閑話④ 日本教(西暦2020年9月4日)
閑話は書き上がった順なので時系列はバラバラです。
『仏教もキリスト教も神道も、その他全ての宗教も、所詮は金を回収するためのシステムに過ぎないと父上は語っていた。以下は日本教を創始した、当時の父上が決めた教義である。
一つ、この世には神も仏もいない。この世にある全ての宗教はただの集金箱である。だから貴方は欲するものがある時、行動には移さず、ただ心の中で自分だけの神に祈れば良い。叶う時もあるし叶わない時もある。
一つ、日本教は他の宗教とは違い、教徒から一切の金を巻き上げない。ただ祭事を祝うだけの宗教である。
一つ、日本教は神道、仏教、キリスト教などその他あらゆる考えを排斥しない。むしろ文化として残すために祭事として組み入れる。日本教以外の宗教に縋りたいのであれば、縋るのを続けて金を吐き出し続ければ良い。誰も止めはしない。
一つ、この考えに触れた時点で、既に貴方は日本教の教徒である。日本国民は全員が日本教の教徒である。
創始時、父上はどうやら一向宗の怒りを買いたかったようだが、この気が狂ったかのような教義はそれだけのためでは無いだろう。おそらく全ての宗教を敵に回すこの日本教によって、国の下地を作ろうとしていたのだ。全員が同じ宗教を持つことにして、国民の団結を図りたかったに違いない』
美雪さんが蔵の奥から引っ張り出して来た秀一の当主用の日記には「気が狂ったかのような」とか「阿呆」とか書かれいた。いやまあ俺が光になって消えた後、秀一が当主になってからの日記だし、当主用の日記だし、読まれるのは後々の当主だけの予定だっただろうから、別に良いんだけどね?
実際、狂った思想だと面と向かって言われたことは何度もあるが、リアリストは戦国の世に結構な数がいたし、仏教徒の中にも大笑いしながら日本教を受け入れた人もいる。だから実の子に狂っていたとか書かれていると知って、わりとショックだ。褒めている方が分量的には多いけど……それが無かったら破き捨てたい気分になっていただろう。流石に重要な文化財を気分で破壊はしないが。
秀一には全てを語って無かったが、俺の意図は全て汲み取ってくれている。日本教を創始した本当の目的である、日本国民としての国民意識の形成。これに成功したのだから秀一の優秀さはわかる。
ただ、俺にとっての唯一の誤算は俺がご神体にされたことで、豊森秀則の神格化も始まってしまったということだけだ。そう言えば、目が覚めた時は祭壇の上だったな。本当の意味で、俺は祭り上げられていたわけだ。
『日本教の良いところは、教義が楽なことだ。父上に聞いたイスラム教では、戒律が多すぎて幾つにも分裂し、互いに互いを認めず殺し合っているらしい。仏教だって幾つにも分かれているし、キリスト教でも分裂している。その点、日本教は変えるような項目が存在しないのは良いことなのだろう。この都合の良い時に祈る対象は、父上という解釈で良いな』
体裁が保たれていた普段用の日記では秀一の本音は見えず、当主用の日記からしか秀一の考えは読み取ることが出来なかったが、秀一は俺のことを神だと真剣に考えていた。不死身だし、外見は変わらなかったし、光になって目の前で消えたし、仕方のないことかもしれないが、本当の目的は『豊森家の人間が神の血を引く人間』だと主張するためだろう。
……日本教の序文には、今でも神は存在しないとか書いているのに、秀則様は神様だという認識が広まっているのが不思議だ。秀一の時代では『神のような人』で最終的には落ち着いている感じだけど。
『父上が「俺がイエスキリストだ」と言って宣教師達の前に立ち、刀で腕を斬り落としたことがあった。その時、宣教師達は父上の復活を見て、涙を流してよく分かっていないような表情で跪いていた』
日本教には、伝道者が存在しない。教義が簡単であり、子供でも大人でも理解出来てしまう内容だからだ。そしてその創始者である豊森秀則の血が、豊森家の人間には流れているという事を豊森家は主張している。想定以上に宗教を政治利用をしていたけど、この政治利用が無ければ今の日本よりも悪化していた可能性があるから、何とも言えない。
『父上は地獄や天国、極楽浄土のことを弱者が生み出す妄想と言い切っていた。分からない方が怖いから、弱者は地獄や天国に置き換えたがるそうだ。そしてキリスト教の聖典をよく出来た設定集だと言っていた。あそこまで面と向かって南蛮人にものを言えるのは、父上だけだろう。しかし、キリスト教の否定はしなかった』
秀一の晩年の日記で書かれている日本教関連のことは、俺が何故他の宗教の容認をしたのか、だった。秀一にも分からないことがあるのかと思ったけど、秀一の推測の中に普通に答えがあったから何とも言えない表情になる。
……他の宗教を否定しなかったのは、幼い頃から教え込まれてしまっている幸せな妄想を土足で蹴散らすようなことはしなくても良いと思ったのが、第一の理由だな。日本教の教義自体が他宗教を信じている人にとって鋭利な刃物のようなものだし。幼い頃に教え込まれた宗教は人格を形成する一部になってしまうから、宗教の否定は人格の否定になってしまう。実際、教育と結びついている宗教は多い。
今の日本教の布教率は9割以上だから、5億人近い人が日本教を信仰していることになる。日本教を信じることが、日本国民の証として機能している。今の日本の異様な社会体制や、国民性は、この日本教から生み出されていると考えることも出来る。ならば、元を辿れば全て俺のせいだな。
……死んだら地獄に落ちそうだなと考えてしまうことが、洗脳されているということだろう。それと同時に、悪い事はするなというブレーキにもなっている。
日本教を創始した時に、もう少し教義を練り込めば良かったな。いくつかの教義は都合良く改変されているし、追加もされているけど、それは俺がしっかりと考えていなかったせいだ。
だから、俺には責任がある。