Jの彼女
西の空にあるかさぶたがビルの後ろに隠れて、立ち登る群青が地平線と水平線を縫い合わせた午後五時に僕は図書館を訪れた。閉館まであと二時間ほどというのにもかかわらず資料室にはたくさんの人がいて唯一空いていた奥の席に腰を下ろす。ショルダーバッグの中にしまった勉強道具を取り出してさきほど近くのコンビニで購入した一本百円のシャープペンシルを握りしめる。一問目の問題を解こうとしたその時、僕のズボンのポケットからスマートフォンが振動して思わず手に取る。
「もしもし」
「あ、ごめん忙しかった?」
後藤真理子の悪びれる様子もない声が僕の耳を通りそして反対の耳に通り過ぎる。
「大丈夫。どうしたの」
また僕は嘘をついた。本当は七時からのアルバイトまでに解いておきたい問題がやまずみだった。
僕は人に対してあまり興味もなく、だからと言って他人の思考を押し付けられることをよしとしない。
しかし真理子だけは違った。自然に相手を受け入れ話を聞く態勢になっている。
「またJと喧嘩したの?」
Jとは真理子の彼氏だ。僕が通っている大学の他学部の先輩で女子からの人気も高くおまけに親がどこかの会社の社長で金持ちだ。背が高い、イケメン、金持ち、三拍子揃ったプレイボーイは常に女を携帯し、ティッシュペーパーのようにとっかえひっかえ女を使い捨てる。そんな奴だった。しかし世の女性はそんな男に惹かれるのだ。自分を大切にしてくれない薄情な男をワイルドだと思い込んでまるで薬漬けになったかのように恋に溺れる。奴は女に苦労することはないだろう。その中でも真理子は辛抱強い彼女だった。
「あのね、彼は私のこと嫌いになってしまったみたい」
「そんなことはないよ。きっと」
僕と真理子の会話が漏れていたのか隣に座っていた受験生であろう女の子に横目で睨まれて、僕は泣く泣く席をたった。
中庭に出た僕の胸の鼓動は波打って少し早くなっていた。気に聞いたことなど言えるわけもない。僕はただすっかり暗くなった空を見上げて、見えるはずもない六等星を数えることに集中した。
「好きな人が出来たって言われたの、他の大学の読者モデルの子。すごくかわいくてスタイルがいいの。しっかりその子と付き合いたいから別れてほしいって・・・・・・」
僕の吐く息は白く軽い、頭の上まで上昇した後何もなかったかのように消えた。真理子は乾いた声で言った。
「ごめんね。保科くんには関係のないことだよね」
まったくもってその通りである。真理子からそんな別れ話の相談を今月にはいってからもう三回も聞いている。自分がかわいそうでそう思ったら自分以外の人間の都合や気持ちにはお構いなし。土足で心の中に入ってくる、僕から言わせれば真理子も真理子の彼氏も同じようなものだった。
「保科くん。私の部屋に来て、慰めてお願い・・・・・・」
「今日バイトあるんだ」
電話越しに真理子のすすり泣く音が聞こえた。
「そうだよね。ごめんなさい。アルバイト頑張ってね」
そう言って真理子は静かになった。通話を終了しない真理子はおそらく僕の次の言葉を待っている。
「まだ時間があるから。今から行くよ。まってて」
ずるい女だ。そして僕はバカな男だった。
真理子の住んでいるアパートはここからさほど遠くはない。自転車があれば十分足らずで到着することが出来る。そのまえに僕はよらなければならないところがある。
個人経営しているコンビニエンスストア。「ヤマダマート」。ここに真理子が大好きな深海魚ビスケットが置いてある。一個二百円ほどの深海魚の形をしたビスケットはふたのところに応募券がついていてあたりが出るとブロブフィッシュのぬいぐるみと交換できる。
ブロブフィッシュとは、世界で最も醜い生き物と言われるほど容姿がひどい魚だ。大きく垂れ下がった鼻に分厚いくちびる。なによりぶよぶよした締まりのない体つきが不気味さを演出し、さながらエイリアンのようだ。
真理子によるとあたりが出ずともはずれを三十枚集めても交換できるらしいが、こんな気持ち悪い深海魚のぬいぐるみを欲しがる人は、日本広しといえど真理子だけだと思う。
深海魚ビスケットを買ってヤマダマートを出た。一度時間を確認して自転車のペダルをこいだ。五分ほどで真理子の部屋の前に到着するとドアノブを掴み押す。
「保科くん。ありがとう来てくれて」
真理子はぶかぶかのセーターを着ていた。部屋の中には十分に暖房されていて服が少しはだけて肩が見えている。
「真理子、泣いてたの?」
僕は尋ねると真理子は赤くなった目を乱暴にこすり無理に笑顔を作った。
「泣いてないよ。あんな奴のために泣いてやらないんだ。私強いのよ」
「別に無理しなくていいんだよ。涙は流すためにあるんだから」
鼻をならし、力を込めて真理子は言う。
「優しいね。でも私は泣かないよ。ゼッタイ泣かないんだ」
「そうか」
真理子が泣こうが泣かまいがそんなことは正直どっちでもよかった。しかしそんなことを言えるわけはない。
「時間まで頭を撫でて、いつもみたいに優しくかわいそうな私を慰めて」
真理子はそう言うと僕を部屋にあげる。
真理子の部屋は1LDKだ。十畳ほどのリビングダイニングと六畳より少し狭い寝室。どちらの部屋もフローリングだった。キッチンとリビングを仕切るカウンターの横に、程よく透けたおしゃれなミストガラスがあった。
真理子に案内されるまま僕はいつものようにベッドの横で胡坐をかいた。真理子は、その上に座り体を預ける。僕は真理子の体を包むように抱き寄せて真理子の綺麗な髪をそっと撫でた。
「私ってかわいそう?」
「そうだね。真理子はかわいそうだ」
僕は、真理子の頭を撫でながら綺麗にベッドメイクされたマットレスの広がりを見つめていた。複数のバラの花が絡み合って咲いている絵柄だ。きっと今度の休日の夜にJを連れてくるために、真理子はホテルの客室乗務員のようにベッドを整えたのだろう。しかし、そのかいなくJは真理子のもとに来ることはないのだ。
こうやって真理子との距離が近くなるほど僕と真理子の心の距離は離れていく。僕に抱かれた真理子は、瞼の裏に大好きなJに思いをはせている。
本当にかわいそうなのは僕の方だ。真理子は僕に体を預けたまま目を閉じて、悲劇のヒロインを演じる。自分の世界に浸る真理子をときどきめちゃくちゃに壊したくなることがある。
真理子との出会いは大学二回生の時だった。珍しく参加したゼミの親睦会でひと際男子に人気な女の子が真理子だった。僕は恋愛というものを半ばバカにしていたものだから真理子に特別惹かれることはなかった。
バカみたいなやつの集合体みたいなゼミ生は二次会だと言って夜の街に消えた。僕は飲み直しがしたくて、一人みんなと反対方向に向かって歩き出した。
「あの私と一緒に飲みなおしませんか」
そう声をかけてきたのが真理子だった。僕は驚き人違いではないかと言ったが、真理子は違うと言いい、結局断る理由もなく近くの店で飲みなおすことにした。
真理子は僕が抱いていたイメージと違い気さくでなかなか面白い人だった。僕の堅苦しい話もよく聞いてくれたし、冗談に付き合ってくれる器量も持っていた。何より時おり見せる屈託のない笑顔が素敵だった。
それから僕たちは親しくなり今に至るわけだ。真理子に気がないと言ったら嘘になるが、真理子のことを素直に好きとは言えなかった。それは僕が朴念仁であるというのも理由の一つに含まれている。
僕のこれまでの人生が今の僕の気持ちに蓋をしているようで、きっと蓋をされた僕の心のツボの中は、いろいろな感情がとぐろを巻くようにうねり合い、むなしいやら、恥ずかしいやらそういった感情が複雑に絡まり合って異臭を放っているに違いないのだ。
「もう行かなくちゃ」
僕の中で眠る真理子をそっとベッドまで移動させて毛布をかけた。僕の体にはまだ真理子の温もりが残っていて髪から香るシャンプーのにおいが鼻の奥で暴れている。真理子が好きな深海魚ビスケットを枕元に置くと、真理子の目から一粒の涙が頬を伝う。
僕はその涙を人差し指で捕まえると真理子の頭をもう一度撫でて部屋を出た。この時点でアルバイトには間に合わない。全速力で自転車をこぐ自分を滑稽に思うと同時に何とも言えない高揚感を味わっていた。
休日の午後、駅前の喫茶店はけっこう混んでいた。胸のところに研修中の名札があるウエイトレストと目が合った。化粧をして着飾っても年相応のあどけなさは隠せないもので変に大人びた女子高生の不自然さに思わず笑ってしまう。僕の顔を見て首を傾げた彼女になんでもないと伝えると、彼女は営業用の笑顔を振りまいて案内してくれた。隣の本屋で買った小説に目をとおす。数分して顔を上げるとさっきのウェイトレスが注文をとりにやってきた。
「ブレンドコーヒーをひとつ」
ウェイトレスはにこりと笑って注文を繰り返す。僕は再び本を開いた。
こうやって一人で本を読んでいると現実で起こった嫌なことを少しの間忘れられたりもする。今読んでいるのは、僕と同じ大学生の主人公が、恋やアルバイトに奮闘しながら、就職活動に勤しむうちに本当の自分を見失ってしまう。という青春ストーリーで今の自分に被るところがあり自然と共感して笑みがこぼれる。
一時間ほどしてふと空を見上げれば灰色の厚い雲がさっきまでそこにあった青を塗りつぶしていて、今にも地上に落ちてきそうだった。僕はスマートフォンのお天気アプリを起動させると、午後四時から雨雲が関東全域を覆っていた。
「洗濯物をとりこまないと」
独り言でつぶやく僕と同じ考えのお客の何人かが急いで会計を済ませ外に出ようとする。僕もポケットにしまった財布を取り出して伝票をカウンターに持っていこうとした。その時、左手のスマートフォンが手の平で振動する。僕はスマートフォンを開き、相手を確認すると真理子と表示され画面をスワイプする。
「あの、保科くん。いきなりごめんねあの今大丈夫?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「あのね。実は体調を崩しちゃって熱が下がらないの。私・・・・・・他に頼れる人がいなくて助けてほしいの」
数秒だんまりを決め込んで、今日こそは、はっきりというつもりだ。「もうとてもごめんだ。これまでにしよう」と、しかし僕の口から出てきたのは別の言葉だった。
「分かった。すぐ行くよ。あ、そうだいつものビスケット買っていくから待ってて」
僕は自分で思っている百倍バカな男だ。
雨はもうすでにぱらつき始めて、道行く人は傘をさし始めた。
「大丈夫か」
僕が真理子の部屋を訪れたとき真理子はリビングに机をだし座っていた。僕はてっきりベッドに横になって苦しんでいると思ったものだから、なんだか拍子抜けしてしまった。外はコンクリートを強く打ち付ける雨が歩道を鍵盤代わりにまるで壊れたピアノのような音を響かせている。
「ありがとう雨の中ごめんね。服脱いで乾かさないと風邪ひいちゃう」
僕は真理子の言われるがままに上着を脱いだ。下のシャツまで濡れていて真理子はそれも脱いでほしいと言って僕から取り上げた。上半身裸になった僕は真理子が回した洗濯機を眺めていた。がたがたと音をたてるドラム式の洗濯機を僕はただじっと眺めていると、キッチンから真理子がやってきて熱い紅茶を僕にいれてくれた。
「今、お風呂沸かしているから入って」
「いや、大丈夫だってそれに今日は栄養のあるものを買ってきたから、食べて早く寝て真理子の風邪を治す方が先だよ」
「でもどっちみち服が乾くまで帰れないからせめてシャワーだけでも浴びて・・・・・・じゃないと保科くんまで風邪ひいちゃう」
僕は黙って頷いて、気が付けば浴槽に浸かっていた。浴槽に浸かりながら、僕はこの後どうなってしまうのか、その先の展開を予測してしまう。
お風呂から上がり洗面所で立ったまま、鏡を見ていた。このまま真理子とセックスしていいのか。頭ではそうクールに考えるが、本能はそう冷静ではなかった。魅力的な女性との初めてのセックスは僕の胸を躍らせる。
理性と本能が喧嘩したとき、たいていは本能が勝つ。恋だ愛だと騒ぐのは自分がしたことを正当化させるための都合のいい口実にしか過ぎないのだ。だからこれから起こることすべてに僕は、愛とか恋だとか言うなんともあやふやで、しかし絶対的な力をもつ言葉を使い自分を偽ろうと思う。
真理子の部屋には都合よく男物の洋服が上下そろっていた。Jが置いていったものであろうその服は、僕の身体にすっぽりと収まり、微かに真理子の香りがした。
「あめ、強くなってきたね」
真理子は、そう言うと僕の隣に腰を下ろして、僕の顔を覗き込んだ。エアコンの風が濡れた僕の服を撫でる様子を釈然としないまま眺める。横目で彼女を探ると、セーターの隙間からちらりと見えたブラウスが映えていた。
「寒いの?」
「すこしね」
「ベッドで横になった方がいいよ」
「じゃあベッドまで連れて行って」
真理子は僕の右肩に手を回しいたずらな顔をしてくちづけをした。
しばらくの間、僕たちはそのままだった。真理子の手の平がゆっくりと僕の背中に触れ、僕を抱きしめている腕に力がこもる。
真理子に腕を引かれ、さっきまで真理子が寝ていたであろうベッドの上に二人で倒れ込んだ。脳内で何度もしたシミュレーションを一から辿る。
丁寧な前戯や気の利いた言葉なんていらなかった。真理子は上半身にセーターを着たまま慣れた手つきでジーンズと下着を脱いだ。僕は無意識に真理子のなかを指で弄んでいた。
卑猥な音が聞こえるたびに自分の指の動きが激しくなる。下唇をかみ殺し必死に我慢していた真理子だがそれでも声は漏れ始めていた。
真理子の肩を掴み仰向けに寝かせた後、その上にしゃがみ込んだ。真理子はサンタクロースからのプレゼントを指折り待つ子供のように待ちきれない表情で僕のソレを見つめている。その時、僕は真理子の顔にJを思い浮かべてしまったのだ。
「どうしたの?」
「やっぱり帰るよ」
「どうして?」
「昨日この部屋にJがきたんでしょ」
真理子はなにも言わなかった。僕は続ける。
「Jとやったの?」
「やってないわ」
真理子は起き上がり、僕と目線を合わせた。
「彼は、ただ泊まりに来ただけ、終電を逃して都合よく私の部屋に来た。それだけ」
「僕はそのあてつけかい?」
静寂が漂い雨の音だけが二人の世界を支配した。僕は立ち上がり真理子に背を向ける。
「僕は真理子が好きだよ。でも今の真理子とはしたくない。どんなに小さくても僕にも男のプライドがある。あてつけなんてごめんだね」
そう言い残し僕は、Jの洋服を脱ぎ捨てた。まだ生乾きの自分の服を乱暴に着用し真理子の部屋を出た。十一月の冷たい雨が降りしきる道を出来るだけかっこつけて歩く、傘をさして歩く人ごみの中を苦笑いしながら。情けなくて、悔しくて、僕が去った部屋でひとり、真理子が嘆く姿を想像した。
満たされない気持ちをあざ笑うかのように見上げた空は灰色で、今の自分があまりにも惨めに見えてきた。
ポケットに手を突っ込み、澄ました顔で家路を目指した。最大限にかっこつけて、不器用な僕が今できるささやかな抵抗だ。
防災訓練のサイレンが聞こえる。
自分の部屋から見える高校のもう使われなくなったプールをぼんやりと眺めていた。喉が渇いていることに気が付いた僕は冷蔵庫に常備していたミネラルウォーターをあけ、ごくごく音をたてながら飲んだ。半分ほど飲み干してベッドに横たわる。
あの日から一週間僕は、高熱に襲われずっと寝込んでいた。毛布をかぶりひたすらに体の震えを止めようと丸くなっても僕の体調は一向に回復に向かわなかった。体が弱くなるとまるで自分が世界にたった一人しかいなくなったような孤独に襲われる。こんなとき一人暮らしは損だと思う。
がたがたとボロアパートを叩く風を子守歌にして、眠りにつこうとしたその時に、確かにこんこんというドアを叩く音が聞こえた。
気だるい体を無理やり動かして玄関に足を向ける。
「保科くん大丈夫?」
ドアを開けると目の前には、リュックサックを背負った真理子が立っていた。驚く僕の頬に手をあてておどけて見せる。
「看病しに来たんだ。ほらひとりじゃ何かと不安でしょ」
部屋が汚いと言った僕の意見を押し切って真理子は部屋に上がった。市販の風邪薬と栄養ドリンク。熱さまシートまで買い込んだ真理子は、「お鍋ある?」と尋ねて台所に立った。
「おかゆ作ってあげるからちょっとまってて」
僕は、真理子の言われるがままベッドに横たわる。その間目の前にあるリュックサックの僅かなふくらみを眺めていた。この中身はいったい何のだろうか?想像してもこれといった答えが出てこない。そうこう考えているうちにおかゆが出来上がった。茶碗に移された白がゆをレンゲですくってむしゃむしゃと口に運ぶ。塩かげんがばらばらで所々濃かったり、薄かったりしていたが、これまで食べてきたどの食べ物よりもおいしかった。
「どう、おいしい?」
「おいしいよ。ありがとね」
鍋いっぱいの白がゆを綺麗に食べきった先ほどまで感じていた孤独感はすっかりなくなり真理子に尋ねた。
「このリュックサックの中は他に何が入っているの?」
待ってました。と真理子の表情が明るくなる。その笑顔は確かに僕が惹かれたなんの駆け引きのない無邪気な笑顔だった。
「じゃじゃーん。見てこれな~んだ」
真理子が取り出したのはぬいぐるみだった。
薄ピンクでだんごっ鼻、厚いくちびるの少し後ろにエラがある、不細工な魚のぬいぐるみ。
「深海魚?」
「ピンポーン。正解で~す」
真理子は手に持ったぬいぐるみのエラを上下に動かした。中年オヤジみたいな顔が僕の頬に触れる。
「なんだよ。その気持ち悪いの」
「ブロブフィッシュだよ。保科くん」
その言葉に僕は聞き覚えがあった。あの深海魚ビスケットの景品だ。
「すごいね。当たったんだ」
そう言うと真理子は首を振り「ちがうよ」と照れくさそうに言う。
「保科くんが私の部屋に持ってきてくれたやつのはずれ券で交換したんだ」
思わず咳き込んだ。真理子は僕の背中をさすりながら目をまん丸くして続ける。
「知ってた?当たりが出なくても、はずれが三十枚集まればいいんだよ」
「知ってたよ。でもびっくりだな」
「私ね、保科くんがこのビスケットを私の部屋に持ってきてくれるたびに箱をとっておいたんだ。それでねその箱が増えていくたびに自分のことをこんなに大切に思ってくれている人がいるって思って、すごくうれしかったの」
真理子の目から一粒の涙が頬を伝って、畳にこぼれる。
「でも私は、保科くんの気持ちを知りながら、ずっと保科くんの優しさに甘えていた。本当にごめんなさい」
僕は真理子を抱きした。右手で頭を撫でると僕の胸で彼女がすすり泣く声が聞こえてきてた。
「いいんだよ。僕の方こそごめん。真理子が困っているところにつけ込んできみの心に土足で踏み入れる真似をして」
窓の外を授業が終わった高校生が足早に家路を急ぐ。おそらく彼らに流れる時間と僕と真理子に流れる時間は違うのだ。日常の何気ないしぐさや言葉に大した意味などないのかもしれない。だからと言って時間は止まってはくれないし、日々は動いていく。
神様ですら知るはずもない痛みや、悲しみを背負って生きているから人は誰かに恋をして、自分の心にぽっかり空いた溝を埋めるために肌を重ねあう。そしてその行為をうまく言葉に出来ないから、とりあえず人は、その行為のことをセックスという言葉で補っているのだろう。
「ねぇ、今度デートしてくれないか」
「いいよ。どこ行こうか」
「水族館に行こう。見てみたいんだ、えっとなんだっけ」
「ブロブフィッシュだよ」
「そうそれ」