第148話 培養液
1月5日の朝。ここ数日、雪が降り積もったせいで歩き辛いが、研究所の方へ向かうために移動を開始する。目標は年末の報告書で、成果が全く無かった研究分野の研究所だ。
具体的に何の研究をしているかと言うと、生物の分野の研究で、ネズミの受精卵を体外で培養する方法を研究している。……将来的には人間の子供を受精から出産まで、体外で行うという仕組みを作りたいそうだけど、前段階としてネズミで実験を続けているらしい。ネズミで成功しなかったら、人間で成功するわけが無いからな。
そのネズミの受精卵の培養は、1987年に10日目の壁を突破して以来進展が無い。ハツカネズミは、妊娠期間が20日前後だからハツカネズミという名前のはずだ。もしも取り扱っているのがハツカネズミの受精卵なら、半分ぐらいしかクリアしていないことになる。33年間、失敗続きなのによく研究し続けられるな。
まあ、体外で培養液に入れておくだけで出産することが出来るようになれば、少なくとも母体の死からは逃れられる。人類が出産時の死を完全に克服することができるのであれば、研究価値が無いとは言い切れない。設備が貧弱過ぎるのに、予算があまり出ていないのに、本当によく研究を続けられるなという感じしかしないけど。
研究所に着くと、お爺さんが出迎えてくれた。この人がいわゆる10日目の壁を克服した生物学の博士らしい。しかし現在、12日目の壁で大きく躓いており、過去ほどの期待はもうされていない。
「要するに、12日目までは生きてるの?」
「それは確認出来ています。しかし12日目以降、分化が進んだ受精卵は存在しません」
「……体外培養って、改変前だとどうだったかな?ネズミぐらいは成功してるのかな?」
受精卵は細胞が2分割、4分割、8分割と分裂していくことぐらいは分かるが、流石に臓器が出来る過程について詳しく覚えてない。というか、授業でも取り扱って無いだろう。この研究室では総力を挙げて12日目の壁を突破しようとしているそうだけど、やっていることが難し過ぎてついていけない。
「……彩花さん、何かアイデアとか無い?」
「ええっ、流石に専門外ですので良い考えは持ち合わせていませんし、私が今思いつくようなことは既に試されていると思いますよ?」
現在使用している培養液を紹介して貰ったけど、JAYR108培養液って何だよ。成分表を見せて貰ったらその中にもYQTT30とかRTHU54とかわけのわからない液体?が入っていたし。更に細かく見て行くと塩とか牛乳とか脳汁とか書いてあったし。
「……脳汁って何?存在するの?」
「脳汁は、脳を磨り潰して専用の液に溶かした液体のことですよ。鼠の脳なので安心して下さい」
「ネズミ以外の脳だったら怖いわ」
ネズミの脳を培養液に使うという発想が、かなり怖い。というか、このまま研究が進めば人間の場合でも脳が培養液に必要となる可能性が高いな。死者の脳を使えば何とかなるのかもしれないけど、少し寒気がした。成分を調べて、代替品とかを使えないのか?
この研究所は去年まで、予算がギリギリだったようで培養液や実験器具が思うように購入できなかったらしい。人件費は削られていないが、それでも研究者としてはかなりの安月給だ。しかし俺が予算会議に関わって研究費が増大した2020年の4月以降、この研究所にも一定の額のお金が渡されて、まともな実験の再開が出来るようになったと喜んでいた。
成果は出ていないけど、そもそも1年や2年の期間では実験回数もそんなに確保出来ないようだ。ネズミを育てることから始めないといけないようだし、卵子や精子を回収するためにネズミを殺さないといけないようだし。
……ここの研究所ではネズミを育てているそうなので、ネズミの飼育部屋にも行ってみる。
「キューキュー」
「キッ…キッ…」
「キュッキュッ!」
ドアを開くとまず目に入ったのは、ネズミがひしめき合っている、可愛いけどあまり直視したくはない光景だった。ネズミの鳴き声が至る所から聞こえており、ゲージの中には押し潰されそうにもなっているネズミを確認出来るし、共食いも確認出来る。……食べられているのは、赤ちゃんネズミだな。流石に共食いしている光景をずっと直視はしたく無いので、すぐに視線を逸らしたが。
「結構うるさいな」
「秀則様、そこに鼠返しが置いてあるので気を付けて下さい」
「お、本当だ。ドアの周囲に壁を作っているのか」
中に入ろうとしたら、研究員からねずみ返しがあるから気を付けろと注意を受ける。下を見ると、高さ30センチぐらいの木の枠がドアを囲むように設置されていた。しっかりと固定されており、気付かなかったら無様にこけていただろう。
部屋の中から出られないような仕組みになっているので、侵入防止用というより脱走防止用かな。ネズミが脱走したら厄介そうだし、工夫をしているのだろう。中に入ると、ゲージの中が良く見える。
「体躯ごとに分けている感じか」
「そうですね。体躯や雄雌で分かれて飼育しているゲージもあれば、ほぼ放し飼いにしているゲージもありますし、丁寧に育てているゲージもあります」
「俺の時は、雄雌の管理しかしてなかったな。マウス実験は何だかんだ言って必要だった」
ここにいるネズミ達が、先程見た脳汁や受精卵の作製のために屠殺される。俺自身、マウス実験は何度か実行しているので何も思わないようにしているが、見る人が見れば可愛そうな存在なのだと思う。
……科学の発展に、犠牲はつきものだ。だけど、犠牲を無駄にしてはいけない。そういう心持ちで実験をするべきだろう。試行回数を重ねることで色々な未熟さを強引に突破している今の研究者に、そんな感覚を持ち合わせているとは思えないけど。