第一話
目を開けると、すっかり見慣れた天井が見えた。
白と黒を基調にしたモダンでシンプルな部屋は広く、白の天井はオシャレにも斜めに構えている。その白にポツリとはめ込まれた照明は今は活躍していないけれど、大きな窓から眩しい陽光が差し込んでいるから気にもならない。
ぼんやりとしながら起き上がり、出来るだけ静かにベッドを降りる。少し頭が痛い。変な夢を見たからだろうか。もうどんな夢かは覚えていないけれど、まるで責められているようにも思える夢だった。
「なに。もう帰るの……」
ひそやかに着衣をしていると、ベッドから寝ぼけた声が聞こえた。
いまだ布団に埋もれている彼は、眠たいのか目は閉じたままである。"ベッドが揺れて私の動きが分かったから思わず口に出した"と言わんばかりに、二度寝の姿勢を崩さない。
ここで何も返さなければ彼はふたたび眠るだろう。だからあえて返事はせず、着衣を進めるべくキャミソールを拾い上げた。ジーンズを穿いて、トップスも身に付ける。彼の好みではない服装だ。改めてそれを見下ろすと、これまで浮かれていた自分があまりにも愚かに思えて、口の端から嘲笑が漏れた。
(……あの子とは正反対)
服装も仕草も雰囲気も、何もかもがあの子とは違う。
「……聞いてんの」
しばらく黙り込んでいた彼は、気だるそうに起き上がった。先ほどとは違いしっかりと覚醒したらしく、ベッドに座ってじっとこちらを見ている。なんとなく落ち着かない。すぐに目を逸らし、奪うようにバッグを持つ。
「ごめん、起こしたね」
髪は手櫛で整えた。幸い寝癖はついていない。帰り際に顔だけ洗って出ればいいだろう。あとは帰ってからシャワーでも浴びればいい。時間はたっぷりある。早く帰ろうと踏み出せば、彼が「待ってよ」と声をかけた。
「……今日休みだろ。ゆっくりすれば」
「休みだから帰るんだよ。宗佑くん、予定あるでしょ」
「ない」
「……でもいいや。長居も申し訳ないし」
少し前の私なら、言葉をそのまま受け取って喜んで残っていただろう。彼が私に側に居てほしいと思っている、もっと好きになってくれたのかもしれないなんて、絶対にそんな勘違いをしていたはずだ。
昨夜の激しい情事も、熱を込めた瞳も、愛してるなんて言葉さえも真に受けて、この「恋人同士」という彼との関係にも違和感を覚えることなく、まんまと溺れていたに違いない。
だけど、今の私にはすべてが無駄なことである。私はもう何もかもを知ってしまったのだ。
「じゃあ、また会社で」
一度カバンを開いて忘れ物がないことをしっかりと確認してから、いつもと変わらない笑みを浮かべてみせた。どこか腑に落ちない表情を浮かべている彼は、それにも何も言わずにただ私をじっと見つめるばかりである。
なんとなく居心地は悪くなって、逃げるように部屋から出た。
――私が彼、佐原宗佑くんと付き合い始めたのは、ふた月ほど前からだった。
当時の私は彼と部署が違うということもあり、彼との接点なんか一つもなかった。それでも「彼が誰か」ということを知っていたのは、ただ単に彼が人気のある人だったからである。
私が所属している秘書課でも彼に憧れている女の子は少なくない。営業課との関わりなんて無いはずなのに、秘書課のネットワークを駆使して強引に飲み会を取り付ける程には、周囲は彼に夢中だった。
営業二課の一番手で、出世確実とも噂されているやり手の彼。破竹の勢いで新規開拓を繰り広げて、二十八歳にして主任の地位を手に入れ、すでに課長さえも脅かしている存在である。
当時の私は、同僚たちのように積極的にはなれなかった。いや、テレビの向こうのアイドルを見つめている気持ちでさえ居たのかもしれない。彼の事をただ遠目に「噂通りの人だなあ」と見つめるだけで、話しかけようとか、お近づきになろうとか、そんなことを考えたこともない。恋愛なんて自分には無理だと思っていたし、そもそも彼のような煌びやかな人とは住む世界が違うことも分かっていた。
ただ、あんなにモテる彼が最後には誰を選ぶのか、ミーハーなことにそんなことだけは少し気になっていた。もちろん、彼が最後に選ぶ人になろうなんて少しも思っていなくて、他人事のようにぼんやりと見ていただけである。
――そんな彼と関わりを持つことになったのは、ふた月前のことだった。
突然腕を掴まれて、強制的に噂の渦中に放り込まれたのだ。
「……名前、なんていうの?」
昼休憩でそれまでランチに出ていた私は、一緒に居た経理課の同期と別れて自動販売機で飲み物を買ったところだった。彼は偶然通りがかっただけだったのだろう。通りすがりに腕を掴みました、と言わんばかりに、やや振り返るように私を見下ろしていた。
「……え、と……宮岡です」
「下の名前は?」
「と、桐子ですけど……」
「……宮岡桐子さんね。……何課? 何歳?」
「秘書課、で、今年三十……それがなんですか?」
尻すぼみになってしまったのは、彼が強い力で私の腕を掴み、穴が開く程に私を見つめていたからである。
なにせ彼は、注目されるほどには顔がいい。"精悍な男前"というのが正しいのだろう。そんな整った容姿の強い目力に射抜かれて、肉食獣に見つかった草食動物の気持ちを一気に理解した。気まずいことこの上ない。目を逸らしても落ち着かなかった。
「俺は、営業課の佐原宗佑。良かったら今日ご飯行かない? 桐子さんのこと、もっと知りたい」
突然ご飯に誘われた上に、すでに名前呼びという距離の詰め方。それを不快に思わせない空気感なのは、さすが営業と言うべきか。
「いえ、あの……」
「終わったら秘書課まで迎えに行くから。……だめかな?」
「……だめ、ではないですが……」
「じゃあ決まりで。定時で上がるから、待ってて」
慣れたようなことを言いながら照れくさそうに笑って、彼は爽やかに去って行った。まるで嵐のような出来事だった。何が起きたのかもよく分からなかったけれど、ひとまず注目されている彼にご飯に誘われたということだけは遅れて理解した。
この時に真実を知っていたなら、何か違った未来があったのだろうか。もう何度もそんなことを考えたけれど、そればかりを思うのもなんだか馬鹿馬鹿しくて、いつも自分の浅はかさに笑ってしまう。
「桐子ちゃん、これ食べる?」
もうすっかりお姉さんの顔になっている五歳の麻琴が、私が出したお茶請けのお菓子を得意げにこちらに差し出した。
休日の午後三時、ともなればおやつの時間だ。きっと麻琴はそれを見越してくれたのだろう。
「こーら麻琴、ママと桐子は大事なお話してるんだから、あっちで朋樹見てて」
「やーだー、桐子ちゃんと遊ぶのー!」
「……じゃあパパはママが独り占めしよーっと。いいよね、麻琴は桐子と遊ぶんだもんねー」
「いやー! パパはマコのだもん!」
「パパは朋樹の事をしっかり見れる子が好きなんだよー」
「朋樹と遊ぶ!」
私に抱きついていた麻琴は焦ったように立ち上がると、一人で遊んでいた弟の朋樹のところに一目散に駆け出した。そうしてすぐに、二人の方からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。
経理課の同期である松尾玲香は、すでに結婚もして二児の母だ。
結婚の前――さらに言うなら玲香と旦那さんの出会いからすべてを知っているために、子どもたちの成長には感慨深いものがある。
温かな「家族」という形を目の当たりにしてはたまに虚しくなるけれど、同時に眩しくなることもある。
私もいつかは"幸せな結婚"が出来るのだろうか。
「それで? 噂の佐原さんとは最近どうなの。相変わらずラブラブ?」
「……相変わらず、って……ラブラブに見えてたの?」
「見えるでしょ誰でも! 半同棲だかなんだか知らないけど、会社で関わってるところなんか見ないのに仕事終わりには待ち合わせとかしてさ、連絡もこまめに取り合ってるし、何よりあんたのことを話す時の佐原さんったらもう砂を吐きたくなるほどあまーい顔してるって事務の子から聞いた」
「そっか。……結構好きでいてくれてるんだね、宗佑くん」
「他人事かっ!」
半同棲というのは確かにそうなのかもしれない。
私たちは仕事終わりに待ち合わせをして、だいたいどちらかの家に帰る。一緒にご飯を食べて一緒に後片付けをして、各々お風呂に入ってのんびりと過ごし、共に寝室に向かうのが常だ。休みの日も予定がない限りは一緒に居るし、半同棲と言われても否定のしようもない。
付き合って二ヶ月でそこまでべったりなのは、宗佑くんが私から離れないからというのが第一の理由である。そんなところを見ていたら"ラブラブ"という言葉が出てくるのも仕方がないのだろう。
実は内情はまったく違う。だけどそれは、外野が知らない部分である。
「いいよねー、佐原さんって誠実そうだし。桐子もとうとう結婚かなあ」
「そんなんじゃないよ」
「やけに冷静だよね、桐子……ちょっと前まではすんごい浮かれてなかった?」
「そうだっけ?」
「ただ余裕があるだけ? ……何かがあったとかじゃなく?」
玲香の言葉にどきりとして、気付かれないようにと必死に笑顔で表情を固めた。なんとなく玲香には知られたくなかった。これまで浮かれた姿を見せていたし、プライドもあったのかもしれない。
「何もないよ」
「そうでしたそうでした。ごちそうさまです」
「なにその感じ」
「いや、桐子も佐原さんの事大好きだもんねって思っただけ」
宗佑くんはともかく、私が宗佑くんの事を好き。今更なそれを指摘されて、どういうわけかハッとした。
一目惚れをしたと告白されたあの時にはすでに、私は宗佑くんのことが好きだった。
決定的な何かがあったわけではない。特別な理由があるわけでもない。宗佑くんは年下だというのに紳士的で優しくて大人っぽくて、本当に私のことを大切にしてくれていたから、好きにならないという選択肢がなかっただけである。
久しぶりに恋愛的なことに触れて浮かれていたのもあるのだろう。相手があの宗佑くんということもあり、私は玲香が呆れるほどにはこの関係を喜んでいた。
だからこそ衝撃が大きかった。
ある休日の午後、ふらりと立ち寄った本屋で宗佑くんを見かけた時のことである。
予定があると聞いていたから一緒には居なかったその日、本屋に用事なら一緒に来ても良かったのに、なんて近寄りかけて、女の子が側に居ることに気がついた。楽しそうな雰囲気の中、宗佑くんの柔らかな笑顔が見えては足も自然と止まる。
声をかけられる空気でもなかった。入り込めないものがあった。宗佑くんの顔が信じられない程に甘やかに崩れているのを見て、言葉にもされていないというのに、彼の本心を知ってしまった。立ち去ることも出来ないまま、それでも相手は誰かと思ったのがいけなかったのだろう。
浮気なのかがどうしても気になった。それも仕方がない。宗佑くんは本当に私のことが好きだと全身で伝えてくれていたから、いったい誰にそんな顔を見せているのかと、一度そう思ってしまったらもう止められなかった。
ひっそりと後をつけた。宗佑くんに見つからないようにと死角に入り、一緒にいる女の子をこっそりと確認する。
その瞬間、無意識に潜めていた何かが、すべて繋がった気がした。
相手の子は、自分でも驚く程に私とそっくりな顔をしていたのだ。
後ろ姿なんてまったく一緒である。正面から見ても、細やかに見れば違うけれど、ぱっと見はよく似ている。違いなんて眼鏡があるかないかくらいなものだった。
彼は私のことが好きなわけではなかった。一目惚れなんて本当は嘘で、あの子で叶わなかった恋を私で妥協して成し遂げただけだった。
突然すべてが腑に落ちて、気持ちだけが置き去りになった。
本当はずっとおかしいと思っていた。彼と特に関わりもなかったはずの私が、どうして突然愛されることになったのか。
その答えに気づいてしまえば、彼との接し方さえも分からなくなる。
どういう顔をするべきなのか。どういう態度をとるのが正しいのか。どういう言葉をかけるべきなのか。あの子が正解というのなら、あの子を知らない私には何もかも分からない。
それでもうだうだと考えてしまうのは、彼にとっての「正解」でなければすぐにでも別れを告げられると、なぜかそんなことだけははっきりと理解できていたからである。
彼のことが好きだから別れたくなかった。だから私は彼に「あの子のことが好きなんでしょ」と詰め寄ることができなかった。
(……そっか。私は宗佑くんが好きなんだから、今の状況はラッキーになるのかな。だって、あの子のことが大好きって気持ちを、宗佑くんは私にぶつけてくれてる)
形だけを見れば両想いに変わりはない。
悲観的になって「本気にさせたのにどうしてこんな酷いことするの」なんて思っていたけれど、私がそれに気付かないフリを続けていれば、私にとっても彼にとってもずっと幸せな構図のままで居られるはずである。
――いっそあの子になりきった方が彼も喜び、私も今より愛されて、双方幸せに過ごせるのではないだろうか。
気付いてしまえば、それが最善であるように思えて仕方がない。
「……ちょっと桐子? どしたの?」
突然動きを止めた私を、玲香が訝しげな目で見ていた。同期としてもう長く仲良くしているけれど、なかなか見ない顔である。
だけど今はそれに気を遣っている場合ではない。今までまったく見えなかった暗い未来が、途端に明るく照らされたような感覚だった。彼への接し方も今後のことも、ようやく道筋が見えたのだ。
「ありがとう玲香」
「え、何が?」
「玲香の言う通りね、私は宗佑くんのことが好きなの。そうだよね、それだけでいいんだよね」
「そんなこと知ってるけど……なに? いきなり」
「ううん。いいの聞き流して」
うんざりしたような玲香に、それでも私は笑顔を向けた。
――この後、すぐにでも眼鏡を買いに行こう。そんなことを考えながら、あの子の眼鏡のフレームを必死に思い出していた。