第七話
思えば昔から、吾妻は読めない男だった。
何があってもいつも強気に笑っている印象がある。腹の底を見せてもらえたことなんか一度も無い。相談をされた記憶もなければ、弱みを見せられたこともない。
それは俺たち同期に対して一線を引いていたのか、元々吾妻がそういった男だったからなのかは分からないけれど、そういえば同期の誰かが言っていた。
「あいつって無表情だよな」
吾妻はいつも笑っていた。楽しそうにというわけではないが、それでも口元はきちんと笑っていたはずだった。
「ずっと無表情なのとずっと笑顔なのは一緒だろ。ポーカーフェイスには変わりないよ。何を考えてるか分からない」
嫌いというわけでも、周囲から嫌われているというわけでもない。
ただ同期の中で、吾妻は「読めないよく分からない男」として、どことなく一目置かれていた。
俺が一番側にいた。なんとなく吾妻も俺のところに来ていたし、俺も吾妻と居るのは楽だと思っていたから、吾妻だって同じように思ってくれていたと思う。
そんな俺でさえ、吾妻という男については「よく分からない」という印象だった。きっとこの先もこいつに関しては「よく分からない」で終わるのだろうなと、そんなふうに思っていたほどである。
それがまさか、ここにきてさらに分からなくなるとは思わなかった。
「俺が追いかけていいか。……おまえが行かないなら、俺が行くよ。俺なら宮岡さんを絶対泣かせない」
やっぱりそうだったのかという納得と、そんなことあるわけがないという否定が重なる。感情がぐちゃぐちゃになり、自分がどう思いたいのかも不明瞭だ。
(……いや、違う。吾妻のことだ。きっと俺を試したいだけだろう)
真実そう思っているのか、思いたいだけなのかももう分からない。試されているだけだと言い切れないのは、吾妻の目があまりにも真剣だからだ。
「……返してくれ」
しばらく間を置いてようやく出てきた言葉は、情けなくも弱々しい、返事にもならないものだった。
吾妻の手にあるプロポーズリングは、いまだ強く握り締められている。手放す気がないのか、一向に帰ってくる気配はない。
「頼むよ吾妻。……俺はきっと、おまえには敵わない。だから、それを返してくれ」
俺は、この男のことをよく知っている。何を考えているのか分からなくて、いつも強気に笑っているような、不思議な余裕のある男だ。だけど、だからこそ昔から人気があった。誠実で頼り甲斐があって、だけどたまにダメなところもある。そんなところを見つけては「吾妻くんっていいよね」と、女性陣はヒソヒソと話し頬を染めていた。
そんな吾妻が本気になったのなら、桐子さんだってすぐに吾妻を好きになるだろう。
きっと敵わない。
俺みたいな最低な奴が、この男に敵うわけがない。
「それがどういう意味か分かってるか、宗佑」
ぽつりと、言葉が落ちた。落ち着いた声だ。怒っている様子はない。しかし反応が出来なくて、ただ視線を伏せた。
吾妻はいつも正しい。俺が桐子さんを見つけた時からずっと、つい最近まで俺のおこないを咎め続けていた。一本筋の通ったものを曲げたこともなく、友人だからと甘やかすわけでもない。吾妻はただ公明正大に物事を見て、誰に対しても正しく怒る。
だからこそ、その目を見返すことが出来ない。何もかもを見透かして、正しい言葉で刺されるのが怖かった。
「……分かる。分かってる」
「本当に?」
まさか念を押されるとは思わなくて、反射的に吾妻を見た。しかしその目が思った以上に真っ直ぐで、まるで突き刺すような鋭さがあったから、すぐにぱっと逸らしてしまう。
ああ、ほら。俺は弱い。これからは大丈夫だと思えるのなら、目をそらす必要なんかないというのに。
責められている感覚はない。だからこそ、居心地の悪くなる目だった。
「……どうして怒らないんだって聞いたらな、自分は愛されていたから怒らないんだって言ったんだよ」
吾妻の言葉は小さな音だったのに、そればかりはやけに強く聞こえた。
――怒ったり、泣いたり、叫んだり、そんな事したら、別れるとか言い出すでしょ? そんなの嫌だから、それなら私は受け入れて、宗佑くんも私もハッピーになれる未来にしたかった。
かつて、確かに桐子さんはそう言っていた。
傷ついた様子もなく、ただ本当に「当たり前のこと」を言っている表情で、怒ることも泣くこともせず、淡々と他人事のように。
「歪だろ。そんなの歪んでる。……片寄みたいになったって、それは宮岡さんが愛されてるわけじゃないのに」
吾妻の目が、空気に呑まれて静観していた雛に移る。それに驚いたのか雛はびくりと肩を揺らして、何も言えずにはくはくと口を動かしていた。
「これを返すってことは、おまえはもう選べないぞ。そういう意味だ。面倒くさいって逃げるなら今しかない。――大丈夫だよ、あとのことは俺がいる。知ってるだろ? 俺は一途な男なんだ」
もう一度俺に戻ってきた目は、最初よりもうんと真剣な色をしていた。
その目が問う。いつもは「何を考えているか分からない」と思わせて他人をけむに巻いていたくせに、こんな時だけは嫌と思えるほど強い。
「面倒くさいって逃げ出すなら、もうずっと前にそうしてた。……知ってるだろ? 俺は面倒くさがりなんだよ」
正直、投げ出す機会はいくらでもあった。桐子さんから与えられたと言うべきなのかもしれない。
言葉の端々に含められたトゲと拒絶。彼女はとてもあっさりと、知ってたよと言っていた。気さくに言うことで相手に気遣わせず、そして遠まわしに「もういいよ」と告げたかったのだろう。
もう嘘をつかなくていい。もう側にいなくていい。もう大丈夫だから、行きたいところに行っていいよと。
直接的には言わなかったけれど、俺には確かにそう聞こえた。
なんでそんなこと言うんだよと思う反面、心の奥底では、全部投げ出したほうが楽だよと何度も何度も悪魔が囁く。こんな面倒くさい関係やめちまえ、終わらせてさっさと忘れちまえと、楽なほうへと誘っていた。
最初はきっと、意地になっていただけだった。こんなことになって投げ出すなんてできるかと、罪悪感を塗り潰したい偽られた正義感が働いていたのだろう。
切り捨てるのは簡単だ。自分が向き合いたくないからと目を背ければ、それだけで簡単に終わる。これまでだって最悪なことをしていた。それなら今更つくろわず、尻拭いなんてやめて逃げてやれば良い。
好きになれる女は別に一人じゃない。今好きだと思っていたって、忘れるのは一瞬だ。
(……そんなこと、ずっと分かってる)
そうしたほうが楽だということも。
「分かってんだよ全部。何が間違いで何が正しいのかも。桐子さんが本心ではどう思っていて、俺がどうすべきなのかも。このまま別れるのが最善だって、おまえもどうせそう言いたいんだろ」
「そうだよ」
「俺もそう思う。一からスタートなんて夢のまた夢だ。マイナスからっていうのも可愛い表現なのかもしれない。……分かってんだよ、別れたほうがいいって。ひどいことして、好意を踏みにじって、なのにまたやり直したいとか虫が良すぎるってさ。本当、どうしようもないくらい、鬱陶しいくらい理解してる」
どうしてあんなことを思ったのかは覚えていない。
ただ、キッチンから聞こえる軽やかな音と漂う良い香りに、不意にそちらに目をやっただけだった。
何かを考えていたわけでも、名前を呼ばれたわけでもなく、本当にただなんとなく、料理をしている桐子さんを視界に入れただけだ。
記念日とか、何か特別なことがあったということもない。それまでべったりしていたわけでも、熱烈に求めあったわけでもない。
なんてことのない日常の中、そこに溶け込んだ桐子さんがすごく眩しくて、心地の良い何かが心に落ちた。
目が覚めたとも、気がついたとも言えるのかもしれない。
今、目の前にあるこの穏やかで優しい日常が心底愛おしいと、ごくごく自然にそんなことを思っていた。
「なに?」
ぼんやりとした俺に、桐子さんが笑いかける。
そんな当たり前の光景さえ、なぜかその時には眩しく映った。
「でも無理なんだよ。……俺はたぶん、もう無理だ。気付いたら、手放せなくなった。意地だったのが、醜い執着になった。別に桐子さんじゃなくてもいい。雛の時にだって切り替えられたんだからこだわる必要なんかない。分かっていても、気付いたんだから無理なんだ」
好き、と正しく言っていいのかも分からない時がある。緩やかに優しく侵食したその感情は、今では濁りきった色で俺の中に大きくあって、無理だ嫌だと叫んでいる。
汚くて歪な、言葉にもなれない感情だった。
「頼むよ吾妻。それを返してくれ」
情けないことに、言葉が震えた。
ここで吾妻に行かれたら、俺の出る幕はない。桐子さんは確実に吾妻を選ぶだろうし、そうなった時、俺が二人を引き裂くなんて出来るわけがないのだ。
だからどうか行かないでくれと、このままおまえはここに居て、そのリングだけは返してくれと、涙が出そうになるのを堪えながら、心の底からそう願っていた。
まるで懇願するような言葉の後、数秒置いて、吾妻の手がふと伸びた。
それはプロポーズリングを持っている手で、こちらにつき出すように差し出されている。
「今言ったこと、思ったことも全部、忘れるなよ」
いつまでも受け取られないことに焦れたように、吾妻がそれをぐんと押し付けた。そうしてようやく、本当にゆっくりと、じんわり実感が湧いてくる。
「……わ、すれない」
受け取れば、ようやく吾妻が手を離す。
「じゃあ行け。俺はこいつの説教で忙しくなりそうだからな」
「えっ、わ、私っ……!?」
「当たり前だろ、話しかけるか普通」
「だ、だってー……すみません……」
ずっと黙っていた雛が、ようやく緊張が解けたように体から力を抜いていた。吾妻の空気が緩んだというのもあるのだろう。今にも安堵で泣きそうな顔をしている。
「ほら、行けよ」
言葉が背を押した。その表情はどこか凪いでいて、決して悪いものではない。
だけど、もしかしたら――。
「……吾妻」
桐子さんの家に向かいかけた足が、一歩踏み出したところで止まった。
振り返れば、吾妻はやはり先ほどと変わらない表情で、俺をまっすぐに見つめている。いつもの、何を考えているか分からないと言われた、同期いわくの「ポーカーフェイス」の表情だ。
「なんだよ」
「…………いや、やっぱりなんでもない。行ってくる」
なんとなく、聞けなかった。
それを聞いてしまえば、俺は吾妻と友人で居られなくなるかもしれない。だからこそ明言されてはいけないと、その言葉を聞かないようにと背を向けた。
吾妻は、俺を試そうとしていただけだ。
その考えがきっと、俺たちにとっては最善で、最良なのだ。
もう間違えるなよと、吾妻が笑って見送っていた。
だから、俺なら宮岡さんを絶対泣かせない、と言った時のあの目がやけに真剣だったのもきっと演技だったのだろうと、心を無理やり納得させた。