泥とほこりの体験学習
1
ある夏の夜。
歯をみがきながら、洗濯機をなんとなく覗き込んだわたしは、青ざめた。
その1時間ほどまえ、わたしは、入浴するときに脱いだワンピース、下着、ソックスなどを洗濯機のなかに放り込んでいた。
わたしは別に、洗濯の方法にうるさい訳ではないのだが、さきほど洗濯機の中に放り込んだイエローホワイトのワンピースは、なかなかのお気に入りだった。だからこそ、その後に入れられた『物体』を見て、言葉を失ってしまったのだ。
泥だらけの軍手がたくさん――、4組ほど入っていた。
――おじいちゃんだ。
と、思った。
祖父は、今年で79歳である。
高齢期も後期に突入しているが、なお働きざかりの、エネルギッシュな祖父である。8000平方メートルほどの田んぼを2つ持ち、ゴールデンウィークになると田植えをし、9月の頭に収穫をする。畑も持っており、白菜、キャベツ、にんじん、なす、他にもたくさんの作物を、1年中育てている。
祖父は、祖母と2人で、毎日、毎日、畑仕事に精をだしていた。
だからこそ、あの『泥だらけの軍手』なのだろう。わたしが産まれるずっと前から、この家は農家だった。だから、仕方ないのだ。郷に入っては郷にしたがえ、という言葉があるが、わたしは、そういったおもむきは大切だと思っている。
そして、ただでさえわたしは、『訳あり』なのである。
ここは母の実家らしいのだが、わたしは、0歳から15歳になるまで、父と2人、別の場所で暮らしてきた。わたしがこの家に来てから、まだ2年も経っていないのだ。祖父母の顔も、そのときに初めて知ったほどだった。
この家のみんなはとても温かくて、優しくて、「なにも遠慮はするな」と、よく言ってくれる。わたしは最近になってようやく、遠慮なく冷蔵庫をあけられるくらいにはなったのだが、「この家に住ませてもらっている」という感覚は、抜けきらない。
古くから続いている田舎の家なので、習慣、ならわしなどが若干あり、たまには不満も覚えてしまうこともあるが、全部、受け入れるつもりである。
そんな立派なことを考えながらも、わたしはこの日、こっそりと自分の洗濯物を救出し、お風呂場で洗った。
2
それから少し後のこと。
9月13日の、土曜日。
わたしはいつも通り、朝の7時に目がさめた。リビングルームに足をはこぶと、先に起きていた母親と祖母に、「おはよう」を言い、牛乳をたっぷり使ったコーヒーを作り、ソファに座る。読みさしの文庫本を開こうとすると、「ご飯できてるから、早く食べなさい、片づけられないでしょ」と、母親に言われてしまい、食卓についた。
テーブルには、だいこんの煮つけと、目玉焼きがあった。とくにだいこんは、わたしの好物だ。大切な思い出もある。わたしはそれを思いだしながら、箸でだいこんを裂き、口に運ぼうとすると、背中から声をかけられた。
「ああ、起きたか」
突然だったため、びくりとしてしまう。
祖父だった。
「あっ、お――、じいちゃん」
なるべく平然と返事をしたつもりが、ぎこちなくなってしまう。もういちど言い直すつもりで、朝の挨拶をした。
「おはよう」
「うん、ちょっといいか?」
祖父は、すこしだけ、申し訳なさそうな顔をしていた。朝の挨拶も省略して、こんなことを言ってきた。
「今日、時間あるか?」
「え? うん、あるよ」
「手伝いをやってほしいんだよ」
「手伝い? なにをやるの」
「田んぼの片づけ。ほら、このまえ稲刈りやっただろ。あれの片づけだ」
「うん、わたしに出来ることなら、やるけど――」
「じゃあ、9時になったら、西の田んぼに来てくれっか? 歩いて来いよ。あと、痒くならない格好して来んだぞ」
「え……」
とんとん拍子に、わたしの予定が組まれていった。祖父は、わたしの返事もたいして聞かず、言うだけを言って、外へと出て行ってしまった。
「……」
わたしは、呆気にとられていた。
テレビの中では天気予報がはじまった。リビングルームには沈黙が現れていたが、それを予報士の言葉がうめていく。予報士は、画面のなかから一方的に語りかけてくるだけだが、その内容は、具体性があって分かりやすかった。
――ええと、おじいちゃん、なんて言ったっけ。『西の田んぼ』は、分かると思う。たぶん、わたしひとりでも行けるだろう。でも、『痒くならない格好』って、なに?
わたしが途方にくれていると、「くすっ」と笑った声がした。母親だった。「ねえ、いまの、分からなかったでしょ」と、面白そうに言う。
「あー、あははは」、と、祖母もしわだらけの顔で、笑った。
「うん、よく分からなかったけど、どういう意味?」
「西の田んぼはね――」
と、説明をはじめたのは、祖母だった。
まず、田んぼの場所について。これはすぐに分かった。それから、『痒くならない格好』というのは、つまり『長そでを着てこい』という意味だということ。ワラをたばねて軽トラックで運ぶ仕事をやらされるのだが、素肌をさらしていると、痒くなるらしい。
さらには、長靴も必須のようだった。収穫が終わった田んぼとはいえ、雨の影響でぬかるんでいるようである。
「わ、わかった……がんばる……」
なんとなくおののき、怯えるように言うと、「そんなに気張るもんでもないよ。おじいちゃんにも、無茶はさせるなって言ってあるんだから」と、祖母が言った。
「でもどうして、急に、わたしにお仕事を……」
「ごめんねえ。元々、あたしの仕事だったんだよ」
わたしが疑問を口にすると、祖母がもうしわけなさそうに謝った。そして、母が説明してくれた。
「おばあちゃんは今から、病院に行くの。私も一緒に行くんだけど、ちょっと長くなりそうだし……。それにいい機会だから、あなたにも家のことをいろいろ知ってもらいたいらしいのよ。おじいちゃんも、おばあちゃんも」
「あ、うん……わかった。いってらっしゃい」
祖母は、抗がん剤を点滴しに行くのだな、と思った。
大腸がん。
治療を2年ほど続けているらしい。その薬は、体調にもかなりの影響がでるようで、次の日は完全に寝込んでしまうこともある。母は『ちょっと長くなりそう』などと言ったが、本当は、体調を考えてのことなのだ。そして、たまたま今回は、田んぼの予定と重なってしまったようだった。
――よし、頑張ろう。なにを手伝えばいいのか、いまいち分からないけど、でも、わたしはおばあちゃんの代わりに働くんだ。
わたしは、働くことは初めてではない。15歳までは、父と一緒に働いてきたのだ。久しぶりの『仕事』である。なにか懐かしい感覚を思いだし、どことなく浮き立つような気分になった。おじいちゃんとおばあちゃんにも、かっこいいところを見せてやりたい、そんなことを考えた。
まずは、食事だ。身体を動かすならば、食べておこう。そんなことを考えると、箸と口が、勇ましく動きはじめた。
「あ、そうだ」
と、母が思い出したように言う。
「うん? なに」
「軍手も、忘れずに持って行きなさい。手を怪我しないように」
「分かった!」
3
「はあ……、うあ、はあ……、もう、だめ……」
わたしの足は、喋れるわけではない。だからわたしは、足の代わりに弱音を吐いているだけなのだ。まったく、なんて貧弱な足なのだろう。すこしぬかるんでいるだけの地面にもつれてしまったり、たかだか30分ほどの作業で、膝はかくかくと笑いはじめるし。
「うあ……、ううあ」
やはりこの声は、勝手に口をついて出てくる。ということは、わたしは自分の意思で弱音をはいているわけではないのだ。だからわたしは、へこたれている訳ではないのだ。
――って、そんなわけ、ないでしょ。
弱音も、言い訳も、ふがいない身体も、すべて自分のものだった。
一体、これのどこが『かっこいいところ』なのだろう。わたしは自分の貧弱さに情けなくなり、せめて、口だけは堅く閉じていようと思った。
しかし、遅かったようである。「ははっ、ははは」と、祖父が笑った。
はじめて祖父に会ったときの印象は「気難しそうな人」だったのだが、最近はそれもなくなった。なかなかよく笑う人である。さらに今は、心底面白がっているようで、「もう休めよ」と言う声が、まだ笑っている。
「や、やれるし……」
わたしは羞恥心で顔が赤くなるのを感じた。
先ほどから、わたしがしていることは、本当に、本当に単純なことだった。
わたしが田んぼを訪れたとき、地面いっぱいに、60~80cmほどの長さの『ワラ』が並べてあるのが見えた。これは、収穫が終わって、機械によって刈り取られた『稲の茎』である。これが地面に、びっしりと並べて乾燥させてあるのだが、わたしの仕事とは、これらを拾って、束ねて、その場に置く。これだけだった。
最初は加減が分からなくて、
「え? 束ねるって、どのくらいの量にまとめればいいの?」
「そうだなあ、ふとももとか、首くらいの太さくらいでいいかな。だいたいでいい」
尋ねてみると、こんなことを言われて、そのとおりにまとめた。
そして、わたしが束ねたワラを、祖父がいくつか集めて、ひもで縛って、さらに大きなひとかたまりにしていく。その大きなかたまりは、わたしの胴が、2人分ほどの大きさにもなる。
そんな分担作業を、たんたんと進めていた。
仕事量としては、明らかに祖父のほうが多いはずなのだが、わたしはぜいぜいと息を荒らげ、祖父は平然と手を動かし続けている。体力の違いに、愕然とするばかりである。
そして、想像以上に過酷な仕事だった。
疲れの大きな原因は、『地面』である。わずかに水分を含んでいるせいで、地面は粘土のような感触なのだが、歩くたびに、わたしの体力をどんどん吸収していくのだ。さらにこの地面は、何日か前、稲刈り機が入っていたようで、キャタピラーの痕が残っている。でこぼこで、歩きづらくてしょうがない。もうひとつ言うならば、長靴が重い。
少し歩いて、しゃがんで、立ち上がる。また少し歩いて、しゃがんで、立ち上がる。これを繰り返しているだけで、みるみると消耗していくのだ。
気温は、28度ほどだった。
最近の気温を考えれば、そこまでは暑くはない。空も曇っている。しかし、汗が止まらなかった。おでこから滴ってきた汗が、目に入る。「い、たたた」と思わず悲鳴をあげて、手で拭おうとするのだが、軍手は泥だらけ、長そでのジャージは、ワラやホコリまみれで、どこで拭いたらいいのか分からない。わたしは、小さな絶望感に襲われた。
わたしが困っていることをすぐに察した祖父は、「トラックに新しいタオル入ってるよ」、と言った。
「うん、つかう」と返事を返して、いったん作業をやめ、片目をつぶったまま、軽トラックへと向かった。
目が痛くて、すぐにでもふき取りたかったが、走る元気もなかった。
汗を拭きとって、スッキリ。
タオルを首に巻いて、作業をすることさらに30分。わたしの顔が、ぽつ、ぽつ、という雨粒を感じた。
「はあ、はあ……あれ、雨」
「あ? ふっていめよ」
――ふっていめよ、とは、ふってないでしょうよ、という意味だ。祖父の言葉には、すこしなまりが入っているのだが、わたしは最近になって、ほとんどの意味を覚えた。
「でも、ほら、……ぽつぽつって」
わたしが言うと、祖父は顔を上げて、天をみた。
「……あぁ、ほんとうだ。じゃあ、出来たぶんだけでもトラックに積んじまうか」
作業の進行状況は、1割ほどだった。田んぼの面積が大きすぎて、進んでいるような気がしない。
それにしても疑問だった。「この仕事はいったい何なのか」、「ワラをこれからどうするのか」、「雨に濡れるとどうまずいのか」、分からないことばかりだが、尋ねる気力もなかった。必要なことだけをすれば、あとは余計である。いまは、余計な体力を使う気になれなかった。
「はあ、ふう……。じゃあ、わたし、次はなにをすればいいの?」
「マニュアル、運転できっか?」
「えっ?」
「マニュアル車だよ、クラッチ、運転できっか?」
「あ……あの、わたし、なんにも運転できない……免許もってないし」
「……ああ、そうか」
祖父は思い出したように言って納得し、「まあいいや、ワラ、荷台にのせんべ」と言いながら、地面に転がしてあるワラのかたまりを、無造作に持った。そしてわきに挟んだかと思うと、もう1つを持って――、さらにもう1つ――。あっというまに、4つのかたまりを持ち上げて、歩きはじめた。
「……」
いかにも高齢の祖父らしいすっとぼけたことを言った直後、信じられないほどたくましい動きを見せたため、わたしは言葉を失った。感動すら覚えた。「よし、やってやろうじゃないの」と対抗心をもやし、1つ、かたまりを持ちあげて、そして2つ目を――、
「ぐ、ぎいい……」
しかし、かなり、重かった。
わたしが貧弱なのは自覚しているのだが、せめて2つくらいは持ち上がるだろうと思っていた。思っていたのだが、持ち上げてから5秒ほどで、あっけなく両方を落とした。さすがに2つは諦めて、両手で抱えるように、1つだけを持ちあげた。
「はあ、ああ……はあ、ああああ……」
軽トラックまでは、30メートルほどだ。
遠い。地面がでこぼこで、柔らかくて、歩きづらい。歩けば歩くほど、無駄な体力を消耗する。この長靴も、さっきより重い。
ふと祖父をみれば、4つのかたまりを持ちながら、堂々とあるいていく。さすがに汗はだらだらと流しているが、疲れを感じさせない。
「な……なんで平気なの、おじいちゃんは……さいぼーぐなの……」
「はは」
わたしの声が聞こえてしまったのか、祖父がトラックの荷台にかたまりを積みながら、小さく笑った。
7、8往復ほどしたところで、軽トラックの荷台がいっぱいになった。
「よし、出っか」
「はぁ、はぁ……う、うあい」
祖父が運転席へと入ったのを見て、わたしも助手席へ入り込もうとするが――、腕が重くて、ドアを開けるのに苦労した。さらに足は、ぷるぷると震えていた。意識も散漫だった。必死の思いで車に乗り込むときに、頭を、ごん、と入口にぶつける。
「あぐっ……うう」
頭をおさえて呻いていると、祖父は、250ml缶のサイダーを、目のまえに差し出してくれた。
「飲め」
どこから取り出したの? などと疑問に思う前に、それを掴んでいた。
「あ、ありがとう」
と言いながら、すでに泥だらけの軍手でふたを開けはじまっていた。中に入っている液体を想像すると、この手は勝手に動き始めていたのだ。夢中で口をつけると、缶を傾ける。流れ込んでくる液体は、思っていたよりも冷たかった。「どうせぬるいんだろうけど」、と高をくくっていただけに、感動的だった。乾いた喉が、一瞬でうるおう。炭酸飲料の一気飲みなど、生まれて初めての経験だったが、炭酸の痛みよりも、のどの渇きのほうが勝っていた。ごくごくごくと飲んでから、「うううう」、と呻き、そしてまたごくごくと飲み干す。「ぷああああ」と、つい、テレビのCMで聞くような声をあげてしまう。お腹もいっぱいになってしまった。
軽トラックのフロントガラスに、小さな雨粒が落ちるのが見えた。ガラスにはホコリが覆っていたため、雨粒の黒いしみが、次々に生まれていった。車のエンジンがかかると、ワイパーも動いた。ホコリと雨粒が、ぐしゃっ、と混じった。
軽トラックは、畑に設置されているビニールハウスへとやってきた。雨は依然として、強まることも、止むこともない、わたしたちの反応を伺っているような降りかたをしていた。
「これを、並べていくんだよ、中に」
と祖父は言いながら、見本だ、というように、荷台から降ろしたワラのかたまりを、ビニールハウスのなかに運び、横倒しに置いて、並べていった。
「わかった」と返事をして、わたしもワラのかたまりを1つ降ろし、祖父が置いたワラの隣に、並べるように置いた。
「そんな感じで頼む」
地面が固いというのは、なんと歩きやすいことだろう。などと感心しながら、わたしはワラを運んでいった。田んぼの中よりも、明らかに体力の消耗が少ない。さきほどの軽トラックでの移動中、じっとしていたおかげもあってか、いろいろと余裕がでてきた。
「ああ、雨やんだわ」
と、祖父が言った。
「あ、ほんとだ」
見上げると、真上のあたりは雲が透け、青い空が見えていた。遠くのほうを見やると、黒い雲を発見した。しかし、なんとなく、こっちには来ないんじゃないかな、と思った。
さっきまでは、空を見る余裕もなかった。「こんな空だったのか」などと、いま気がついたというように、呟いた。
祖父と2人で、すべてのワラを降ろしきった。すると、
「よくやってくれたから、もう帰っていいよ」と祖父が言った。
「……」
わたしは一瞬、返事に迷った。甘えそうになってしまったのだ。
しかし、仕事の進行状況は、たったの1割ほど。正直、帰りたくて仕方がないが、わたしが帰ったら、祖父は、ひとりであの続きをすることになる。それはとても残酷だ。それに、このタイミングでお役御免を伝えてきたということは、もしかして、ふがいないところを見せてしまったせいかもしれない。
「や、やるよ、わたし。疲れもふっとんだし」
と、すごんでみせると、祖父は苦々しい顔になり「まあ、おまえのことも、大事なんだよ」と、言った。
気持ちはとても嬉しかったが、わたしも負けていられなかった。「わたしだって、おじいちゃん、大事だし」と伝えると。
祖父が笑いながら、「じゃあ、乗れ」
「うん!」
それからわたしの記憶は、あいまいになる。
粘土のような地面。そのうえで、立ったり、しゃがんだりを繰り返し、ワラを集めて、かたまりにする。やっていることはさっきと変わりないのだが、ますます体力に余裕がなくなる。ただただ、勝手に口をついて出てくる呻き声と、全身の疲れだけを覚えている。座って休んだりもした。たまに大きなワラのかたまりを持って歩いたり、たまに汗が目に入って悲鳴をあげたり、たまに転んだり。壮絶な午前中だったように思う。
わたしを支えているものは、ただの気力だけだった。「わたしが頑張れば頑張るほど、おじいちゃんは楽ができるはずだ」と、それだけを考えていた。
4
昼の12時すぎ。
わたしは、泥だらけの格好で、家の玄関を通ってすぐの、あがり口でぐったりとしていた。
さきほど祖父と、「もう昼だし、いったんやめんべ」「……ふああい……」という会話があった。
扇風機の風をあびていると、火照った体に快感が走る。全身が歓声をあげているようで、気持ちよかった。そんな状態でしばらく休憩していると、玄関に、母と祖母が現れた。
「まぁ、これはこれは……」
と、母が、関心したような、驚いたような、なにか立派なギフトでも頂いてしまったときのような声をあげた。
「あらあー……」
と、祖母も同じように、目を白黒させて驚いて、それから笑い、「あー……びっくりした。どこの犬があがりこんだのかと思った」と言った。
2人は、わたしの汚れた姿に驚いたのもあったのだろうが、言葉の意味は別のところにもあったようだ。どうやらわたしは、長靴を片方だけはいたまま、玄関を上がっていたようである。そんなことに今さら気がついて、
「……ああああああ! ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
焦って、謝る。しかし、
「いいよ、いいよ」と、祖母が言い、よっこらせ、と玄関から上がってくると、わたしの長ぐつを取ってくれた。
「あ、ありがとう……、ごめんなさい」
「ありがとうも、ごめんなさいも、こっちが言いたいよ。こーんなに顔を汚すまで働いて。おじいちゃんにも注意してあったのに。こりゃ、おじいちゃんは罰として昼ごはん抜きだなあ」と、祖母は、キョロキョロとして祖父を探すような素振りをした。
「え、や、だ、だめだよ、おじいちゃん、帰って休めって言ってくれたけど、わたしがやりたいって言って……」
焦り、祖父のフォローをすると、祖母が破顔した。「えっへへへ」と、快活に笑う。
母も苦笑いしながら靴を脱ぎ、玄関から上がってくる。
「なにか食べたいものがあったら、今のうちに言ってね」
と言いながら、母はキッチンへとむかった。祖母もそのあとに続く。
「えと……、いまはわたし、あまり食べられないと思うし、別に……」
わたしもふらふらとしながら立ち上がり、床を拭くために雑巾を探した。
食事は、やはり喉を通らなかった。牛乳をコップ1杯、飲み干すので精いっぱいだった。テーブルの正面に座っている祖父は、やまもりのご飯、バラ肉と野菜のいためもの、きゅうりの漬け物などを、次々と胃袋にはこんでいった。
わたしはそれを、関心しながら見ていた。
ゴロゴロ、という、重たい音が空から聞こえてきた。いつのまにか空は、暗くなっていた。
食事をおえた13時である。
「やっぱり、午後はむりだな」と、祖父が言った。
「昨日のうちに、はじめておけばよかったんだよ」と、祖母が言う。
「だってよお、昨日じゃまだ乾いてんめよ、湿っててよ」
「これからもっと湿る」
「まあ、どうしょうもねえな」
こんな会話のあと、「シャワー浴びろよ、もう今日はおしめえだ」と、祖父がわたしに言った。
「あ……うん」
そういえば、朝の天気予報で、「午後の大気は不安定に――」などと言っていたかもしれない。わたしも、「雨ではしょうがないな」と思った。
しかし、あのワラの量。仕事は全然終わっていないのだ。
作業は3割ほどが終わった。しかし、うちの田んぼは、同じ面積ものが、もう1つある。つまり、全体でみれば、ほんのわずかにしか進行していないのだ。それを祖父は、1人でやるつもりなのだろうか。祖母の体調が良ければ、2人でやるのだろうけども……、それにしても、こんな暑いなかで、あの2人にやらせてしまっても、いいのだろうか。
わたしの心のうちも、どんどん曇っていくようだった。
「おじいちゃん」
「ん?」
「あれって、乾燥させてたんだよね、だいじょうぶなの?」
「んだ、こういうときもある」
「ふうん……。あの……続きをやるとき、わたしもやるから」
そう伝えてみると、「ふ」と、祖父が小さく笑った。そして、
「これは体験学習、ってやつだ。もう、やんなくてもいいよ」
「でも、あんなに大変な仕事、おじいちゃん達だけじゃ……」
「おれも、5歳のころからやってたけどなあ」
「ご、5歳のころからっ?」
「んだ。あー、もうそろそろ、おしめえだし、気にしないでいい」
――おしめえ。お終い。どういう意味なのか、具体的に聞くのは怖くなり、わたしはさっきの話に戻そうとした。
「……で、でも」
「いいから、シャワー浴びてこい」
「……うん」
釈然としない思いのまま、わたしは踵を返した。
「ありがとうな、今日は」
と、わたしの背中に声がかかった。振り向いて、答える。
「わ、わたしも……た、楽しかったよ!」
「はは、そりゃ」
祖父は、そりゃ、で言葉を切ったが、そういう癖があった。「そりゃ良かった」とか、「そりゃなによりだ」という意味だ。そういう些細な癖を、理解できればできるほど、わたしもこの家族の一員なのだという実感が湧いてくる。
「うん!」
脱衣所へとやってきたわたしは、さっそく上着――ジャージを脱ごうとした。しかし、腕が上がらない。それでもむきになって脱ごうとする。
「ううううんぬうううううう」などとムキになって声をあげながら、ジャージを持ち上げようとするが、だめだった。汗でべとついた不快なジャージは、肌にはりついている。なにより、腕の力が足りていないのだ。思った以上に疲労がたまっているようだった。
なんとか脱ごうと奮闘していると、膝が、またがくがくと震えはじめた。崩れるように座り込んでしまう。
「……お、おかあさーん!」
助けを呼ぶことにした。「はーい?」と、キッチンから返事が返ってくる。
「ちょっと、きて……」とわたしが言うと、母は、タオルで手を拭きながら現れた。不思議そうな顔をしている母に、「ごめん、服、ぬがして」と伝えると、
「ぶっ」
失礼なことに、母は噴きだした。
「あの……上着だけでいいんだけど……」
「はははっ、ははははははは」
大笑いである。母はツボにはまったらしく、笑いながらジャージを脱がせてくれた。それを洗濯機のなかに放り込み、脱衣所を出て行ったのだが、そのあともひーひー言いながら、食器を洗いはじめたようだった。
「ば、ばかにして……」
わたしはそのあと、衣類をすべて洗濯機に放り込むと、なんとなく、中を覗き込んだ。
ホコリと泥で、汚れたジャージ、靴下。
そして、泥だらけの軍手。
全部、自分がやったものだ。
「……」
わたしは、それらを見ているうちに、腹の底から、なにか面白いものが込み上がってくるのを感じた。爽快感とか、達成感とか、それもあるが、何かの謎が解明できたような気持ちが、胸のうちを満たしていった。ふと、洗面台の鏡を覗き込む。ホコリや汗で汚れた顔が、やけにかっこよく思えた。自然と笑顔になってしまう。
ぶっ、あはは、ふふふ、あはははははは、と、キッチンから母の笑い声が聞こえてきた。鏡の中の顔が、だしぬけに冷静になった。むしろ、いらっ、とこめかみがけいれんしていた。
「……」
わたしは黙って浴室に入り、扉を閉める。それでも聞こえてくる笑い声を遮断するために、シャワーのグリップを思いっきりひねった。
「もうっ、ほんと失礼、お父さんそっくり!」
ぬるいシャワーを浴びはじめると、髪から溶けだした汚れが、みるみるとタイルに広がった。