第214.5話 若さ
6月20日の正午、秀則による海軍士官に向けた演説が行われた。短い内容だったが、大半の士官はどんなことがあっても生き残れという命令だったと認識し、船に乗り込む準備を行う。そして第一駆逐隊の旗艦である初風に艦長として乗り込むこととなった豊森 保孝に、同じく第一駆逐隊に所属する潮風の艦長となった北目 良助が話しかける。
「……先程の演説の内容は、これから大戦争を起こそうという人の言う内容では無かったな」
「そうか?まあ、人じゃあ無いしな。長々と意気込みを語られるよりも、短くて簡潔だったのは良かったと思うぞ。ああ、そうだ。北目はこれを読んだか?」
「それは、秀則様の伝記か。秀則様が戦国の世に降り立ってからの数年間の部分が大幅に加筆されたとは聞いたが、まだ読んでないな」
「違う。加筆されたのは、戦国の世に行く前の部分もだ。改変前の日本で、どのような教育を受け、どういう生活を送っていたかも書き加えられている」
士官学校時代からの付き合いである2人は、歩きながら会話を続ける。途中、保孝は鞄から比較的新しい本を取り出して北目に差し出した。表題には「豊森秀則の伝記(上)」と書かれている。今年の1月に上下巻セットで出版された、秀則の今までの人生が詳細に書かれた伝記だ。
「北目が言っていたことじゃないか。秀則様は悪意に振り回されることはあっても、悪意自体を憎んではいないように感じると。伝記読んで、その原因が分かった気がした」
「ほお?」
「……まあ、根拠は無いから口には出せないが。北目も読んでおくと良い。中々に、面白い世界のことが描かれていた」
保孝が面白い世界と言ったのは、改変前の日本についてだ。秀則から著者へ直接語られた改変前の日本の生活は、この世界の人にとって数世代は先の、遠い未来の話のはずだった。良い点だけを見れば、間違いなくこの世界の誰もが羨む生活を送っていた。
しかし同時に悪い点も、秀則の伝記には事細かに書かれていた。先進的な技術レベルや高い生活水準が、ちっぽけに思えるほどの社会問題の多さ。それに加えて、古い体制を変えられない日本人の性質についても言及していると保孝は読み取っていた。
「日本が勢いを失ったのは、改変前の世界でも改変後の世界でも国の『老い』が原因らしい。あくまで秀則様個人の考えではあるが、的を射ている。この点については否定しうる要素が無かった。後は、老いが多くの問題を生み出しているとも読み取れたな」
「老いか。確かに、海軍も先の海戦が無ければまだ古臭い習慣が残っていたかもしれない。私は伝統そのものが、悪いことだとは思わないが」
「そうだな。歳を重ねるにつれて、伝統は悪くないように思えて来る。保守的な思考が、多くなる。しかし秀則様は老いない。その点だけでも、日本を引っ張っていくに相応しい人物であると私は思った」
歳を重ねるにつれて保守的な思考が多くなることは、改変後の日本でも研究結果として提示されており、その対策として早い世代交代を行っている。50代や60代の軍人が少ないのは、能力による階級の降格が起こり、意図的に現場から遠のけられるからだ。戦争において保守的な思考は、良くないことだと結論付けられているからである。
若い世代を積極的に昇進させていたからこそ、軍でも腐敗は起き辛かった。成長が止まっても、衰退することは無かった。結果的にはそのアンバランスさが停滞を招き、相対的に日本の国力は低下していた。成長が望めなかったからこそ、豊森家内には焦りも生じていた。
しかし秀則が研究開発を推進したことによって再び成長を始めた日本は、秀則が思っている以上の変革をもたらしている。新技術にこだわるようになり、管理社会が招きやすい停滞を起き辛くする社会システムの構築も始まっている。新技術の開発が滞っていたにも関わらず、研究をする力自体も停滞、維持されていたからこその成長だ。
「初風も潮風も、良い船だ。乗組員は急造とはいえ、移動中にも訓練は出来る。この2隻だけは、絶対に沈めるわけにはいかないな」
「沈めた場合は、秀則様に土下座するまで生きないといけないか。秀則様が直々に関わっていたし、死んで詫びるのも禁じられた今じゃ、目の前で土下座するしかない」
「はは、元から死んで詫びるつもりなんて無い癖に良く言うなぁ。……まあ、私の乗る初風だけは沈まんよ。秀則様が命名した場合、長寿なことが多いからな。船でもきっと、その法則性は通じるはずだ」
保孝は初風に乗り、北目に別れを告げる。この後で2人が直接再開する機会は、ハワイ到着まで無い。ハワイまでの航海自体も絶対に安全というわけでは無いため、常に不安は付き纏う。しかし保孝は秀則の命名した初風だけは沈まないだろうと、どこか楽観的だった。
実際、秀則が名前を付けた物は長持ちする。秀則が命名した人間と、そうではない人間の寿命の長さは法則性が見出されるほどに差があった。初風は、秀則が名前を付けた艦艇として既に有名になっている。保孝も、当然そのことは知っていた。
湾口からは順次、艦隊が出港する。1日で全ての船が港から出るわけでは無いが、第一、第二、第三駆逐隊は今日の夜までに出港する。駆逐艦と供に出港を始めた輸送船には多くの人間や物資が乗せられており、集結点であるハワイに到着するまでの間、陸軍も海軍も関係無く軍人達は長い船内生活を強いられる。
船の中に本を持ち込むのは、海軍所属の船乗りにとっては当たり前の習慣というより、常識であった。娯楽が少ないために、休憩時間を有意義に過ごせる本は、周囲の人間と貸し借りが出来ることもあり、必需品と言えた。
海兵は皆、船酔いにも強い。太平洋の荒波に揉まれて何度も駆逐艦の潮風が傾く中で、北目は保孝から借りた秀則の伝記を読んでいく。まだ駆逐艦の内部構造を把握していない者達は徹底的に船内の地図を把握させられ、あらゆる物の配置を頭に詰め込んでいる最中だ。周囲が騒がしい中、艦長室だけは静かな時間が流れていた。




