無口な恋人
佳織は、歩いていた。
綺麗なシルクのワンピースから、ぽたり。雫が床に落ちる。
彼女の背後に続く廊下は、ぐっしょりと濡れていた。
停電してしまったのかその空間は闇に満ちていて、彼女たちの姿を照らすのは、空から地面へとつらぬく雷光だけだった。
「――――ねえ、文哉」
佳織は、その繋がれた右手を見て頬を染める。
「びしょ濡れになっちゃったけど、たまにはこんなデートもいいよね。私たちらしくて」
「…………」
佳織は、ころころ笑う。
「とりあえず文哉が温めてくれたけど、さすがにこのままじゃ二人とも風邪を引いちゃうよね。お風呂は……電気がないと無理だし、電気が復旧するまで暖炉で暖をとろっか」
そう言うと、佳織はリビングにある暖炉の前に行き、文哉に笑いかけた。
佳織は昔からこの家が嫌いだったが、情緒があるこの暖炉だけは好きだった。
「パパとママという人間は嫌いだけど、センスの良さだけは好感が持てるわね」
佳織は文哉の手を離し、しゃがみこんで火をつける。
「子供の頃、文哉によく暖炉の火をつけてもらったよね。不器用な私はなかなか上手くつけられなくて」
薪の下から、小さな炎が徐々に顔をのぞかせる。
「ちゃんと自分でつけられるようになったのよ。文哉に『ヘタクソ』って言われて悔しくて、必死に練習したの。知らなかったでしょ? 私、負けず嫌いなの」
焚き火が、ちろちろと燃える。
しゃがんだままその揺らめく炎を見つめる佳織は、懐かしむように目を細めた。
「あの頃は、私は何も知らなくて。パパとママには無償の信頼を寄せていたのよね」
佳織は、自嘲するように笑う。
暖炉の火は、だんだんと大きくなっていく。
「自慢のパパとママだと……仲の良い家族だと、そう思ってた。でもそれは、私の幻想にすぎなかったのよね…………」
「…………」
悲しみに顔を曇らせる佳織に対し、文哉は何も言わない。
それはいつものことなのか、佳織が気にする様子はない。
ぼうっと燃え上がる炎に、熱くなった顔に両手を当てて、佳織は立ち上がって暖炉から距離をとった。
「ねえ、そこじゃ寒くない? こっちにおいでよ。暖かいよ」
そう言うと、佳織はソファのもとに行き、文哉の手をつかんで引っ張る。
そうしてまた暖炉の前に寄り、絨毯の上に腰をおろした。
「えーっと、どこまで話したんだっけ?」
佳織は文哉の方を向いて、こてんと首を傾げる。
しかし文哉から聞く前に思い出して、話を続ける。
「…………あ、そうだった。そう、それでね、私がその滑稽な家族ごっこに気付いたときに、パパとママは何て言ったと思う?」
「…………」
文哉は相変わらず何も言わない。
佳織はくすくす笑って、答える。
「――――お前の存在は汚点でしかない、ですって」
佳織は可笑しそうに笑う。
「たとえパパとママの間に愛がなくても、私のことは愛してくれていると思ってたの。だって、自分の子供というだけで愛おしく思えるものじゃない? だけど…………パパとママは違ったの。人間としての感情が欠落していたのよ」
そう言った佳織は、涙を堪えるように顔を歪めた。
「そんなパパとママの娘である私も、所詮は欠陥人間だったの」
一呼吸置いて、言葉を続ける。
「……だけど、文哉はそんな私を愛してくれた。嬉しかったの。だから、私も文哉に無償の愛を注ごうと決めたの。でも…………パパとママの姿をした悪魔は、私たちの愛を否定した。そんなもの、まやかしでしかないと。そう言ってなじって、私たちの結婚を邪魔しようとしたの」
佳織は、文哉の手を握り締める。
「許せないでしょ? だからね…………パパとママに、本当の愛というものを見せてあげようと思って、文哉を家に連れて来ることにしたの。騙してごめんね。それなのにパパとママったら…………」
佳織はそう言って、両親の寝室がある方向を見る。
「二人そろって先に寝ちゃうんだもの。まだ七時よ? 子供だってまだ起きてる時間よね。でも…………あんなに冷え切っていた二人が一緒に寝るなんて……明日は雨じゃなくて槍でも降るのかしら」
佳織は皮肉を込めて笑う。
「けど、いいことよね。本来、夫婦ってそういうものだと思うわ。寝室が別だなんて……寂しいもの。ねえ、文哉もそう思うでしょ?」
「…………」
佳織は、愛おしそうに文哉の腕を抱く。
「ねえ……私たち、ずっと一緒よね?」
「…………」
「さっきのは、私の聞き間違いよね? ――――別れよう、なんて。気持ち悪い、なんて。そんなこと文哉が言うはずないもの。欠陥人間の私を唯一愛してくれた文哉が、そんなこと…………」
声が、震える。
「文哉、私に言ってくれたよね…………佳織は欠陥人間なんかじゃない、って。人間の感情も愛する心も、ちゃんとお前にはあるよ、って。そんなに不安なら俺のそばにいろよ、って。仕舞いには、俺色に染めてやる、なんてことも言ってくれちゃって。嬉しかったなあ……俺様でわがままだけど、文哉は温かかったよ。だから私はちゃんとした人間になれた」
佳織の目から、涙がこぼれる。
「見て……私、文哉の色に染まったよ。なのに、文哉は突然冷たくなっちゃって…………どうして? 私、何かしちゃったのかなあ……」
ぐす、と鼻をすする。
「でも、今は静かに私のそばにいてくれる。ということは、まだ私を愛してくれているんだよね? 文哉は冷たくなってしまったけど、その気持ちだけは変わらずにいてくれているんだよね?」
「…………」
佳織は、その無言を肯定と捉えて、嬉しそうに微笑んだ。
「文哉のこと、信じてた。ありがとう…………一生一緒だよ」
そう言って、佳織は文哉のものだった腕を抱きしめた。
冷たかった腕は、温かさを取り戻した気がした。
闇の中で揺らめく炎は、文哉の血色に染まった佳織の姿を、無感情に照らしていた。