、いや……俺のこと、嫌いって言ったもんな。好きではないよな……そうだよなあ」


 色々考えてぐちゃぐちゃになって、行き着いて真っ白になって、吐き出した言葉がそれだった。

 本当に、なんて気が利かない。もっとほかに言い様があったはずなのに、何一つ思い浮かばない。

  ――声も震えてかすれて弱々しく、逃げてばかりのくせに身勝手なことばかりを言って、最後にはこれだ。

 なんて情けない男なのか。

「……最初はさ、確かに似てるって思ったんだ。初めて見た時には、雛だと思った。だから咄嗟に腕を掴んだ。だけどよく見たら違ってて、どうしようかと思ったんだけど……でも俺、本当に長い間雛の事好きだったから、引きずってて……」

「……うん」

「最初のひと月はね、ごめん。雛の代わりにしてた」

「知ってるよ。それについては別に、」

「聞いて」

 頭が真っ白だったからなのか、余計なことを考える隙間もなく、感情の波もなく、本音だけが口から出て行く。桐子さんもそんな俺の言葉には冷静になれたのか、制しても特に反論もなく口を閉じた。

「確かに、桐子さんと雛は似てたけどね、やっぱり違ったんだよ。何もかも違った。正反対かってくらい。好みも、仕草も、話し方も、声だって、何一つ重ならないんだ。だからそれがすごく嫌で、最初は、無理に雛にしようとしたんだけど」


 あの日、不意に気が付いた。

 ふとした日常に溶け込んでいた感情。まるで違和感もなく染み付いていたそれはきっと、あまりにも馴染み過ぎて見えていなかったのだろう。


「なんか、突然分かったんだよ。半月前くらいだったかな。――ある日、桐子さんが俺の家で料理してる時に、それ見てたら『桐子さんだなあ』って思えて。……ああ、違う。なんて言えばいいのかな……ストンと、落ちてきたんだ。見えてなかったものは、実はずっと目の前にあった、みたいな」




 軽快な音と、食欲を誘う香り。それを背負ってキッチンに立っていた桐子さんは、ぼんやりと見ていた俺に気付いて笑いかける。

「なに?」

 温かくて優しい光景だった。

 眩しくて、だけど手を伸ばすには躊躇ってしまう、それでも手放したくないと確かに思える得難いものだ。

 本当に大切なものは何か、その答えが落ちてきた瞬間だったのかもしれない。

 ――なんでもないよ。

 幾分、柔らかな声が出た。一瞬だけキョトンとした桐子さんは、それでも次には微笑んで、

「なにそれ。変なの」

 優しく、笑ってくれたから。

 俺にはもう、それだけで良いと思えた。





「大切にしようって思った。雛じゃなくて、桐子さんを大切にしようって。逃げたわけじゃないよ。雛がダメだったから桐子さんで妥協とか、そんなことでもない。――ちょっと前にね、雛とよく話し合ったんだ。桐子さんが眼鏡を掛け始めて、その事で吾妻に怒られて……もしかしたら桐子さんが雛の事を知ってるかもしれない、なんて思ってる時に休日も会ってくれなくなったから、いい加減しっかり終わらせようと思って」

「……終わらせる?」

「そうだよ。今まで、俺と雛は曖昧過ぎた。お互いが好きだって態度に出てたのに、告白もないままで近くに居すぎたんだ。だから、よく話し合った。……そうしたらさ、やっぱり雛も俺を好きだったって言ってくれたよ。でも俺は恋人の桐子さんが好きだからって、きちんと伝えてさ……雛も、今の恋人を大事にしようと思ってるって」

 多分、いや、絶対に、桐子さんは雛をずっと知っていた。きっと俺と雛のツーショットも見たことがあったのだろう。

 そんな俺たちの真実を話せばどんな反応をするのかと、観察するように桐子さんを見ていたのだけど、少し驚いただけで大きなリアクションは見られなかった。

 もう終わったと思われているからだとは考えたくない。

(……大丈夫だ。まだ……だから今、言わないと)

 きっと俺は、後悔する。


「……俺は、桐子さんが好きだよ。俺が桐子さんにした事も、桐子さんを傷つけた事も、何も無かったことになんかならないけど……これから絶対幸せにするから、俺とこのまま、最初からでもやり直してもらえないかな」


 都合が良いと罵られてもいい。嫌いだと言われても、信じられないと言われても、それが桐子さんの本音であれば何でも受け入れられる。

 最初からで良いのだ。ぐちゃぐちゃになったのなら戻せばいい。解けていた最初に戻って、もう一度二人で綺麗に歩める道を選べばいいだけだ。

 どうか本当の心を見せてほしいと、願いながら桐子さんを見れば、綺麗なその目にじわりと涙が溜まっていく。


「……ごめん、宗佑くん」


 細い声だった。その声を揺らして、緩やかに首を振る。

「ごめん……」

 ぽろりと一筋、涙が伝った。同時に、桐子さんの表情がくしゃりと歪む。

 一筋落ちればその後も続いて、止まることもなく溢れては流れた。痛々しいと思えるその光景は、それでも桐子さんの心が溢れたのだと思えば嬉しいような気もしてくる。

「桐子さん……」

「ごめん。私も好き……でも、もう分からない……」

 私も好き。その言葉だけで充分だった。



 桐子さんはしばらく静かに泣いていた。時折「ごめんね」と聞こえた言葉には、何度も好きだよと伝えて、それでもいいよと言い聞かせた。それでも好きだよと。言う度に桐子さんは泣いていたけど、拒絶はされなかった。



 ――きっと俺たちはやり直せる。複雑に絡み合ってしまった関係は、ここからゆっくりと解けていくのだ。



 返事は待ってほしい。よく考えたい。そう言われたけれど、その声と表情は悪いものではなかった。

 好きだからこそ考えたい、ということらしい。それは別れるためではなく、これからの関係を良くするために、色々と整理したいからなのだろう。




 結局渡すことが叶わず、カバンの中に潜められたままの指輪。セリフも何も考えていなかったから良かったと言えば良かったのだけど、今回渡せなかったそれは、次に二人で会うときには渡すことが出来るだろうか。


(……いや、渡す。絶対渡す)

 赤色を灯す信号を見ながら、なんとなくそれを取り出す。

 桐子さんの家からの帰り道、手のひらにすっぽりと収まるリングケースを見下ろして、つい頬が緩んだ。


 これを渡す頃には、斉賀さんがデザインしてくれた指輪も仕上がっているだろう。

 大人っぽくてしっかりしていて、なのに時折可愛らしい顔を見せる桐子さんをイメージしてデザインを依頼した、桐子さんにぴったりの指輪だ。それを見たら、桐子さんはどんな顔をするだろうか。

(……あのネックレス、すごい気に入ってたし)

 嬉しそうに笑う桐子さんの顔が浮かんで、早くそんな未来が訪れるようにと心から願った。

 それでも焦ってほしいわけではない。きっとそう遠くない未来なのだから、焦る必要がない、が正しいだろう。



 信号が青に変わる。

 それを確認して、すっかり人も少なくなった横断歩道に踏みだした。


 リングケースに気を取られていたのがいけなかったのか、そもそも気が緩んでいたからなのかは分からない。

 背後から空気を裂くような悲鳴が聞こえて、そちらに振り向いた頃には遅かった。



 覚えているのは、目の前に迫るファミリーカーの眩いライトと、浮遊感。焦る顔。複数の足。

 そして、意識が落ちる寸前に見えた、転がっているリングケースだけである。


 

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] え。まさかの事故。これで異世界転移しちゃったらあづまさんエンドになってしまう!? [一言] その時々で最善の行動なんか取れないからこそ人は後悔するんだよなーと、方向性は違うものの我が身…
[一言] ………。 ええええええっ!!!!! そそそ、そうなるんですか!? まず、宗佑と桐子さんの思いの食い違いにも激しく動揺しました。 「そうはならんやろ!?」という宗佑の明後日な方角を向いた…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ