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身代わり成就  作者: 長野智
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第四話

 




 

 週末はあっという間だった。

 斉賀さんに「三か月弱はいただきたいので、まずはプロポーズリングをご用意しましょう」と進められて、ばたばたとした数日を過ごしていれば当然なのかもしれない。逆に、気がつけば当日になっていたというのは俺にとっては好都合ともいえるだろう。

 おかげで余計なことを考えずに過ごしていられた。これからしっかりと向き合うのだと、強い気持ちを持ち続けていられた。

 たとえそれが受け入れられなかったとしても、俺はもう逃げないと決めたのだ。



「お待たせ」

 いつも通り、約束の時間の数分前。早すぎず遅すぎない時間に桐子さんの家に迎えに来ると、桐子さんは「ちょうど準備終わったところだった」と顔を出した。


 違和感はすぐに覚えた。

 服装が今までとはまるで違う。これまでは雛のような……いや、雛に寄せていたのだろう、パステルカラーの落ち着いた服装を選んでいたはずだった。だけど今日はまったく違う、カジュアルでクールな、付き合いたての頃の桐子さんの服装だった。

(…………いや、きっとたまたまだ)

 話がある、と言った日に変化があるとつい不安になってしまうけれど、きっと桐子さんには変化なんかなくて、たまたま偶然そうなっているだけで、俺はこのままこれまでの事を打ち明けてもいいはずだ。そうして罵られても謝罪して、どうにかやり直せないかと言い募って、縋ってでも気持ちを伝えて……。


 固めたはずの決心は、なんとも情けない事に服装一つの変化で簡単に揺れる。

 それでも悟られないように、いつものように格好つけて桐子さんを車に案内した。

 何度も何度も、どうしてとこぼれそうになるのを堪えながら。映画館に着いてからもずっと、頭の中はそればかりだった。



「今日は何観ようか」

 桐子さんは何気なく、館内の上映中の案内を見て呟いた。

 その視線を辿ってみると、上から流し見ていた目は最近話題のハーレクインの映画のところで一瞬だけ止まって、しかし何事も無かったかのようにするすると流れていく。

 こういう時、営業職をしていて良かったと思える。相手の考えを察する事や気遣いを行うために、仕草や視線を見て気を配るのが癖になっているからだ。

「桐子さんこういうの好きだよね?」

 これにしよう、ではない。あえて「好きだよね」と言ってみれば、桐子さんは驚いたように俺を見上げた。

 話題のハーレクイン。桐子さんは意外と、こういうのが好きらしい。

(……本当に、正反対だな)

 それでも、そんな些細な情報が嬉しく思える。もっともっと知りたいと思った。今更だけれど、それでもこれからもっとたくさんの桐子さんを知っていけたら幸せだ。

「決まりね」

「えっ……何で?」

「何でって、桐子さんが観たい映画だから」

 さりげなく手を握ってじっと表情を観察してみたけれど、桐子さんには悪感情は浮かんでいない。むしろ戸惑っているようで、訝し気に俺を見るだけだった。

 そんな表情に、胸がツキリと痛くなる。

 そうさせたのは俺だ。だからこれも、仕方がない。


 

 映画は何一つ頭に入ってこなかった。

 隣に座る桐子さんの横顔を見ては、画面に照らされて陰影の生まれた真剣な表情に見惚れて、そしてこれからの事を思って目を逸らすという事の繰り返し。

 ただ、このままで居られたらいいのにと、そればかりを思っていた。

 こうして隣に座って、同じところをまっすぐに見つめて、桐子さんらしい格好をした桐子さんと長く一緒に居られたら、なんて。

 そんな、都合の良い未来ばかりを願っていた。



 

 買い物を終えて桐子さんの家に着いた頃、斉賀さんからメッセージが届いていた。

 どちらが良いかと、大人っぽい桐子さんに似合うような指輪のデザインがされた画像が添付されていた。

 直観的に一つを選んで返事を返す。それだけで、桐子さんとの未来が近づいた気がした。





「今日はさ、俺が食事を作るよ」

 そもそもそのつもりで、食材も俺がリードして選んでいた。今日は俺が桐子さんに尽くしたいと思ったのだ。しかし桐子さんはやっぱり意外だったのか、映画の時と同じ、驚いた後に訝しげに俺を見るだけだった。

 もしかしたら、俺の声が震えたからかもしれない。今日は俺が、なんて、そんな事にも勇気が必要だった。

「桐子さん、座ってて」

「……でも、」

「いいから」

 頑として引かない態度を見せると、戸惑っていた桐子さんも渋々ながらにソファへと向かう。

 いつもは二人で座っていたそこに、桐子さんだけがいる。まるで未来予想図のようなそんな光景にも胸が痛むのだけど、そんな事ではこれからが思いやられるようだった。


 俺はもう、隠し事はやめると決めた。嫌われるかもしれない雛との事も全て、嘘偽り無く伝えるのだ。最低な気持ちも、今の気持ちも全部ひっくるめて、これからに繋げるために。

(嫌われるかもしれなくても……)

 いや、その可能性の方が大きいのは分かっている。こんな俺となんて将来は考えられないだろう。最低、正直幻滅したと、ひどい嫌悪感を俺にぶつけるかもしれない。

 だけど、もしかしたらとも思うのだ。

 もしかしたら、雛になりきろうとまでしてくれたのであろう桐子さんなら、たくさん罵って怒った最後には、俺を受け入れてくれるかもしれない。もういいよと、許してくれるかもしれない。

(……都合が良いけど……)

 そんな微かな希望にでも縋らなければ、これからの事を迎えられる気がしなかった。

 だって、俺が桐子さんを捕まえておきたいから勝手に結婚を考えているだけで、桐子さんは結局、俺の事なんていつだって投げ出せる。突然くるりと振り返り「やっぱり帰ってほしい」なんて言われる未来さえ容易に浮かんでしまえば、ほんの少しの希望でもなければ気が滅入ってしまいそうだった。

 だけど分かっているのだ。今回のことで俺が怖がるのはお門違いだということくらい。


 ――セックスをする時には後ろからがほとんどだった。口だって押さえていた。好みの服装もそれとなく伝えて、そちらを選ぶようにと誘導していた。映画もそうだ。雛が好むであろうものを選んでは、桐子さんに確認もとらず勝手にそれに決めていた。雛ではない事を認識するもの全てを俺が身勝手に抑え込んでおいて、今になって桐子さん自身が欲しいなんて都合が良すぎる。


 分かっている。全部、なにもかも。

 たとえば桐子さんが眼鏡を掛け始めた時に、桐子さんの視力が悪い事を知らなかった事に不機嫌になるのではなくて、コンタクトにしなよ、と言えていたら何かが変わったのだろうか。

 たとえば、休日には会えないと言われた時に、情熱的に「好きだから会いたい」とはっきりと伝えられていたら、違った未来があったのだろうか。

 きっと何も変わらなかった。

 嫌われる未来が早くなるか遅くなるか、ただそれだけの違いだ。

 それでも。


「実は、桐子さんに紹介したい人が居るんだけど」


 やっぱり、逃げる選択しか出来なかった。

 ――だって真実を話すなら、雛が誰かというのは桐子さんも知っておいた方がいいだろうし。むしろその方が、ほら幼馴染のあいついただろ、実はあいつのこと好きだったんだよねと、そうやって笑い話にもできるかもしれない。

 なんて、そんな言い訳がましいことばかりを思い浮かべては、俺だけに都合が良いように、俺はまた、必ずやってくるであろう最悪の未来を先延ばしにしている。

(最悪だ……)

 こんな自分が、心底嫌になる。


 出来るだけ明るく言葉にしたけれど、俺の心はあまり晴れなかった。逃げた結果に、心はずしりと重いまま。結局、表情は引きつった気もする。

「俺の幼馴染で、もうほんと、小さな頃から一緒にいる子でさ、女の子なんだけど」

 口が勝手に走り出す。言わなくても良いことばかりを吐き出して、言うべきことを一切吐こうとしない、どこまでも最低な口だ。

 上滑りした言葉に、桐子さんの表情が変わった。何を考えているのかは分からない。だけどそれが俺にとって良いことでないのは確かだから、だんだんと自信がなくなって、続く言葉は尻すぼみになってしまった。

「…………だからさ、今度、時間もらえる?」

 どうか、ダメだと言ってほしい。そうすれば、俺たちはきっとまだ一緒に居られる。だけど桐子さんはやっぱり俺をじっと見て、探る目をしたままでほんの少しだけ微笑む。

「いいよ、暇だったらね」

「暇じゃなかったら時間くれないの?」

「……私はもう、私が一番最優先だからね」


 私はもう――本当にさりげない言葉だ。

 しかしきっと意味は重たい。「もう」という事は、これまでは俺を優先させてくれていたけれど、これからは違うという意味である。

 これまでとこれから。それがどうして違うのか。

 それはきっと、桐子さんの服装がもう雛を真似ていないことに繋がっているのだろう。

 心がいっそう沈んでいく。いやだけどもしかしたらと、希望に縋りたがる否定をかき消すように、奥深くまで濁っていく。


 そうして、たった今素通りした思考を思ってふと気がついた。

 俺自身が、今日一番に不思議に思った事だ。


 これまでは雛に似せていた服装が、まるで付き合いたてに戻ったみたいだと。


 その違和感の結末は、ここにあったのだ。

 桐子さんはもう俺を見切っていた。俺に愛想を尽かしている。とっくの昔に別れを選んで「自分」に戻ろうとしていた。

 苦しいはずなのに嬉しいと思ってしまうのはやっぱり、桐子さんのことが好きだからなのか。

 物言いも服装も飾らずに、我慢をしていない状態で居てくれる事が嬉しいと思えた。その桐子さんに、ずっと会いたいと思っていた。


(でも……)

 桐子さんがもう別れを選んでいるのなら、先延ばしにも出来ないのだろう。

 嬉しいのか悲しいのか。自分でも分からない、複雑な感情がごちゃごちゃに混じり合う。


「俺さ、すっごい聞きたい事あるんだ。桐子さんにね、教えてほしいこと」


 どうしてか、突然怯えが薄らいだ。本来の桐子さんを見たから勇気が出たのかもしれない。今ならこの不思議な心地のままで踏み出せる気がしたのだ。


 桐子さんが振り返ったのが分かった。それでもそちらを見る勇気が無くて、俺の視線はただ手元に置いておく。

「だけどそれを聞くには、まず俺から話さないといけなくて。……聞いてくれるかな」

 雛の事を知っているのか。それを聞くには、まず俺から話さなければならない。

 桐子さんは、ただ俺をじっと見ていた。

「うん。なに?」

 心を乱さないように。ただただ視線を手元に落として、平静を装う。桐子さんも声音は普通だ。俺が取り乱すわけにはいかないだろう。

 ――ここで言うしかない。なに、と聞かれたのだから、今言わなければ。


「……実は……俺にはずっと、好きだった子がいて……さっき言った幼馴染なんだけどさ……何ヶ月か前に、そいつに彼氏が出来たんだ」


 目は合わせられなかった。軽蔑が浮かぶ桐子さんを見たくなかったのだ。

 今の俺が不自然な自信はある。挙動不審で、そわそわして落ち着きも無いだろう。


「正直ショックだった。あいつも俺の事を好きなんだと、勝手に思い込んでたんだ。そんな時に偶然、桐子さんを会社で見かけた」


 どんな顔をしているのだろうか。悲しそうな顔か。泣き出しそうな顔か。軽蔑の眼差しの次には、何があるのだろうか。


「ごめん。最低な話なんだ。桐子さんはその幼馴染に似てた。だからつい、声を掛けてしまった」


 一度言い切って、間を置いた。罵倒を挟むならここだと思った。

 やっぱり桐子さんの方は見れなかったけれど、蔑む言葉は甘んじて受けなければならない。そう思っていたのだけど、桐子さんはその間をいったいどう感じたのか。

 キッチンに居た俺の元に静かにやって来た。

 さすがに驚いて大げさに肩を跳ねてしまい、自然と桐子さんと視線がぶつかる。


 不思議だった。

 だって桐子さんはいつも通りだったのだ。


「あ、回鍋肉だったんだ。すごいね、(もと)使わなかったよね?」

「……え?」

「美味しそうな匂いだなって思って。宗佑くん、料理上手なんだね」

「いや、えっと……」

「聞いてたよ、ちゃんと。……だけど、知ってたから別に気にしてない。気負わなくていいよ」

 あんまりにも、あっけなく。桐子さんは「知っていた」なんてことをさらりと言ってのけた。

 知っていたならどうしてと思う裏側で、やっぱりそうだったのかと納得もある。だからだろう。驚きも無く、ただ桐子さんの言葉を冷静に呑み込めた。

「吾妻から聞いてはいたんだ。確証はないけど、桐子さんはもしかしたら知ってるかもしれないって。桐子さんが眼鏡を掛け始めたあの日に、少し怒られた」

「そうなんだ。私は別に良かったよ。だって眼鏡を掛けてれば、宗佑くんは私をもっと好きになってくれたから」

 ああ、やっぱり。桐子さんは、雛になりきろうとしていた。

 その事実を改めて突きつけられてしまえば桐子さんを直視することも出来なくて、逃げるように手元に視線を落とす。

 ごめんと。心の中で小さく呟いた。

「……服装も変わってたね」

「そう、勉強したの」

「ふとした表情も、ちょっとした仕草も?」

「そうだよ。全部あの子のコピー。……よく見たら顔は似てないからね、そういうところで補わないとって思って……似てたでしょ?」

 そんなに大きな声でもないのに、やけに言葉が心に残る。

 なんてことないように聞こえた。桐子さんもきっと、深い意味なんて含めていない。だけどどうしてか、それをスルーして安堵してはいけないと分かる。

 なんてことない声で言わせてしまうほどには歪めてしまったと、きっとそういう事なのだ。


 ぐつぐつと鍋が煮える。それを聞きながら、それでも手元を見つめるしか出来なかった。

「宗佑くん、弱めたら?」

「あ、うん」

 どうして冷静でいられるのだろうか。どうして桐子さんは、俺を責めないのだろうか。

 泣いて罵るべきだ。そうしてくれたなら、俺の気も晴れたかもしれない。

「……どうしてそこまでしたの。俺の事、怒ったりせずに」

「宗佑くんの事が好きだからだよ。……怒ったり、泣いたり、叫んだり、そんな事したら、別れるとか言い出すでしょ? そんなの嫌だから、それなら私は受け入れて、宗佑くんも私もハッピーになれる未来にしたかった」

 どうして。

 どうして俺の事をそこまで想っていられた。

 俺はその気持ちに何も報いず、ただ雛を追いかけていたのに。

「幸せ。……幸せ、だったよ。うん。確かに、シアワセだった」

 桐子さんと付き合って、まるで雛と付き合っている感覚に浸れた。ほんの短い間だったけど、夢を見ていられた。

 すぐに桐子さんを好きになってしまったから、その幸福は歪に変わってしまったけれど……それでも桐子さんの隣に居られたのは、間違いなくシアワセだったのだと思う。

 鍋の火を止めた。これはきっと放置しても出来上がるだろう。それなら、目の前の会話に集中したかった。


「…………今、眼鏡を掛けてないのはなんで? 服装が、雰囲気が、仕草が……全部桐子さんなのは、なんで?」


 俺のために、俺を好きだから、俺に好かれたくて雛になろうとした桐子さんは、確かに雛に近づいていた。最初はまったく似ていないと思っていた桐子さんを思い出すのに、雛を見て似ているなと思うほどになったのだ。


 それなら。

 今、桐子さんが全部全部、元に戻した理由は、

「全部俺が好きだからしてくれてた。俺に愛されたくてしてくれてたんなら、それを全部やめた意味は……?」

 桐子さんの表情は変わらない。ただただ俺をまっすぐに、じっと見つめているだけだ。

 何を思っているんだろう。この状況で、俺の言葉に対して、桐子さんの心の内はいったいどんな風に動いているのだろうか。

「なあ、都合がいいって笑ってほしいんだ。調子が良すぎるって罵って、俺を思い切りぶん殴ってほしい」

 泣いているかのような声が出た。だけど実際は声が震えているだけで、か細く消えただけだった。

(……ああ、本当に都合がいい)

 自嘲の笑みが漏れる。この歪んだ表情が、桐子さんの心に残らないように。

 どうか。

 優しい桐子さんの重荷にならないように。


「好きだ。好きに、なった。俺は、あいつに似ているからじゃなくて、桐子さん自身を好きになった」


 そう願うのならば、言うべきではない言葉だったのに。

 それでも伝えたのは俺の醜さだ。このまま別れる事が桐子さんにとってはきっと最善で、それを選べていれば何の重荷も背負わせる事なく、桐子さんも気兼ねなく幸せになれただろう。

 今好きだなんて伝えれば、それこそ混乱させて尾を引いてしまう。

 分かっているのに、俺は俺のことだけを考えて、桐子さんに気持ちをぶつけた。

(どう思われるだろう)

 俺の事が好きで、雛になろうとした桐子さんはいったい、俺の告白に何を思っているのか。

 表情は変わらなかった。ただじっと俺を見たままで、焦りも見せずに口を開く。


「勘違いだよ」


 なんてことないように、桐子さんが言った。

 そんな一言が心に刺さることなんて、きっと桐子さんは知らないのだ。

 

 

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