第138話 冬の訪れ
11月8日。二十四節気では立冬と呼ばれる冬の始まりを告げる季節となった。朝晩は早くも冷え込む季節だ。そしてハンググライダーの実験のために雇い入れた加藤さんや島津さん、木下さんは海軍幼年学校に入学するため、受験勉強を必死になって行っていた。
「……海軍幼年学校で1年だけ学ぶのは、本来の入学生の枠を奪いそうなんだけど」
「ですが、軍人として最低限必要な知識を学ぶのに海軍幼年学校は最適です」
彩花さんが提案したことだけど、海軍幼年学校は最初の1年がとても厳しいようなので、1年だけ学業に本気で取り組ませるのなら最適だと言っていた。海軍幼年学校は海軍士官学校の前身に相当する教育機関で、主に11歳から14歳が学ぶ教育機関になる。
そこに、3人娘を入れてしまおうという発想だ。将来的に空軍の設立を行いたいため、教育は豊森邸で行っていたが、厳しい環境に置いた方が良いという判断だろう。ここで1つ懸念となるのは若干落ち着きが無い加藤さんの存在だけど「頑張ります!」と言い切って受験勉強を始めた。今は、島津さんが基礎から教えている状況だ。
「試験は2月だから、3ヵ月しか受験勉強の期間が無いのは不安だな」
「……受験勉強は、長い期間を行えば合格するというものではありませんよ?」
「彩花さんにとってはそうだろうけど、一般人は長い期間をかけて取り組む方が合格率は上だと思うよ?」
「いえ、3ヵ月以上であれば大差は無いです。1年も3ヵ月も、そこまで大きく変わりません。大事なのは本人の意思とやる気と環境です」
島津さんや木下さんは海軍幼年学校であれば素で通る学力が身に付いているようなので、この2人は拾えて良かったというか、本当に何で漁師として働いていたのかと疑問に思うぐらいだ。島津さんは加藤さんとずっと一緒だったから、加藤さんが就ける職業に決めた感じだけど、木下さんは中学に入学できる時点で日本人の上位1割だから引く手数多だったはずなのに。
「……漁船の操縦って難しいの?」
「要領の良い人間と悪い人間では燃料の消費に差が出ますので、基本的には頭の良い人間が優遇されます」
「そうか、帆船と蒸気船のハイブリッドだったな。確かに要領の良い人が操縦士としては向いてるか」
木下さんが担当していたという漁船の操縦は、基本的に要領の良い人間に任される楽な仕事のようなので、元から操縦士を狙っていたのかな。3人とも元漁師なだけあって、船酔いとかは大丈夫なようだ。
……漁師や海兵での適性検査で、船酔いする人間か否かは調べられるらしい。ちなみにこれもよく遺伝するようだけど、船酔いするからと言って人としての評価が下がる訳ではないとのこと。ただし船乗りは諦めないといけないようなので、ちょっと勿体無い気持ちにもなる。
船酔いする海兵って珍しくないような気もするけど……船酔いしない海兵の方が都合は良いし、船酔いする人を省いても問題無いほど人はいるのだろう。同じ能力で船酔いする人と船酔いをしない人なら、どちらが船乗りとして優秀なのかは明白だし。
海軍幼年学校では最初の1年で軍人としての精神力や戦争についての基礎知識、戦術のイロハを叩き込まれるようで、彩花さんの同期の知り合いはみんな海軍幼年学校の出身だったとのこと。海軍士官学校の中で、海軍幼年学校出身者の派閥とか出来てそうだな。ちなみに、士官学校へ進まなくても幼年学校の卒業者であれば軍で伍長として扱われる。
「陸軍や海軍の幼年学校を卒業したら伍長になれるのか。それにしても、入学時の年齢って結構バラバラだな」
「上等兵が1年間、幼年学校で学べば卒業できるので入学時の年齢は差が出来ます」
「うん?ということは、エリート候補生と下士官希望の人間が混在しているのか?」
「そういうことですね。将来的には佐官と下士官という関係になる可能性も高いです」
愛華さんに整理した出世の流れを教えられるが、11歳から軍に入隊して訓練すれば三等兵、二等兵、一等兵と出世して、最短では15歳で上等兵になる。ここで幼年学校に入学して1年間の教育を受ければ伍長だから、不破野さんも幼年学校は卒業しているのだろう。要するに幼年学校は伍長への昇進に必要な知識を得るための上等兵と、士官候補を目指す優秀な若者が入り交じる環境だということだ。
……加藤さんがそんな環境でやっていけるのかわりと本気で不安だけど、最近は真面目に椅子に座って机に向かうということが出来ているようなので大丈夫かな?性格は素直で悪い子ではないし、島津さんという彩花さん以上の天才かもしれない人がそばにいるのは大きい。
そう言えば、そろそろ重度の精神障害者の扱いに関して結論が出そうだ。人であるか否かの投票を行ってから2ヵ月弱の間、仁美さんの提案で継続して話し合いが行われていた。豊森家の天才達が一般人からの情報収集を行いつつ、かなりの頻度で議論を行った結果になる。おそらく、結論は当分の間は変わることが無いだろう。
……人が感情を持つ限り、善悪は発生する。これが紛れも無い事実である限り、豊森家の決断はある意味で正解なのかもしれないし、諦めただけなのかもしれない。個人的には、予想の遥か斜め下を突き抜かれた感じがしたが、幾つかある答えの内の1つには辿り着いたのではないかと思っている。