あじさい、アジサイ、紫陽花、あジさイ、アじサい、死養花
『あじさい、アジサイ、紫陽花、あジさイ、アじサい、死養花』
私はある日、世にも素晴らしい紫陽花を見た。
それは名前も知らぬ人の家の庭に咲いていた。
鮮やかな、赤だった。
恥らう乙女の頬のような、赤子を抱く母の乳房のような、幾人の男の口を吸った女の唇のような、女の始まりを告げる血のような、目標目指し汗水たらしながら日々を生きる女の魂のような、最愛の男を他の女にとられた女の纏う(まとう)炎のような、赤。
繊細で、艶やかで、可憐で、初心で、大らかで、気高く、醜く、美しく。
私はその紫陽花に目を、心を……胸の中で燃え続ける魂を奪われた。
人目も気にせず、飽きもせず、黒く冷たいフェンスを固く握りしめ。その向こう側にある庭で咲き誇るその紫陽花を見続けた。
この世にこれ程までに素晴らしい紫陽花が存在していたとは。例え稲妻がこの身を貫いたとしても、この紫陽花を見つけた時に受けた程の衝撃は受けまい。
脳や心臓……ありとあらゆる部分が熱を帯び、痺れと快楽をもたらした。
ああ、この紫陽花を何としてでも私の物にしたい。気がつくと私は、庭を背にして建っていた、立派な白い家の前に建っていた。その家の主に頼もうとしたのだ。この庭に咲いている紫陽花を少し分けて貰えないか、と。そして貰ったそれを私の家にある小さな庭に植え、毎日眺めるのだ。
私は人と話すのが好きではなかった。だが、あの紫陽花の為ならきっと何でもやってみせよう、そう思った。
何でもやってみせる。手に入れる為なら私は裸になって街中を歩き回り、指の爪を全て剥がし、屋根裏に住む鼠に口づけすることだって厭わない。
私は家の戸をノックした。その家から出てきたのは青白い顔をした男であった。あの素晴らしい紫陽花の主とは到底思えなかった。
「突然の訪問、誠に申し訳ない。……じつは貴方にお願いがあるのです。私に、あの庭に咲いている美しい紫陽花を少し、分けて下さい。自分の家であの紫陽花を育てたいのです」
そう言って庭の方を指差すと、何故か男は酷く体を震わせたが、私の願いを拒否することはなかった。男は家の奥からはさみを持ち出し、紫陽花の肢体を幾つか切り取った。それを見た時、私は痛い思いをさせてしまった『彼女』に対して申し訳ない気持ちを抱いた。同時に全身を駆け巡る、快楽。
男は私にそれを黙って差し出すと、そのまま家の中へと消えていった。
私は一言礼を言い、その家を後にした。
ああ、私の紫陽花! 紫陽花、紫陽花、紫陽花!
産まれて初めて感じた、喜び、幸福。熱くなった目から、火の様に熱いものが後から後から零れ落ちてきた。それは私の頬を、服を、手を、そして紫陽花を濡らした。
頬、乳房、唇、血、魂、嫉妬の炎! それら全てが今、私の手中にある!
私は喜び、家へと帰っていった。
しかしその喜びは次の年、すっかり消え去ってしまった。
調べた通りの方法で植えた紫陽花は、無事、花を咲かせた。だがその色はあの時みた世にも素晴らしい赤ではなかった。
汚らわしい罪人の骨のような、今にも死にそうな病人の肌のような、男の髭の剃り跡のような、誰かを誹謗中傷する歌を紡ぐ唇のような色の――青。
その醜い青に私は吐き気を催し、実際、吐いた。悲しみの咆哮をあげた。壁を、椅子を、テーブルを、蹴飛ばし、殴りつけた。
どうして、あの時のような赤にならないのだろう。土がいけないのだろうか、それとも何年も経たなければあの赤は見ることが出来ないのだろうか。
青、青、青、青! そんなものを誰が望んだというのか。私が望むのは、あの赤だ、あの時みた赤だけなのだ!
青が憎い、あの紫陽花を独占している男が憎い、私にこのような仕打ちをした神が憎い、何もかもが憎い!
ああ、一体どうすれば良いのだろうか。
絶望し、悩み、苦しむ私の耳にあるニュースが飛び込んできた。
それは、数年前行方知れずになっていた少女の白骨死体が、ある場所から出てきたというものだった。
その骨が出てきた場所を見て、私は驚愕した。何故ならそこは……去年私が紫陽花を貰った家だったからだ。しかもその死体は、あの美しい紫陽花の下に埋められていたのだという。
人々にとって、それは悲しくおぞましいニュースであっただろう。しかし私にとっては最高のニュースであった。
「そうか! あの赤は女の死体を埋めなければ出てこないのか!」
そうだ、そうに違いないと思った。女を思わせる赤は、女を以って産み出すより他無いのだ。何故そのような簡単なことに気がつかなかったのだろう!
私は本当に馬鹿だ。
その日の夜、私は神に感謝の祈りを捧げた。そんなことをするのは一体何十年ぶりのことだったろう。神は私を見捨ててはいなかった。
次の日、早速私は一人の少女を殺めた。白い封筒を手に持ち、ある家の前を行ったり来たりしていた娘であった。彼女の頬は赤く染まっていた。きっと彼女はその家に住んでいる少年に恋をしているのであろう。
美しい、そう思った。あれ程美しく染む頬を持つ少女なら、きっと紫陽花を赤くしてくれるに違いない。
誰にも気づかれず少女を殺すのは、そう難しいことではなかった。
私は少女の死体を乗せた車を急いで走らせ、家へ帰り、そして庭の地面を掘り起こし、少女を埋めてやった。少女よ、許したまえ……この私の幸福の為、その命を捧げておくれ。
夜、夢を見た。裸体になった少女から、養分を、赤を吸い取る紫陽花の夢を。
ああ、きっと上手くいく。今年は無理かもしれないが、きっと来年になれば、あの美しい紫陽花を再び目にすることが出来る。
それから一年後、再び紫陽花は咲き始めた。その花の色は、赤かった。だが、あの日見た色からは程遠い、つまらぬ赤であった。
どうやら、まだ足りないらしい。あのニュースでは庭の下から出てきた死体は一つと言われていたが、本当はそうでないに違いなかった。きっともっと多くの少女があの下には埋まっていたのだ。
今度は、可愛らしい赤子を抱く美しい母親を殺した。子供はその場に置いた……死んでいなければ、生きているだろう。
子を抱いていたその胸は、美しい赤色をしていた。
もう一人、埋めておくか。
次に殺したのは、街一番の美人と呼ばれた女であった。彼女によって骨抜きにされた男は数知れず、という噂は私の耳にまで届いていた。
その女の唇の赤さといったら、無い。艶があり、潤いがあり、愚かで哀れな男達の魂が幾つもついていた。何と美しい赤だろう。ああ、美しい……あの赤が欲しい。紫陽花の為に。
私はその二人の女を埋めた。
翌年。去年よりその花の色は赤くなっていた。だが矢張り、足りない。どこにでもある紫陽花等、私は欲しくない。
まだ足りないのか。もっともっと埋めなければいけないのか。
女になった少女、自分だけの店を持つことを目標にして身を粉にして働く女、婚約者を他の女にとられた女。
皆、皆、殺した。そして、紫陽花の下に埋めた。
相次いで女性が行方不明になっている……そんなニュースを耳にするようになってきた。そこで名前を挙げられている女は全て、私が殺した者達であった。
ばれれば、終わりだ。しかし幸いにも犯人の手がかりはつかめていない様子であった。
まだばれるわけにはいかない。あの紫陽花を再び目にするまでは。
しかし、何年経ってもあの色の紫陽花を見ることは叶わなかった。段々赤くなってきてはいる。しかし、私の求める色には、記憶に残っているあの花の色には、程遠いものであった。
「一体、いつになれば見られるというのだろう!」
紫陽花、紫陽花、紫陽花! 赤く咲く花!
罪が知られる前に、何としてでも見なくてはいけないのに!
最近、家の外から視線を感じる。私の罪に気がついた誰かが、私のことを見ているのではないだろうか? それとも色の素となった女達の亡霊が、いつか絶対皆にばらしてやると脅しているのだろうか?
外へ出るのが怖い。出た途端、刑事に捕まってしまうかもしれない。だが、女を手に入れるには外へ出なければならない。電話が、怖い。ベルが家中に鳴り響く度、悲鳴をあげてしまう。受話器をとったら、私の罪を問い質す声が聞こえてくるのではないだろうか、私は知っているのだぞと脅迫をする声が聞こえるのではないだろうか。電話の線を、切ろう。電話などいらない。私にとって必要なのは、あの紫陽花だけなのだ。
私は祈りながら外へ出、祈りながら女を殺める。もうこれで最後であって欲しい、私をこの想像を絶する恐怖や苦痛から一刻も早く解放して欲しい!
しかし殺しても殺しても、埋めても埋めても、紫陽花は私の思いに答えてはくれぬ。
地面に突っ伏し、泣き喚き、どれだけ懇願しても結果は変わらない。
やり方は間違っていないはずだ。なのにどうしていつになっても成功しない?
いっそ誰かに尋ねることが出来ればいいのに。だがそれは出来ない。
今日は、刑事に話を聞かれた。私が犯人だとはまだ思っていないようだが、ばれるのも時間の問題だと私は思った。
チャイムが鳴るだけで、心臓が止まりそうになる。近所の人が飼っている犬が吠えただけで、頭を猛烈に掻き毟りたくなる。TVを見ることが出来なくなってきた。私が犯した罪を、他の人間の口から聞くことに耐えられなくなったからだ。
「頼むから、私を楽にさせてくれ。君のこともすぐ楽にしてあげるから」
生まれつき頬が赤いらしい少女。今は全身真っ赤になっている。祈る様に刃を突き立てた。
ああ、なんて赤い……美しい、赤だろう。その色全てをあの紫陽花に分けてくれ。動かなくなった少女。きっともう楽になったろう。私も早く楽になりたい。
だがその思いは聞き届けられない。また刑事が来た。私のことを相当疑っているようだ。殺すか、いや駄目だ、こんな男達を殺しても何にもならない。きっとあの紫陽花を青くしてしまうだけだ。ならば一体どうすれば良い?
紫陽花、赤い紫陽花、紫陽花、赤い、赤、紫陽花、あじさい、アジサイ。
庭に咲く花の数より、埋めた女の数がずっと多くなってしまった。それでも紫陽花は理想の色にならない。
家の外から聞こえる笑い声が、怖い。やめてくれ、笑わないでくれ、私に何の恨みがあってお前達は私に恐怖を与えるのだ!
夢の中でだけ、私はあの日見た紫陽花に出会うことが出来た。しかしその姿は年を重ねるごとに段々ぼやけてしまってきている。あれだけ鮮明に覚えていたのに。私の庭にある紫陽花が私の求めた色になる前に、記憶から完全に『彼女』が姿を消してしまったら、どうしよう。嫌だ、そんなのは嫌だ!
秋も冬も、春も私にとってはいらないものになった。夏だけ、紫陽花が咲くあの季節だけが私にとって必要なものだった。
夏よ来い、紫陽花よ咲け、そして私にあの日の感動をもう一度!
刑事が。来た。
「――さんですね? 貴方を――逮捕します」
とうとうその日がやって来てしまった。
「嫌だ」
「何?」
「嫌だ、嫌だ、嫌だ! まだ私は紫陽花を見ていない! 見ていないんだ! 私に紫陽花を見せろ、あの日見た紫陽花を! 見せろ、見せろ、紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花、紫陽花!」
手を、足を振り回し『彼女』を求める私の体を刑事が押さえ込む。どうして邪魔をするのだ、やめてくれ、邪魔をしないでくれ、私と『彼女』の邪魔を頼むから、しないでくれ!
きっと後少しであの紫陽花は見られるのだ、そうだ、きっとそうだ、そうに違いない!
刑事は私を連れて行き、やがて紫陽花の下に埋めた女達を掘り起こしてしまうだろう。駄目だ、今は未だ掘り起こさせるわけには!
私の体を乱暴に外へ引っ張り出す刑事達。ああ、弱い私、逃げることも出来ない!
庭に埋めた紫陽花を私は見た。そして、驚いた。
今日の朝まで、つまらぬ色をしていた紫陽花が……あの時と全く同じ色に変わっていたのだ。
鮮やかな、赤だった。
恥らう乙女の頬のような、赤子を抱く母の乳房のような、幾人の男の口を吸った女の唇のような、女の始まりを告げる血のような、目標目指し汗水たらしながら日々を生きる女の魂のような、最愛の男を他の女にとられた女の纏う(まとう)炎のような、赤。
繊細で、艶やかで、可憐で、初心で、大らかで、気高く、醜く、美しく。
「おい、どうした」
刑事の間抜けな声。
私は笑った。心の底から笑った。涙や鼻水、よだれが後から後から出て来ても、笑い続けた。
やり遂げた、私はようやく『彼女』を自分の物にすることが出来たのだ!
息が苦しい。でも幸せだった。
「私は間違っていなかった! 間違っていなかったんだ!」
罪悪など、すっかり消えてしまった。恐怖も苦しみも何も無い。
私は満たされた。最後の最後に、満たされ、解放され、赦された!
「紫陽花、私の紫陽花! あはは、あっはっはっは!」
それから先のことは、何も覚えていない。覚えているのは、あの紫陽花の色だけである。
*
ぱたん、と男はある冊子を静かに閉じた。その表紙には金字で『Diary』と記してある。被っていた埃が、ぱらぱらと、同じく埃の積もった机の上へと落ちる。
最初の方はとても丁寧で綺麗な文字で書かれていたが、ページが進むごとに段々その文字は汚くなっていき、筆圧も強くなり、所々穴も空いていた。よく見ればペンでついたのか、表紙はぼこぼこになっている。
「……一体あいつは、何だってこんな物を書いたのだろう」
呟く男。あいつ……というのは今彼がいる家の主なのだが――数年前から行方知れずになっていた。事件に巻き込まれたというより、自らの意思で家を出た可能性の方が高いようだが、詳細は一切不明である。
ここに今いる男は、日記の書き手――家の主――の知人であった。
男はすっかり汚くなった窓を開け、外にある庭を眺める。その庭には紫陽花が植わっていた。空の様な、硝子の様な色をした紫陽花。雨の雫を受ければより一層美しくなるだろうと男は思う。
「あの紫陽花の下に……いや、そんなことは無いか。俺としたことが一瞬、馬鹿なことを考えてしまった。この日記帳に書かれていることは全て……妄想だというのに」
妄想。そう、全てが妄想で出来たものであった。
この街で女が次々と行方不明になった事実も、白くて立派な豪邸の庭の下に少女の白骨死体が埋められていたという事実も……この家の主が逮捕されたという事実も、無い。何もかも、無かったのだ。
「この日記に書かれていることに、真実なんて無い。……大体逮捕され、刑事に連れて行かれた時のことまで書いてあるって時点でおかしいし。いや、それ以前の問題か」
男は苦笑する。
現実に起きなかった事件のことが書かれている。その時点で、この日記は妄想の固まりであることが決定しているのだ。
では何故男はこんな妄想話を日記帳に書いたのだろうか。そして何故男は姿を消してしまったのか。男は今生きているのか、死んでいるのか。
(一生……分からないだろうな、理由なんていうのは)
「おい、お前は知っているのか。……紫陽花さんよ」
青い、青い紫陽花に男は問うが、勿論答えなど返ってこない。
家の主の行方を示す手がかりをつかめぬまま、男はその場を後にした。
最後に、日記帳を紫陽花の下に埋めて。
門を出、もう一度家を見る。庭に咲いている紫陽花が少し赤くなっていたような気が一瞬したが。
「気のせいだろう。……全く、あのいかれた日記のせいでこっちの頭までおかしくなってしまいそうだ」
全ては妄想、幻想なのだ。真実など少しも含まれてはいない。
男はその場を立ち去った。
家の主、日記を書いた男の行方が一生知れることは無かった。