閑話③ 大英帝国(西暦2020年10月27日)
大英帝国、グレートブリテン島の中央にあるマンチェスター。その一軒家にある庭で1人の女性が椅子に深く腰掛けていた。すぐ傍には老齢の執事が整然と佇んでおり、女性への連絡事項を読み上げている。女性の方はかなりの美形であり、金色の前髪の間から覗かせる蒼い瞳がジッと紅茶を見つめていた。
高齢の執事は、主人である女性が知るべき情報を纏めて伝える。いつも通りの日常がそこには流れていたが、唐突に女性は震えた声を出した。
「はい?もしかして、私の耳が遠くなったのかしら?中華民国が、潰れた?冗談でしょう?何処も、干渉しなかったの?」
「冗談ではありません、お嬢様。残念ながら介入する暇も無く、既に中国は統治機構を失い日本に蹂躙されています」
「……最悪ね。日本が中国に戦争を仕掛けた時に無理してでも、介入するべきだったのかしら?」
形はどうであれ、民主主義を掲げる中華民国が、大日本帝国によって潰されて併合された。これはまた1つ、日本が強くなったことを意味する。もう一度インド方面へ侵攻をされれば、今度こそ持たないかもしれない。そんな思考が、女性の頭の中を駆け巡った。
彼女は29歳という若さで自由党下院議員の中心人物となった女だ。年金制度や健康保険の導入を行い、相続税や所得税の増税を主導したために貴族や富裕層からは嫌われていたが、民衆からの人気は高かった。そんな彼女の今の主眼は公共事業による富国強兵であり、継戦派とは真っ向から対立している。
女性がため息を吐きながら、介入すべきだったと落胆する素振りを見せる。すると礼儀正しく会釈をしていた執事の顔が歪み、女性へ問いを投げかけた。
「そのような体力がこの国にあると、本気でお思いですか?」
「ちょっとした冗談じゃない。本気にしないでよ。それにしても、僅か半年?いえ、もっと短い期間で中国は陥落したの?」
「戦争終結は10月上旬とのことです。5月上旬に国境紛争があってから、5ヵ月しか経過していません」
大英帝国は既に戦時体制へ片足を踏み入れ、民衆の生活は苦しくなっているのに、解決策を見出せない。守勢に回ることが多いため、戦争で利益を生み出せなかったことが今の不景気に繋がっている。
日本と戦った18年前のインパール会戦、15年前の紅海海戦の影響もあるが、11年前からはスエズ運河を守るためにエジプトへの派兵が多くなりオスマン帝国との衝突が増えた。また、3年前にはリスボン沖海戦でフランス・コミューンに艦隊をボロボロにされ、今年はイタリア軍とソマリアで激突した。
そして新大陸ではフラコミュ相手に劣勢であり、ついこの間はオタワで20万人を超える市民が捕らえられた。最早新大陸で抵抗できる戦力は残っておらず、新大陸からは手を引かないといけないような状況になっている。
戦争が立て続けに起こったことで本国では人手が足りなくなり、物資の生産量は落ち始めた。植民地からの労働力の供給が止まらない限り破綻することは無いが、帝国の維持が苦しくなってきているのは確かだ。
「ロシアは何も言わなかったのかしら?」
「ロシア帝国内では民主主義者と共産主義者が手を組んで皇帝や、富裕層へ民衆の怒りを誘導しているような状況です。とても日本に対して文句を言える状況では無いでしょう」
「……一方で日本は、狂ったかのような国への忠誠心を保っている。あれさえあれば、多少の技術力の差は吹き飛ばしてしまうでしょうね」
厚い雲に覆われた閑静な住宅街で、彼女はもう一度ため息をついた。鉛色に染まった空は、より一層彼女の気持ちを曇らせる。大英帝国を再建するために自分は何を為すべきなのか、どう動くべきなのか。彼女にとってのティータイムは、いつも憂鬱なことを考えるための時間だった。
日本の技術力の低さは十数年前に捕らえた捕虜からの情報で露呈済みであり、今までは脅威では無いと判断していた。去年まではまるで動きが無かった不気味な国だ。それが今年になってからは積極的に動いている。そのことに違和感を感じた彼女は、日本の内情を探ることを決意した。
「前に、日本から親書が届いていたでしょう?議会では相手にしないことを決定していたけど、個人的な手紙のやり取りなら、禁止されてないわよね?」
「……お嬢様が個人でやり取りする分には、何も言われないでしょう」
「それなら今の日本の皇帝に、手紙を出してみるわ。確か『豊森美雪』よね?」
「十数年前から変わっていなければ、正しいはずです」
彼女の突拍子もない発言に戸惑いながらも答える執事は、彼女の疑問に答えていく。仇敵である日本からの親書は、当初読まれることもなく破棄されそうになった。しかし、当時彼女と対立していた保守党の党首が強引な手段で親書の読み上げを行った。
その内容は簡潔に言えば貿易の申し込みだ。今までの仕打ちに対する謝罪もなく、ただ交易だけを求めた文書は議会で破却され、反日感情を強めた結果に終わった。もちろん彼女も日本への反感を強めた。だが、その時から彼女は日本の奇妙な変化を感じ取っていた。
彼女は手に取ったティーカップを口元に近づけ、中身を飲み干す。向かい風が頬を撫でるような感触を味わいながら飲む紅茶は、いつも通りの甘酸っぱい味だった。