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一話:ねこさんとの出会い


 その娘の世界は本当にちいさなものでした。


 普段眠るところは子供の足で十歩も歩けないような四角い部屋でしたし、そのまわりを囲んでいる庭も木が三本立っているだけの貧相なものでした。

 庭を取り囲むかのように建っている塀はぐるりと高く、こどもがいくら背伸びしてもその向こう側を見ることなどできませんでした。

 けれどこどもはそれを不思議に思ったことなどありませんでした。

 なぜならこどもはここで生まれ、ここで育ちました。

 ここ以外の場所があることも、ここがどのような場所であるのかも。

 まったくまったく、知らなかったのです。



 今はこどもはひとりでここに住んでおります。

 しかしほんの少し前までは「おかあさま」が一緒におりました。

 「おかあさま」はとてもやさしくて、いつもこどもの頭を撫でてくれました。

 やさしい声でいろいろなことを教えてくれました。

 ことば。文字。数の数え方。

 そして、身体が悪くなった時のなおしかた。

 こどもは小さなころから、すぐに心の臓が苦しくなったり、身体が熱くなって動かなくなってしまったりします。

 おかあさまもそうでしたが、こどものほうがその回数はうんと多いものでした。

 だからでしょう。

 「おかあさま」は、そのときの治し方やけがの治療の仕方などを丁寧に丁寧に教えてくれました。

 こどもはそんな「おかあさま」のことが大好きでした。



 けれどそんな「おかあさま」は、時折声を殺して泣いておりました。

 身体が熱くて苦しくてお布団に寝てぼうっとしているこどもの手を握りしめたまま、はらはら涙をこぼしておりました。

 そうして言うのです。


 ごめんなさい、ごめんなさい。

 わたくしのせいなのです。

 だれか、どうか。

 どうか……この子をお救いください。


 そんな「おかあさま」との別れは突然訪れました。

 それは、ある寒い日の早朝のことでした。

 こどもが目が覚めたとき、隣で寝ている「おかあさま」がぴくりとも動かなくなっていたのです。

 こどもはびっくりしました。

 どんなに呼んでもゆすっても起きてくれません。

 あんなにやわらかかった「おかあさま」の身体は、どんどん冷たくなっていって、そうして固くなっていきました。

 こどもは泣きながら、いつもごはんが差し入れられてくるちいさな扉に向かって叫びました。


 おかあさまが、おかあさまが動かないのです。

 だれか、おかあさまを助けてください。


  何度叫んだことでしょう。

  喉がひりひり痛み出したころ、ようやく扉の向こう側があわただしくなりました。

 そうして錠を開けて部屋に駆け込んできたのは、むかしからこの部屋に時折やってくる黒い髪に黒い瞳の男の人でした。

 「おかあさま」とほんの少しだけ面差しの似た男の人の顔は、今は紙よりも真っ白になっておりました。

  男の人は何も言いませんでした。

 ただ動かない「おかあさま」をゆっくりとした動作で抱え上げ、そうしてしばらくじいっとしておりました。

 こどもはそれをぽかんと眺めておりました。


  「おかあさま」はどうしたのだろう。

 なにがあったのだろう。


 けれどこどもにとってこの男の人はとても怖い人だったので、ざわざわする気持ちをぎゅうと押し込めて部屋の隅に座っておりました。

 やがて男の人は立ち上がり、「おかあさま」を抱えたままゆっくりと出ていきました。

 こどもも後を追おうとしましたが、そとに控えていた老婆によってばたりと扉を閉められてしまいました。

  男の人は最後まで、こどもには目もくれませんでした。




 そうしてその日から「おかあさま」はいなくなり、こどもはひとりになったのです。





 こどもはとてもとても弱い身体をしておりました。

 すこし風が冷たくなれば熱が出てしまいますし、おひさまが強すぎれば倒れてしまいます。

  心の臓は少しのことでばくばくと音を立てて苦しくなってしまいますし、指先にほんの少し傷をつくればなかなか血が止まりません。

 それは「おかあさま」が居なくなってからも同じことでしたが、「おかあさま」がいない以上、ひとりでなんとかするしかありませんでした。



 その日もこどもは少しばかり熱っぽくて、喉からは咳がこんこんと出ておりました。

 たべものは一日一回、腕がやっと通るほどのちいさな扉から差し入れられるので問題はありませんでしたが、お水は庭の井戸から自分で汲んでこなければなりません。

 こどもは薄い着物の裾をかきあわせ、こんこんとせき込みながら夕暮れの庭へ歩いて行きました。

  熱で頭がぼうっとしますが、こんなときは嫌でもお水を飲まなければよくはならないことをこどもはきちんと覚えておりました。

 ふらふらしながら桶に水を汲みましたが、しかしついにその場で地面にへたりこんでしまいました。

  息がとても苦しくて、胸を押さえて蹲ります。

  秋になり始めた夕暮れの風は冷たくて、薄い着物の上からこどもの体温をうばっていきます。

 けれどこどもは誰の助けも呼びませんでした。

 この場所にはいまは自分しかおりません。

  「おかあさま」がいなくなってからは、どんなに声を上げても泣いても、扉の「外」からは誰も来てくれないことはこれまでの経験からぼんやりと学んでおりました。



 だからこどもは黙ってその苦しみに耐えておりました。

 やがて心の臓が静まり、息の音がゆっくりと収まっていきます。

 そのときのことでした。

  自分の息の音ばかり拾っていた耳が、別の音をとらえたのです。


 こどもはそうっと身を起こしてあたりを見回しました。

 ぐっしょりと汗で湿った着物が冷えて、ぞくぞくすると身体が震えます。

 それでもこどもは耳をすまし、そうしてよろよろと歩きだしました。

 かすかな音は声でした。今にも消え入りそうな、けれども必死に絞り出された鳴き声でした。


 やがてこどもは音の主をみつけました。

  小さな庭のしげみの中、それは赤いものにまみれてぐったりと横になっておりました。


  「……ねこ、さん」


 こどもはかすれた声でつぶやきました。

  久しぶりに外に出した言葉はか細く、けれどもふわりと秋の空の下を流れました。

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