表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 柴田 透

 夜中の十時頃だろうか。時計のない部屋、蛍光灯の明かりはほのかなオレンジ色で決して明るいとはいえない。腹が減ってないからといって彼は夕食を拒み、彼女は酒の肴を作ることにした。彼女はこれからしたであろう夕食に作るものを決めて、休日、時間をかけて彼のために作るのを、楽しみにしていた矢先だった。

 しかたないと、自分の心にあるヤキモキを抑えつける。中腰になり、白い扉をゆっくり開けた。それと同時に、彼女の自然に吐いた息は冷蔵庫の冷気の中で、白くなって消えた。野菜室にはトマトと市販のキムチがあった。トマトを切り塩、クリームチーズをのっけてやるとそれなりのものが出来たので、それとキムチを食卓に置いてやった。二人で淡麗グリーンラベルをグラスに分けて、クラシックをかけながら乾杯した。

 二人で過ごす、いつもと変わらない休日の夜。二人が大好きな時間であり、特別な気分に浸ることができる。なのに、今夜、彼女はいつもと流れる空気が違うように感じる。いつもと変わらぬ言葉数少ないやりとり。会話の中身も、変わらない。いつもその雰囲気に満足しているふたりは、いい表情をしてそれぞれ心地よい時間の流れを楽しむのだ。だけど、彼女は今日の、その空気の中にぎこちなさを感じてしまう。自分はうまく返事をしているだろうか、彼の口数がいつもより少ないのではないかなど。そんなことを考えながら、彼の様子を伺っていると、彼は途中から酒を飲むのをやめて、足元に寄ってくる猫に夢中になる。猫のお気に入りのサメのぬいぐるみを使って、猫とじゃれだした。

 テレビもつけず、少量の音楽が流れるこの空間の中、彼はとうとう彼女に背を向け始めてしまった。彼女はむすっとしながら、その背中を見つめていた。いつになったら、猫に飽きるかと、ずっと見ていたが、しばらくたっても、彼は彼女に一瞥の加える様子もなく、一生懸命猫の注意をひこうと、「おーい」「可愛いなぁ」など言いながら、ぬいぐるみの使い方を駆使して前のめりになっていた。その時間は、たぶん5分も経っていないだろうが、彼女の感覚では、テレビ番組が一つ終わってしまうくらいの長い時間、一人にされているような体感であった。


 何よ…、普段はそうやって猫となんか遊ばないくせに。どうして私との話をそっちのけにして、猫の方ばかり見ているのよ。いつもは、私との話が面白いとか、君と一緒に飲む酒が好きだと言ってくれるのに。この雰囲気の中で、そうやって猫に逃げるなんて、あなたもこの空気にぎこちなさを感じているのかしら…。

 二人の中に、何かあっただろうか…。彼はどう思っているかまったく分からないが、彼女はこの場の、いびつな何か物を含んでいる奇妙な感覚から脱出したいと思い、考えを巡らせた。


 何があった?昨日?今日…。今日は二人で日中に散歩をして、十六時くらいからこの暑いのに軀を寄せ合いベッドで昼寝につこうとした。結局、どちらかがちょっかいを出して、それとなく軀を求め合った。そのときの快楽は、しばらくして夜になっても、いつまでも自分の心と体を満たしていたが、それは互いにではなく、彼女だけだったのかもしれない。今日の彼と自分に何があった、再び、細かい会話のやりとりまで思い出してみる。行為の後、二人はいつものロジックな話をしていた。

彼女は、あのとき彼に向けて言った、ずっと渋って言いづらくなってしまった苦言が、彼が自分に背を向けている原因だと思った。

「価値観も違うだろうからなぁ。今まで一緒にいて、俺に嫌だと思うことはあった?」

「そんなにないよ」

「…なに、そんなにっていうことは、何かあるってこと」

「あっ、いや。言葉を間違えました」

「何かあるなら言ってよ。直せるところは直すからさ」

「あなたは何かある?」

「いや。何か思いついたら言うよ。で、なに?」

「……直して欲しいというわけではないけど、しいていうなら。…ちょっと気になっていたことがあって……。」

あの時、私がそのまま渋って彼に言わないままでいたら、どうなっていただろう。彼はあの時、「言ってくれてありがとう。気をつけるね」と言ってくれたけど、本音はどうかわからない。やっぱり、言ったことを彼は気にしているのかも……。それで、悲観的に思ったり、いらついていたりして、このぎこちない空気になってしまっているのかもしれない。

言わなければ良かったと後悔の念にかられそうになる。だけど、刹那に違う考えが浮かんだ。確かに今は、彼を傷つけてしまったかもしれない。でも、もし直してもらいたいと思っていたことなら、いつか言っていただろうことが、早まっただけのこと。割り切ってそう思い込もうか。彼女の自分勝手な考えが、頭の中をぐるぐる渦巻いた。


 しかし、そもそも彼が彼女の些細な苦言を、根に持つタイプにも見えない。実際、言った直後も特に違和感を思わなかった。私のこの罪の意識は、考えすぎなのかもしれない。もしかしたら彼にとって、私の苦言は大したことではなく、気にしていないかもしれない。そんなことすっかり忘れてしまい、単純に猫に夢中なのかも…。


 そう思い始めた。この考え方のほうが、彼らしいとも感じた。今の私を第三者が見たら、今の彼は猫と遊んでいるだけで、君の事なんて考えてないよっていうだろう。そう思えたら、自分の罪悪感も消えて気持ちも楽になってきた。ぎこちないと思っているこの雰囲気も、私の思いすごしであって、いつもと変わりないのかもしれない。私が、すこし悲観的になっているだけなのかも…。

本当は、彼と一緒に、猫の取り合いなんかして二人で笑い合えるかもしれない。そして、また二人でベッドに入ったら、どちらともなく軀を求め合うこともあるだろう。


…気持ちが楽になるかと思いきや、相変わらず彼は猫とじゃれあって、彼女はのけもの。自分は悪くないと思え始めた彼女は、大切な二人の時間に、いつまでたっても背中を向ける彼にたいして、ふつふつと苛立ちがこみ上げてきた。

今何分ほど経ったかわからないが、彼女は相当長い時間ほっとかれているように思えた。今まで考えていた彼に対しての後悔の念は棚に上げ、二人の時間が無意味に過ぎていくような悲しい気持ちと、猫に対する嫉妬心に、自分でも表情がどんどん暗くなっていくのに気づいた。早く彼が振り返って、私のこの切ないのか苛立っているのかの表情を見てほしい。そして、自分が永いあいだ、彼女をほったらかしにしていたことを後悔して、退屈にしていた時間を取り戻して欲しい。そう願っていた。そんなことまで思っていながら、彼女からはとくにアクションも起こさず、じっと二人のじゃれ合う姿を、ほおづえをつきながら、見続けていた。


 女は、あなたと猫が私に背を向けて、二人で戯れている姿をどう見ていると思う?猫が雌だから?そんなの関係ない。猫じゃなかったら?それも私に背を向けていたり、私の方を見てくれていなかったら同じこと。

 私は、酷くいえば憎悪の目で、貴方の後ろ姿を眺めているのだから。〝私のことは気にしないで〟〝そんな貴方の後ろ姿が好きなの〟などと言っている女は、嘘よ。優しい素振りを見せて守りに入っているだけ…。本当は、誰だって自分だけを見て欲しい、特別に扱ってほしいの。



 そんな話を次の日の朝、卵スープとブルーベリーヨーグルトを二人で食べながら彼女は彼に話をした。

 彼は笑いながら、彼女に言った。

「僕も君に、一つだけ言っておきたい」

「 すべての雌に寛大に 」


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ