第三話
意気込んだ時ほど、タイミングとは合わなくなるものである。
どうにか桐子さんと話をと思えば思う程、仕事でのトラブルや残業、外回りに繰り出される。
そのため、久しぶりに昼食を一緒に食べられるという時間が出来たのは、決意した時から少し経った頃だった。
「なんか久しぶりな感じするね」
桐子さんはそう言って、上品に笑う。
今の桐子さんは雛の真似かもしれないと思えばそういうふうにしか見えなくて、逆にどうして今まで気付かなかったのかと自身の鈍感さに呆れる程である。
当初の桐子さんを思い出せば、どう見ても違和感しか覚えない。
すでに思い出せないくらいにはうっすらとした「当初」なのだけど、それでも最初に「正反対だ」と思った事は覚えている。それに則れば、今の桐子さんは「違和感」である。
「桐子さん、日替わりだよね?」
席に座ってメニュー表を開いた頃に、試すようにそう聞いてみた。
日替わりを頼まなくなったのはいつからだったのか。デザート付きの日替わりランチを選んでいた桐子さんは、気が付けばまるで雛のように、この店で言えば「定食メニュー」を頼むようになっていた。
「ううん。今日はさっぱりしたものが食べたいの」
「なんで?」
「なんでって、なんで? 気分だよ」
「いつも日替わりだっただろ」
いつの話で「いつも」なんて言っているのだと、もしかしたら桐子さんは心の中で笑っているかもしれない。それでもどうにも確認をしたくて、カマをかけるような事を言ってしまった。
「最近は違ってたでしょ。……食べ物一つでそんなふうに言うなんて、何かあったの?」
「何かあったのは桐子さんじゃないの」
――俺が責められるような立場ではない。こんなキツイ口調で、低いトーンで言える事でもない。
分かっているのに、胸中が焦るままに言葉を吐き出してしまう。
そんな俺の胸中も知らず、桐子さんは可愛らしくことりと首を傾げる。これまでは見たこともなかった仕草だ。女の子らしくて、庇護欲をそそる。そんな仕草は雛とうり二つで、つい軽くため息をついてしまった。
だけどまだ、もしかしたら俺の思い込みかもしれない。
だから、桐子さんとしっかりと話し合う必要がある。
「……今週の休みは、一緒に居られるよね?」
だって家には帰ってないんだから。――それは言葉には出さなかったけれど、視線は強く桐子さんに向けていた。桐子さんはそれをどう思ったのか、軽い口調でいつものような言葉を返す。
「……そうだね。お母さんに聞いておくよ」
「だめ。俺と過ごして。……実家には帰ってないんだろ、知ってるんだよ。話があるから、俺の家に来て」
これはいつまでも折れないんだろうなと。そう気付いて、とうとう直接的に言ってしまった。
バレてしまったと焦るだろうか。いや、きっとそれがいい。だって焦ってくれたなら、前の桐子さんが垣間見えてまだ希望を持てるというものだ。
ほんの少しで良かった。ほんの少し隙を見せて、桐子さんの一部分を見ることができたなら安心できる。
まだ大丈夫だと。まだ戻れると。きっとそうやって、思えるはずだったのに。
桐子さんは俺の願いを打ち砕くように、ただ淑やかに口角を持ち上げた。
それは雛が、何かを誤魔化すときの笑い方だ。
桐子さんはいったいどうやって雛の事を知ったのか。どうやって雛の仕草や癖を研究したのか。知りたくもないけれど、気付いてしまえばもう雛にしか思えない。
これを求めたのは俺なのに、俺が桐子さんを求めた頃には、桐子さんはすでに遠くに行っていた。
とうとう最後まで桐子さんは微笑みを崩さなかった。
何を思っているのかも、何を考えているのかも分からない。ただただ、桐子さんが遠く感じられただけだった。
『仕事終わった?』
終業間近というオフィスも浮かれる頃合にスマートフォンを耳に押し当てると、前置きもなくただ一方的にそう言われた。
液晶に名前があったから誰かは分かっていたけれど――「もしもし」さえすっ飛ばすとは、幼馴染ながらになかなかせっかちな奴である。
「まだもう少し。……何の用?」
『前に言ってた指輪の話、斉賀さんにお願いしてみたらね、今ちょうど納期の直後で割と余裕あるんだって。だから直接宗佑くんから話聞きたいって言ってるんだけど、』
「え! 行く、いつにする!」
『わー、もう。それを聞きたいの!』
分かりやすいんだから、と言うと、打合せをする日程の調整のために連絡をしたのだと改めて説明をくれた。
もう少しで終わると言ったはいいが、今日はまったく帰れそうにない。早く帰れそうな日を言うと、雛は「その日、ちょうど斉賀さんも都合が良いって言ってた」と嬉しそうな声を出した。
『当日は私も行くから、会社まで行っていい?』
「絶対来るな。……雛、桐子さんに会いたいだけだろ」
『……だって宗佑くん、会うたびに宮岡さんの話するじゃん。そんなの気になっちゃうって』
「……来るなよ。来たら怒るぞ」
少しだけ声を低くすれば、雛も本気だと分かったのか『ごめん』と小さく呟いた。
それでも、今の桐子さんを雛と会わせるわけにはいかない。
もちろんいつかはと思ってはいる。俺のした事を全て話して、改めて雛を紹介して……そうすれば歪んだ事が正される気がしたのだ。
だけど今は違うだろう。不意打ちのように会ってしまっては、桐子さんがどう思うかも分からない。一つでも順番を間違えば二度と失う事になる。分かっているからこそ、慎重に進めなければならないと思っている。
「じゃあその日で頼むよ」
『うん。斉賀さん忙しくてほんと短い時間になると思うから、大まかな注文とかあらかじめ考えておいてくれると助かるかも。それじゃあ、また当日ね』
以前までの名残惜しさを一切感じさせず、あっさりと通話は終わった。
もうすぐで、世界に一つだけの、桐子さんをイメージした指輪が作れる。それも、桐子さんお気に入りのネックレスをデザインした人自らが、その指輪も手掛けてくれるのだ。
(それまでには、桐子さんとしっかり話し合って……)
全部スッキリさせてから、指輪を渡そう。
じわりと、嫌な汗が背中を伝う。想像だけで別れが浮かんで、どうにも目を背けたくなった。
桐子さんの目が軽蔑に変わる瞬間。俺はきっと、それを間近で見る事になる。
それでも。
今のままでは未来なんて見えないから、それも甘んじて受けなければならないのだろう。
近日中に待っているその時が今はまだ怖いと感じてしまって、今からこんなことで果たして大丈夫かとつい苦笑が漏れた。
雛と斉賀さんが待つジュエリーショップへ出向いたのは、それから数日後だった。
週末には桐子さんと会う約束をした。その時に話すつもりでいるから、全ての事を終わらせるには今週中が都合が良いだろうと思っての日程だ。
「こっちこっち」
慣れたように店の奥へと歩いていく雛の後ろを、申し訳ない気持ちでついて歩いていた。雛はもう何度も通って常連なのかもしれないが、俺は違う。店員さんたちが気にしていない様子でにこやかに会釈をしてくれても、こんな高級ジュエリーショップのスタッフルームに向かうなんて緊張しか感じられなかった。
そうして雛は奥の部屋をノックすると、返事を待ってそこを開けた。
「お疲れ様です、斉賀さん。すみません突然で」
「……いいや、大丈夫だよ」
低いような、高いような。ハスキーな声がして、入ってすぐに引っ張られるようにそちらに視線を向けた。
挨拶のために立ち上がった斉賀さんの身長は高く、ひょろりと長いように見えるが、実はしっかりとした体付きのようだ。しかし後ろ髪が少し長めで雰囲気も柔らかだからか、男性なのに女性的にも見える。
一重の目は優しい色をしていた。その目は俺を見つけると、すぐににこりと細くなる。
「初めまして、斉賀です」
「あ。はい、初めまして、佐原です。あの、今回は無理を聞いてもらってすみません」
「いいえ。……僕はデザイナーの片寄さんがお気に入りなんです。そんな彼女に何度も頭を下げられたのでは、受けないわけにもいかないでしょう」
「あ! 斉賀さん!」
「さあ。片寄さんは店長さんが呼んでいましたから、向かったほうが良いですよ。結構重要なお客様からの注文があったそうです」
ニコニコとしている斉賀さんには他意はないようで、さらには物腰柔らかだからか初対面で緊張していた空気を簡単に和らげる。
雛もその空気に言葉を奪われたのか、言われるままに大人しく部屋から出て行った。
「さて。では佐原さん、お話しましょうか」
「はい」
俺が座るのを見てから、斉賀さんは俺の正面に腰かけた。動きさえもまったりと落ち着いているけれど、遅すぎるようには見えないし、急かそうとさえ思わせない。本当に、なんとも不思議な人である。
「……片寄さんからはね、何も聞かなかったんですよ」
「……何も?」
「ええ。……必死に、指輪のデザインを頼みたいと頭を下げられました。私は専属で、個人の依頼は受けていないので最初は断ったんですけどね。それでも食い下がってくるものですから、なんだか深い事情でもあるのかと思って、受けたんです。けれど、事情は聞いていません。あなたから聞こうと思って」
怒ったようでも、責めるようでもない言葉に、肩から力が抜けた。
まっとうな言い分だ。そしてとても誠実な人である。斉賀さんならきっと大丈夫だと、なんとなくそう思ってしまって、雛との事から全てを吐き出した。
まるで懺悔だ。
俺の事も桐子さんの事も知らない第三者に、秘めていた罪悪を吐き出していく。誰にも語れなかった汚くて卑怯な心情もさらけ出せば、少しずつ心が楽になるような気がした。
嫌われたくない。別れたくない。だけど素直に話したくもない。少しも汚いところを見せたくない。もうこの話題に触れたくない。何も考えず、ただ普通の恋人で居たい。
都合のいいそんな思いさえ、斉賀さんは静かに聞いてくれた。
最後の言葉が終わった頃、心がうんと明るく変わった。それまでは陰っていて、週末に桐子さんと会う事を憂鬱だと思っていたのに、今はそれが嘘のように正反対の気持ちである。
好きだと伝えたかった。会って抱きしめてすべてを謝罪して、これまでの時間を取り戻すように楽しい事だけをして、顔が痛いと思うぐらい笑顔にしたいと思った。
「…………分かりました。受けましょう」
話を聞いていた斉賀さんが、静かに呟く。
「あなたのためではなく、あなたの恋人のために。……僕はね、あなたの事は好きになれないけれど、あなたの恋人の事は好ましく思えるみたいです」
そう言って斉賀さんはカバンを引き寄せると、中からスケッチブックを取り出した。
「ただし、条件があります。……約束ですよ。僕の指輪で、あなたは必ず恋人を幸福にしてください」
「……はい。はい、もちろん」
では、どのようにいたしましょうかと。俺を好きになれないと言った斉賀さんは、全てを受け入れて、それでも優しく笑ってくれた。




