第五話
「多分だけどな、宮岡さん、気付いてるぞ。……あれはどう見たって片寄だろ」
吾妻がある日、俺を呼び出して忠告をした。
桐子さんが眼鏡を掛け始めたその日のことだ。あの桐子さんは確かに、一瞬雛かと思うほどにそっくりだった。
少し見れば違うと分かる。それでも眼鏡のデザインまで酷似している偶然なんてありはしないのだから、寄せているということは明らかである。
「……分かんねえよ。偶然かもしれない」
偶然ではないと分かっているのに、桐子さんは気付いていないだろうと思い込むことで、真実を知られているかもしれない未来から逃げる。
そんな俺を見透かしたようにため息をつくと、吾妻は面白くなさそうにじろりと俺を鋭く見つめた。
「……ああ、そうだな。偶然かもな。おまえがそう思うんならそれでいいけどな、時間が経てば経つほど変に拗れるぞ。修正不可になってからじゃあ遅いから、それだけは覚えとけ」
そんなこと言われなくても――と言い返せなかったのは、分かっているのに動けない自分がいたからだ。
この時に、桐子さんに何もかもを聞いていれば良かったのだろうか。
吾妻が言う「変に拗れる」前に全てを白状して、許してもらって、そうして一からやり直そうと言えていたら、桐子さんも俺に心を開いてくれていたのか。
全部俺が逃げたがための結末で、後の祭りだなんて分かっている。
それなのに、あの時こうしていたらと、そう考えてしまうのだ。
「勘違いだよ」
何も言えなくて、ただ間が落ちた。
心の奥が抉られる。苦い心地が緩く広がり、何か否定をしなければと思ってはいても、予想もしていない反応だったために言葉も探せない。
ただどうしてと桐子さんを見つめると、桐子さんは変わらない表情のままで小さく息を吸い込んだ。
「気のせい。間違えてる。全部、錯覚なの」
変に拗れるぞ。そんな吾妻の言葉がよみがえる。
分かっていたはずだった。それでも目を逸らしたのは俺だ。俺は、こんな言葉を平気な顔で言わせてしまうほどに、桐子さんを歪めてしまった。
自分が逃げることを選び、桐子さんの心を犠牲にしたのだ。
「……違う、違うよ。俺は本当に、」
「もういいよ。早く本題を話そう。……あの子と結婚するんでしょ?」
あの子、と聞いて一瞬悩む。しかしすぐに雛のことだと気がついて、どうして俺が雛と結婚をするという話になったのかと当然の疑問が浮かんだ。
だって雛には恋人が居る。桐子さんが俺がまだ雛を好きだと思い込んでいるにしても、雛にも相手がいるのだからありえないことだ。
「なに……なんでいきなりそんな事……」
「二人でジュエリーショップに行ったのを知ってるから。……今度私とあの子を会わせた時に言おうと思ってたのなら、ごめんね」
いつだ、と考えて、たった一回、斎賀さんに会った時に二人でそういった場所に行ったなと思い出した。別に雛との指輪を見ていたわけではない。桐子さんへのプレゼントとして、桐子さんが好きだと言ったデザイナーへの交渉のため、雛には初対面での橋渡しとしての役割を担ってもらっただけだ。
――しかし確かに、傍から見れば勘違いされる光景だっただろう。あの一回を見られていたのかと、そんな最悪な偶然に、どう言うべきかと否定を躊躇ってしまった。
「今更変なこと言って繕おうとする宗佑くんがいけないんだよ。最後まで嘘をつきたいのなら、ここで種明かしなんてするべきじゃなかったのに」
「……嘘じゃない」
「私は本当はズバッと物を言うし、気も強いし、マイペースなの。控えめで大人しくて清楚なあの子とは正反対で、宗佑くんの好みじゃない。……そもそも、結婚を決めた相手が居るのにその場しのぎに私に好きって言うのは不誠実だと思う」
「その場しのぎなんかじゃないよ、俺は本当に桐子さんが、」
「可愛いって言った」
どこか強い声だった。
どう伝えるべきなのかなんて考えさせる隙もなく、追いつけない俺を置いてけぼりにして突き放すように。
順を追って話したい。そんな風に思っているのに、ポンポンと投げられる言葉一つ一つが予想外過ぎて、頭の中が追いつかない。
いったい何から言えばいいのか。いったい、どう言えば伝わるのか。ぐるぐると考えながらも桐子さんを改めて見れば、その表情が苦しそうに歪んでいるのが分かった。
悲しそうではない。苦しそうなのだ。
「私があの子に近づくたびに、宗佑くんは可愛いってたくさん言った。それまではそんなこと言われたことなかったのに」
違う。違う違う。ただ俺が歪んでいただけだ。
桐子さんが雛に気付いているかもしれない。その上で雛に近付こうとしている桐子さんを見て、俺を責めるでもなく健気に雛になろうとしている桐子さんを見て、それだけ俺のことを好きでいてくれているのだと、最低にも喜んでいた。
だから、可愛いと思った。
桐子さんが雛と同じ眼鏡をしているのは偶然かもしれないだろ、なんて吾妻には強気に言っておいて、都合の良いところだけは気付いていると思い込む。
雛になりきってまで俺に好かれたいんだなと。そうやって汚く、桐子さんの気持ちなんか考えずに、俺はずっと浸っていただけだった。
「……それを望んだのは私なんだから、今更気を遣わないで。……あの子も宗佑くんの事が好きだって気づいてもいたの。だからいつかは本物のところに行くんだろうなってちゃんと分かってたから」
分かっていた、なんてきっと強がりだ。だって、苦しい顔をしているじゃないか。
「ごめん」
「いいよ。擬似的にでも愛してもらえて嬉しかった。……あーあ、こんな風に、暗い感じに終わるつもりなかったのになぁ……」
泣いているのだと思った。いや、泣いてほしかったのかもしれない。
だけど桐子さんは泣いていなくて、諦めたような笑顔を浮かべているだけだった。
「俺の身勝手な都合で、桐子さんを傷つけてごめんね」
雛の代わりにしたことも。弁明もせず、桐子さんからの好意に浸っていたことも。
全部全部、俺の「身勝手」だった。
(……そうだ)
俺は傷つけたのだ。自分のことばかりを考えて、桐子さんの気持ちを顧みなかった。自分が嫌われる未来を恐れて、自分が傷つきたくないからと、桐子さんにその役割を押し付けた。
桐子さんがきょとんと不思議そうな顔をする。そうしてゆっくりと視線が落ち、俺の胸元で止まったところで涙が一筋流れ落ちた。
音もなく、憎むような言葉も吐かず、ただ静かに涙を流す。
どうやったら声を掛けられただろう。
どうしたら、白々しくも慰めることができただろう。
ずっと泣かなかった桐子さんが泣いている。
どれほどの絶望からその涙が流れているのか。どれほどの我慢の末に、その気持ちが爆発したのか。
少し考えれば分かることだ。俺がそうさせた。俺の行動が、関係を歪めてしまった。
分かっている。全部、わかっているのに。
――俺のことで涙を流してくれる桐子さんが、そのくらい俺を想ってくれる桐子さんが可愛くて、喜んでしまっている。
(……最低だ)
桐子さんは俺を責めなかった。知っていたからいいよ、気負わないでとそう言って、一言も俺を罵らない。
それを、喜ぶなんて。
「あ……はは、分かってたのにね……変なの……泣いてる」
ぎゅうと表情が変わった。すると途端に涙の量が増えて、ぼろぼろとさらに溢れ出す。
桐子さんだと思った。
これが何にも隠されていない、ありのままのこの人の姿だと。ようやく会えたとそんなふうに思って、一歩、距離を詰める。
「ごめんね。嬉しい。……今まで雲を掴むようだった桐子さんの感情が、今は全部手に取るように分かる。俺を好きだって言ってる。ごめん。桐子さんが今泣いていることが、傷ついていることが、嬉しいんだ」
傷つけてごめん。
思いながら、桐子さんに手を伸ばした。拒絶されるかと不安だったそれは避けられることはなく、無事桐子さんの肩に触れる。
もう逃げないでいよう。
もう、真正面からぶつかろう。
絶対に、何があっても、もう傷つけないようにしよう。
そんな決意をして、恐る恐る抱きしめる。情けないことに手が震えて力を込めることも出来なかったけれど、桐子さんからは拒絶をされなかったから今はそれだけで充分だった。
その日は、桐子さんを抱きしめて眠った。
もう見慣れた光景だというのになんだか新鮮で、これが夢にならないようにと、目が覚めた時にも隣に居るようにと願っていた。