第六話
『プロポーズリングを片寄さんに預けました』
斉賀さんからそんな連絡が来ていたのを確認したのは、昼食を食べるのにうどん屋に入った頃だった。
今日は朝から外回りなために桐子さんの姿は見ていない。だからこそどんな様子なのかが気になるし、そんなタイミングなためになんだか心も重かった。
受け取ってもらえるかも分からない。突っぱねられて、無理だと言われるかもしれない。
(……昨日も結局、何も言えなかったし)
別れたくないと言うのは簡単だ。俺が幸せにするからと、そんな心意気を口に出すのも難しくはない。問題は、それが本気だからこそ、断られたダメージを思えば安易に伝えることが出来ないというところである。
断られるという未来。それがあまりにも鮮明に浮かんで、強い一歩を踏み出せなかった。
桐子さんをずっと傷つけていたくせに、自分が傷つくのは怖いのだ。そんな身勝手さにはさすがに嘲笑しか漏れなかった。
自覚しているよりもずっと、俺は桐子さんのことが好きらしい。
はっきりとしたきっかけは分からない。桐子さんは気がつけば俺に入り込んで、心地良く馴染んでいた。ただそれだけのことだ。だけどきっとそれだけで充分で、俺には桐子さんが必要だったというだけである。
だからこそ、断られたらどうしようなんて弱気なことを考えてしまう。
分かっている。俺が元凶だ。俺が代わりになんてしなければ、こんなにも拗れていなかった。桐子さんが泣くことも傷つくこともなかった。
宗佑くんも私もハッピーになれる未来にしたかったと、あんな顔で言わせることもなかったはずだ。
(俺が言わせた)
桐子さんに、残酷とも言える決断をさせてしまった。
ひとまずプロポーズリングを預かるため、雛にメッセージを送る。雛は基本的に在宅で仕事をしているからか返信はすぐだった。
『預かったよ。持っていくね』
店に行く、と言ったのだけど、それを斉賀さんに伝えた頃には偶然来ていた雛が預かって帰っていたようだった。どうせ近所だしと気を遣ったのだろうけれど、今は雛とあまり接触したくない時期なために少しばかり胸中は苦い。
雛が近辺をうろつくのは避けたいため、俺が家に行くからと伝えてはみたが、打ち合わせでも始まったのかそこからの返信が唐突に途絶えた。
まあしばらくすれば返してくるだろうと、そうやって余裕を持ってしまったのがいけなかったのだろうか。
帰社したのは夕方だった。
デスクに戻るとすぐに吾妻が寄ってきて、缶コーヒーを一本静かに置く。俺の好きな微糖だ。さらに俺の好きなメーカーのものだった。
「眼鏡無くなってたな」
やけに晴れた表情とその言葉だけで、何のことかは理解が出来た。
そういえば吾妻は、桐子さんをやけに気にかけている。それが心強くもあるが、同時にとても不安に思えた。
桐子さんが吾妻に心を開いているからだろうか。本人は気付いていなくても、二人はたまに親密に笑い合っていることがある。
そんな時、桐子さんは本当に俺と居ても良いのかと思ってしまう。
俺が相手でなければ、桐子さんは屈託なく笑えたのではないか。もしかしたら、俺が桐子さんの幸せを奪っているのではないか。吾妻みたいな男が相手のほうが桐子さんには合っているのかもしれない。何度も何度もそんなことを考えて、別れる決断なんかできないくせに、心ばかりが先走り無駄に思考を乱れさせている。
しんどいと思うことも少なくはない。
だからと言って、桐子さんとの関係を断つことは出来なかった。
「吾妻には関係ないだろ」
「……どうした、虫の居所が悪いな」
「別に普通。吾妻は少し首突っ込みすぎじゃないか」
「これでも心配してんだよ。宮岡さんはもちろんだけどな、おまえのことだって」
「……俺?」
「最近顔が怖いぞ。時々、目から感情が無くなる」
もちろん仕事中は営業スマイルが出てるから仕事に支障はないがな。おどけた様子でそう付け足した吾妻はすぐに、きゅっと表情を固くする。
「間違えるなよ、宗佑。宮岡さんのことも、自分のこともな」
「……言われてる意味が分からない」
「コーヒーでも飲んで少しは肩の力抜け。あんま考えすぎるな。……宗佑。恋愛がすべてじゃない。チャンスはいくらでもあるし、言い方は悪いが女は宮岡さんだけじゃない」
「何が言いたいんだよ」
「フッてもフラれても、人生は終わらねえってことだ。気楽に行こうぜ」
気楽に。
言われて、肩に力が入っていたと気がついた。
俺はもうずっと、まるで強迫観念に駆られるように桐子さんを追いかけていた。
吾妻ではないけれど、今までなら確かに「ほかにも女の子はいるし」と切り替えが出来ていたはずである。それなのに今ではすっかり「桐子さんでなければ」と躍起になっている。
恋愛がすべてじゃない。分かっていたはずなのに、怖い顔をしてしまうほど俺は考え込んでいたらしい。
(気楽に……)
フラットになって、桐子さんとのことを考える。
もしもそれで「必要だ」と思えたなら、その先のことはそれから考えれば良い。
恋愛がすべてじゃない。
それを思い直して缶コーヒーを持ち上げると、吾妻が満足そうに笑う。
「なあ吾妻。もしも気楽に冷静に考えて、それでも桐子さんがいいって思えたらどうしたらいい」
聞けば、一瞬だけ驚いた顔をした後に、吾妻はなぜか苦笑を漏らした。それにどういう意味があったのかは分からない。だけど確かに「どうしようもないな」と、そんな呆れが微かに見えた。
「その時は捕まえりゃいいだろ。今度こそ間違えるなよ」
「今度こそか」
「そうだろ。おまえはこれまで、間違えすぎたからな」
間違えすぎた。その言葉には、反論もない。
(……だから逃げないって決めたんだ)
もう桐子さんを傷つけないためにも、これからの未来のためにも、俺はこれ以上目を背けていてはいけない。
たとえ吾妻の言うように気楽に冷静に考え、桐子さんは必要ないかもしれないと思えたとしても、きちんと決着をつけるべきなのだ。
――桐子さんが泣いたあの日。
桐子さんは、それまで自身がしていたことに対して初めて、明確に傷ついた様子を見せた。驚いた表情で、まるで信じ難いとでも言うように、うっすらと痛々しい笑みすらも浮かべていたと思う。
「分かってたのにね……変なの……泣いてる」
そうやって、分厚く守っていた心を溶かした。
もしも今の俺が言われた通りに気楽に、冷静に今後を考えたならどうなるだろう。
(……最近は確かに、考えすぎてる気がするし)
その時にはきっと、今よりも自信のもてる答えが出ている気がする。
吾妻はただ「行き詰まるなよ」と笑った。基本的に何を考えているのかがよく分からない男ではあるのだけど、悪い奴で無いのは確かである。
ありがとうと素直に言えば、何故か返事もなく背を向ける。やっぱりよく分からない男である。
『もう終わる?』
終業間近に雛からそんな連絡がきた。
まさかあいつ。いやでもあれだけ言ったのだしと、嫌な予感を覚えながらも数秒メッセージ画面と向き合って、終わらない、とだけ返す。
雛は安直である。いや、猪突猛進的と言うのか。好奇心の塊で、あまり我慢が出来る質ではない。だからこそ「終わらない」と返したとは言え、嫌な予感が拭えるわけでもない。
もしかしたらと、心の隅っこに疑念が残る。どうにも無視できそうにないそれは、少しずつ大きくなっていく。
(もう来てるのか……?)
考え始めれば止まらなくなり、とうとう立ち上がったのは終業後三十分は経過した頃だった。
好奇心旺盛だからこそデザイナーなんて職が続くのかもしれないが、あまりに自由すぎるのも考えものである。昔はそれが可愛くて「俺がついててやらないと」なんて面倒を見ていたものだが、今となっては少々厄介な性質に思えているのだから俺もなかなか薄情なのかもしれない。
(好きじゃなくなった途端にとか……)
今が繊細な時期だから尚更か。下手に動かれて引っ掻き回されてはたまったものではない。
何より。
俺が、桐子さんにこれ以上見放されたくないのだ。
(冷静に気楽に、とか言っといてすでにこれか)
もしかしたら考えるまでもないのかもしれない。そう思ったところで、オフィスビルの自動ドアが見えた。
そうして一歩外に出た時、並ぶと意外と似ていないなと、一番にそんなどうでもいいことを思った。
あまりの衝撃に体を強制停止させた脳が、いよいよ現実逃避でも始めたのかもしれない。しかしすぐに我に返り、早く引き離さなければとすぐに駆け寄る。
その背中は間違いなく桐子さんのものだった。仕事が終わったから帰っていたのだろう。当たり前のことだ。残業もなければ帰るのは普通である。
問題は、雛が桐子さんに声をかけたことだ。
いやそもそも、あれだけ言っておいたのに雛が押しかけて来たことからおかしい話である。
やがてたどり着いた頃、ゆるやかに桐子さんの手が持ち上がる。何をしようとしているのかと考えるよりも早くそれを掴むと、弾かれたように桐子さんが振り向いた。
「なにしてんの」
「宗佑くん」
呼ばれて一瞬だけ雛を睨み、桐子さんへと視線を移す。
好奇心旺盛でまったく空気の読めない雛のことだ、何か余計な話を桐子さんにしたかもしれない。桐子さんにとっては嫌なことか、あるいは聞かなくてもいいことか。それを探るためにじっと桐子さんを見つめるけど、桐子さんにはぱっと視線を逸らされる。
これは、間違いなく何かがあった反応だ。
(余計なことを……)
「……雛、会社には来るなって」
「だって、宮岡さんに会いたかったし」
「そのうち会わせるって言っただろ」
「それじゃあ絶対遅くなっちゃうじゃん! それに、急いでたのは宗佑くんでしょ」
「こっちにもタイミングがあるんだよ」
雛は一応空気を呼んだのか、指輪の件は伏せてくれたようだった。
しかし事態は最悪だ。確かに俺は急いでいた。早く指輪を仕上げていち早くプロポーズをしてと、そうやって段取りを組んでいたのも間違いはない。
それでも、プロポーズリングに関しては店に置いておいてくれれば取りに行ったし、指輪のデザインを知って桐子さんがどんな人なのかを気にしていたのはただの雛の好奇心からだ。ずっと「来るな」と言い続けていたにも関わらず、口実を作ってまで押しかけるのにはさすがに辟易する。
これでどうしようもない事態になったらどうしてくれるのか。
不安になりながらも恐る恐る桐子さんを見ると、掴んでいた手を振り払われた。
痛いほどに強い力だ。これまでそんなふうに払われたことが無かったために、一瞬で体が硬直する。
何か言われなかった? こいつのことは本当に気にしないで、なんて言葉が喉の奥で引っかかり、呼吸さえも停止した。
ようやくふと息を吐き出した数秒後、
「もういい」
桐子さんが、低い声で静かに呟く。
「……桐子さん?」
情けないことに言葉が揺れる。それでも桐子さんは俺を見なくて、不機嫌そうに目を逸らして俯いていた。
そんな表情さえも初めて見る。苦しそうで悲しそうな、暗い顔である。
「もういいよ。こうして片寄さんとは会えたし、よく分かった」
「分かった……?」
「私、はっきりしない男って嫌いなの。二股とか最低。こっちから願い下げ」
残酷なことに。
桐子さんはその時、まるで射抜くような睨む目を俺に向けた。
何が「よく分かった」なのか。雛に何を言われたのか。どうしてそんなにも苦しそうな目をするのか。
どれもが言葉にならず、ぐるぐると頭で巡るばかり。まるで憎い男を見るかのようなその視線を受けるだけで、潰れるのではないかという程には心臓が痛む。
その「はっきりしない男」が俺のことならば、桐子さんは今、決別を口にしようとしている。
「あなたのこと、無事嫌いになれそう。だからさようなら」
――さようなら。
それはいったい、どういう意味だったっけ。
桐子さんの背が見えなくなってしばらく経つと、ようやく体が動くことを思い出した。指先からゆるやかに温度が戻り、全身の硬直がとける。
少しずつ実感するように、噛み締めるように脳が受け入れていく。
笑えてきそうだった。
こんな時にも俺は、がむしゃらに追いかける勇気もない。大声を張り上げて弁明する度胸もない。
自分が、傷つきたくないからだ。
「……ごめんなさい。その……私のせいだね」
珍しく落ち込んだ声で、雛が小さく呟いた。それさえもどこか遠く、ぼんやりと霧がかかったような思考にしっとりと響く。
「えっと、これ。斉賀さんが少し手を加えましたって言ってて……それ、早く見せたくって、でも、ごめん。本当に」
「……桐子さん、知ってたんだよ。俺が雛を好きだったこと」
「……え?」
「聞いてただろ。はっきりしない男、二股とか最低だって」
今はもう違う、なんて言い募っても、桐子さんはきっと俺を信じない。
これが結果だ。俺がしたことの重みである。俺は、愛どころか信用すらも得られない。
好きだなんて言っても、桐子さんにはきっとずっと届かないのだ。
「なんで言わなかったの、私に」
雛が呼吸さえも震わせながら、拳を握り締めていた。まるで悔やむように、その顔を泣きそうに歪めている。
「それなら来なかったよ。絶対絶対、会いたいなんか言わなかった。声なんかかけなかった」
「付け加えるとさ、桐子さん、俺が雛のことを好きだって知って、雛になろうとしてたんだ。俺が、雛の代わりに桐子さんと付き合ったって分かったらしくて」
「代わりにしてたの」
「してたよ。クソ野郎なんだよ俺は。おまえの代わりに桐子さんを抱いてたし、何度も何度も雛にしようとおまえの好みを押し付けてた」
雛は、何も知らなかった。
俺が桐子さんと付き合った経緯も、桐子さんが雛を知っていることも。雛に言うつもりはなかったのに、投げやりな心が自暴自棄に吐き出していく。
きっと雛を傷つける。分かっていて、俺はそれを選んでいる。
どこまでも最低だなと、それでももう嘲笑すら漏れなかった。
「なんで言ってくれなかったの……!」
バシッ! と、小さな紙袋が投げつけられた。頬に角が当たって痛かったけれど、地に落ちたその紙袋から指輪のケースが転がり落ちても何も出来ず、それをなんとなく見つめる。
もう不要なものかもしれない。俺が斉賀さんに頼んでいるものでさえ、ガラクタになるのかもしれない。
「最低じゃん、宗佑くんも私も……宮岡さん、私たちのことに巻き込まれただけじゃん!」
「……そうだよ。健気に俺のこと好きになってさ、俺に好かれたくて、幸せを見失っちゃったんだって」
傷ついていることにさえ気付いていない顔をしていた。キョトンとして泣き出した時、桐子さんは確かに迷子になった子どものような顔をしていたのだ。
最低だ。俺は結局、桐子さんも雛も傷つけた。
好きな人も、好きだった人も、どちらも大切に出来ていない。
「何やってんだ二人とも、ビルの前で。目立ってんぞ」
声に振り向いたのは雛と同時だった。
終業後少しだけ残っていたのか、出てきたのは吾妻である。俺と雛を見て首を傾げてすぐ、俺の足元に落ちている指輪を見て一気に難しい顔をした。
「……おいおい、修羅場か?」
「……わ、私が、宮岡さんに話しかけちゃって……」
「そりゃ最悪だ。聞かなくても察したよ」
吾妻が呆れた顔をしながらも歩み寄り、指輪を拾い上げた。丁寧に紙袋に戻されたそれはしかし、俺の手元には返らない。
「で? 宮岡さんは」
「……俺にさようならって言って、帰った」
「あー、なるほど。そうか……」
吾妻の目が、桐子さんが消えた方向へと向けられた。そうしてもう一度「そうか」と呟くと、一拍置いてその視線が戻ってくる。
何かを確かめる目だ。少なくとも、慰めるような色はしていない。
「……見てられねえんだよなあ、宗佑」
「分かってるよ」
「分かってねえよ。……俺はさ、別に良かったんだよ、どっちでも。そんな深入りしたいわけじゃねえし、おまえほど強い思いがあるわけでもない」
何が言いたいのか。確認したくても、もやもやとする胸中がその選択を拒否している。
なんとなく、聞かないほうが良いと思った。聞きたくないというのが正しいのかもしれない。なのに吾妻は俺を無視して、ぼんやりとしたまま口を開く。
「でも、泣いてんだって思うと……やっぱなあ」
「返せよ、吾妻」
紙袋はいまだに吾妻の手の中にある。求めるように手を伸ばすけれど、吾妻は渡すつもりがないのか、それをじっと見下ろすだけだった。
「俺が追いかけていいか。……おまえが行かないなら、俺が行くよ。俺なら宮岡さんを絶対泣かせない」
吾妻は、冗談を言っている目ではなかった。
ただ真剣に紙袋を握り締めて、俺をまっすぐに、射抜くように強く見ていた。




