三話目
キーンコーンカーンコーン…
「…うぅ…疲れたよ…アイスぅ…」
応接室に連れて行かれ、澪に抱き着かれながら詰問を受けると言う斬新な拷問を受けて帰ってきた時には、三時限目が綺麗に終わった頃だった。
一緒に教室に入って来たはずの澪は、さっそく自らの席である真ん中の一番後ろの席で机に突っ伏して寝てしまっている。
かくいう稲羽も同じような状態であり、一番窓際の真ん中の席で突っ伏している。ぐーすかといびきを掻きながら寝てはいないと言うぐらいの差しかない。
睡魔と疲労感は違う物なのだが、今この瞬間は疲労感に任せて寝てしまおうかと稲羽が思っていると、頭上から声が聞こえてきた。
「ちょっと滝宮さん? あなた、今の今まで授業を欠席とはどういう了見ですの?」
かなり上からものを言う、高圧的な印象を受ける少女の声。
その声に稲羽が顔を上げると、声の感じと喋り方、それら全てが思った通りを体現したような少女がそこに立っていた。
「ティアちゃんか…。ごめんね、僕今は君に構ってあげられないよ…」
「まあ、なんですのその態度! せっかくこのわたくしが話しかけてあげていると言うのに」
「ごめんねぇ…。澪ちゃんに付き合ってたらこうなったんだよ…暑いぃ…」
驚いたような声を上げながら、巻きに巻かれた銀色の髪を揺らす少女。やたらと芝居がかった動きだが、本人の雰囲気はそれを普通と思ってしまう雰囲気を持っているため、誰にも突っ込まれることがない。
普段の稲羽であれば、取り繕うかフォローでも入れるのだが、今の気温では到底無理な話。
机に向かって溶けるように体を投げ出した。
「おいロッテンベルグ。態々稲羽に絡むのは結構だけど、今のこいつにはこれが重要なんだぜ?」
「ん? 何を言ってますの?」
「おお、アイスだ!」
ふらりと現れた憲太郎の手に握られていたものを見て、溶けていた稲羽が一瞬にして塊を取り戻す。
その握られていたものの前はアイス。がじがじ君と呼ばれるクールソーダ味のアイスキャンディーである。
稲羽の好物、ベスト3に入る代物だ。
がっつくように奪い去り、袋を開けてアイスを口に頬張る稲羽。
そして、思い出したように口を動かした。
「ふぁ、ふぁりひゃとうね、へんひゃろうくん」
「何言ってるかは分からないが、多分感謝されてるんだろう。気にすんな! 俺とお前の仲じゃねぇか!」
グッとサムズアップしながら稲羽に向かって笑顔を向ける憲太郎。
この二人は悪友のような関係であり、幼馴染と言ってもいい関係でもある。
一方的に見れば餌付けをされている飼い主とペットに見えなくもない。
「んん!! わたくしの事を忘れないでもらえます!?」
これ見よがしに咳払いをしながら、銀髪の少女が自らの存在をアピールしてくる。
その行為に、稲羽たちは仕方なく顔を向けた。一応、稲羽はその口からアイスを離す。舐め続けてはいるが。
「まったく、このホワイティア・ロッテンベルグを無視するなんてありえない事ですわよ?」
「「へー」」
「…馬鹿にしてますの?」
「「いやいや全然?」」
「馬鹿にしてますわね!!」
「「いやいやそんな訳ないじゃないか」」
息ぴったりで言葉を返していく稲羽と憲太郎。
彼らほどの悪友レベルにもなればこれぐらいは造作もないのである。
そして、ものの見事に二人の投げやりな返しが癇に障ったのか、ホワイティアはキレた。
「ああもう! なぜあなたたちはそう適当なのですか!? ここは学び舎、学ばなくてなんとするのです!?」
「遊ぶ」
「姉ちゃんを愛でる」
間髪入れずに返された稲羽と憲太郎の言葉。
ホワイティアの言った言葉への返答のはずなのだが、こうも見事に性格と言うか、欲望が滲み出てしまうといっそ清々しいものである。
ドイツからの交換留学生と呼ばれるエリート的な立場にいるホワイティアにとって、二人の返答は望んでいたものではない。
予想の斜め上を全力で飛んで行ってしまうような答えである。
「何なんですのあなたたち! それでもこの学校の栄えある生徒なのですか!? 大体…」
キーンコーンカーンコーン…
ホワイティアの説教が始まろうかと言うとき、奇跡的と言ったタイミングで授業開始のチャイムが鳴る。
それを有効に使うため、稲羽は少しだけ心持ち大きな声で声を出した。
「あー授業だ」
「そうだな、俺は席に戻るわ。昼休み、飯一緒に食おうぜ」
「うん分かったー」
何とも綺麗な棒読みになってしまったが、それでも盛大に話の腰を折られたホワイティアにとっては効果的だったのだろう。
一言も発さずに自らの席のある一番前の席に行ってしまった。
稲羽の声に便乗した憲太郎も席に戻ってしまい、稲羽は必然的に一人になる。
だが、彼のいる場所、つまり2年2組の教室が静かになることはない。
それはなぜか。
簡単である。
「よーし、授業始めるぞー。教科書167ページから―――」
「姉ちゃん愛してるぜ!!」
「―――読んでもらおうか」
シュオオォ…
憲太郎の眉間に、なぜか湯気が出ているチョークが減り込んでいる。
その理由は至極単純。
授業をするために秋穂(担任でもある)が教室に足を踏み入れる。
↓
その姿に興奮した憲太郎(ほぼ中央の席にいるので目立つ)が席を立ち上がりながら告白。
↓
神速の勢いで放たれたチョーク(湯気の正体は摩擦熱)が憲太郎の眉間に突き刺さる。
↓
威力に耐えかねて憲太郎の体が倒れる。今ここ。
と言う流れなのだ。
そして、その流れの後に繰り広げられるお決まりの事がもう一つある。
「笠木、起きろ」
「………」
またも放たれた神速のチョーク。
この場にいる者すべてが誰も見えていない白い弾丸を、狙われた澪は寝ているまま素手で掴み取った。
そして、そこからは秋穂が持つ弾が尽きるまでその疑似出的な戦争は続く。
「おお! 今日は秋穂先生が押してるぜ!」
「これは今日こそオッズに変化が起こるわね! 倍率は幾つ!?」
「なら先読みで俺は笠木に賭けるぜ!」
「いや、それって先読みって言わないでしょうがアンタ。ま、私も笠木さんに…」
そのチョーク戦争(稲羽命名)を見ながら、クラスメイト達がそんな話で盛り上がる。
稲羽がいると言うだけで授業に出ている澪にとって、話しかける事も抱き着くことも出来ない授業は苦痛の何物でもない。
そして、それはつまり寝ると言う選択肢に澪を走らせるのだ。
秋穂ら教師は教える立場として、それは許せない。だが、澪に対してこんなことが行えるのは秋穂のみ。
だからこそ、このような阿鼻叫喚と言ってもいいぐらいの惨状が巻き起こるのだ。
授業を受けさせたい秋穂。授業を受けたくない澪。
起こすためだけに肩を鍛えている秋穂。無意識下での反応速度を極限まで高めた澪。
どちらが勝つのが当たり前なのかは全くわからないが、それでもこのチョーク戦争は続く。
「…はぁ…はぁ…1発無駄にしたのがまずかったな…。あの時に3連が放てたと言うのに…」
「そんな物騒なこと言わないでください秋穂先生」
「…仕方ない。今回は私の負けだ。諸君、君たちも寝ないようにな。君たちには笠木のようなことはできないだろう?」
肩で息をしながらそう忠告する秋穂。
息を整える最中に言われた台詞に、クラスの面々全員は揃えてこう思う。
―――アンタの授業では絶対に寝ねーよ。あんなの喰らったら死んじゃうもん―――
クラスの団結力が垣間見えた瞬間である。
だが、それとこれとは関係ないのが賭け事。
チョーク戦争トトカルチョに参加していたクラスの面々は、今回の結果に不平を漏らす。
「くっそー! 今回は秋穂先生の勝ちだと思ったのに!」
「やっぱり笠木さんは最強ね…『稲羽依存症』なのが勿体ないくらいだわ…」
「いや、そういうアンタも依存症でしょうが」
「え? そりゃそうよ。あんな可愛いもの、ほっとけるかってんですか」
真顔で言い放つクラスメイトの台詞に、稲羽は背筋に何かが伝った感覚を覚えた。
稲羽は容姿の所為と性格の所為で、全校女子生徒のある意味での人気者なのである。
それは、イケメンのような人たちに贈られる憧れのような羨望の眼差しではなく、獲物を狙う鷹のような眼差し。
ファンクラブはファンクラブでも、愛でる会と言うものが設立されていたり。ラブレターと言うより招待状だったり。バレンタインデーは送ると言うより送られる方を期待していたり。
まあ、要するに稲羽は、全校の彼氏にしたいランキングトップ1ではなく、全校のペットor彼女にしたいランキングトップ1なのである。
稲羽としては、幼い頃から色々と慣れっこなために諦めている節があるのだが、初めて稲羽と会う人間としてはかなり信じられないものではあるのだ。
「…まあ、トトカルチョに関しては不問にしてやる。私もモチベーションを維持する物でもあるからな。だが、今からは授業だ。私語は許さん」
床に散らばっているチョークを逐一回収しながら、それを待って来ていた袋に詰めていく秋穂。
その際に軽く宙を舞うチョークを見て、数人の生徒が体をびくつかせる。
トラウマになるほどの威力らしい。
「えー、話がそれたな。167ページから誰か読んでくれ」
「はい、ミス秋穂。わたくしが読みますわ」
手を上げたのはホワイティア。優等生らしく、こういう所では積極的である。だが―――
「滝宮、読め」
無慈悲にもほどがある一声が、威勢よく手を上げていたホワイティアの気分をそぐ。
「なっ! 手を挙げている生徒がいるのに、挙げていない生徒を指名するんですの!?」
「小さいことを気にするな。それに、こうした方が起きる奴がいるんだよ」
ニヤリとほくそ笑むように、秋穂はホワイティアの怒りの声を受け流す。
そして、顎を使って稲羽に対して早く読めと急かしている。
横暴極まりない秋穂に呆れながらも、稲羽は指定された箇所を朗読し始めた。
「えー、かの松尾―――」
「稲く~ん~」
「うわっ! れ、澪ちゃん、いきなり抱きつくのは禁止!」
「聞こえな~い。あ~、稲君は暖かいな~」
指定されたページを読み始めた瞬間、澪が起き出して稲羽の体に抱きつく。
その羨ましすぎる行為に、クラスの男子の視線が突き刺さる。
居たたまれない気持ちになりながらも、稲羽は必死に口と体を使って澪を振りほどこうともがく。だが、朝と同じでまったく抜け出せていなかった。
「よし、これで授業を始められるな。ロッテンベルグ、続きを頼む」
「なにか噛ませ犬みたいで気に食わないですわ…。で・す・が! わたくしが続きを読んで差し上げましょう。感謝しなさい、滝宮稲羽さん」
「…お言葉に甘えて感謝しとくよ、ティアちゃん」
プライドが高い人間は厄介である。何故なら、プライドが関与して口を出せないことが多いからだ。
だからこそ、今のホワイティアのような言葉で自らのプライドを黙らせなくてはならない。
そんなめんどくさそうなプライド関連の事柄に首は突っ込みたくないので、稲羽はただ普通に返した。
「えー、では僭越ながら読ませていただきますわ。かの松尾―――」
抑揚の利いた声で、どこの演劇だと言わんばかりにうまい喋り方で教科書に書かれた内容を朗読するホワイティア。
それをBGMにしながら、稲羽はふと空を見上げる。
稲羽のいる教室、2年2組の教室は校舎の3階にある。4階が1年生、2階が3年生、1階が玄関となっているために、以外と稲羽がいる場所は空に近い。
よく晴れた雲一つない快晴。その空を見上げていると、稲羽はその空の中にとあるものを見つけた。
それは鳥。大きく広げられた翼をはためかせながら飛ぶ鳥に稲羽は魅せられ、少し呆けてしまった。
「…あ…ぐぇ…」
魅せられてしまっては後は見るだけ。
その飛ぶ鳥をよく見ようと、秋穂にばれない程度に首を伸ばしてみようとすると、器用に稲羽の首が絞まった。
「い~な~く~ん~…」
見事と言っていいほどに、稲羽が動いた結果は抱き着いたままだった澪の手助けをしていた。
今まで、クラス中の視線が向いていたことに恐縮していた体が、他のものに気を取られて伸びてしまったのだ。
それはつまり、立っていた状態と同じぐらいになると言う事で、澪の体にぴったり収まるサイズになったと言う事である。
「ちょっ、澪ちゃん。今は授業中だから…」
「おい滝宮、笠木はそのままでいいから授業は受けろ」
「いや、秋穂先生、それは幾らなんでも無茶ですって」
「無茶でもなんでも、やれと言っている」
「さっすが姉ちゃん! その横暴さを、俺は愛してるぜぇぇぇ!!?」
右肩上がりとでも言うように、憲太郎の声が普通の少年には出せない様な高音に変化する。
まあ、所詮裏声と言う奴なのだが、それでもその音の変化は耳障り極まりなかった。
その証拠に、一本のチョークが憲太郎の額のど真ん中に突き刺さっていた。
「さっすが姉ちゃん…! 威力、はんぱねぇぜ…がくっ…」
とてもいい笑顔で倒れる憲太郎。
少し歴戦の勇者が「後は任せたぜ…!」的に前のめりに倒れたように見えた気がするのだが、それでも額に突き刺さったチョークの所為でシュールにしかならない。
「まったく、この愚弟はいつまでこんなことを続ける気だ…? ああ、すまなかったなロッテンベルグ。続きを…」
キーンコーンカーンコーン…
「…続きは次の授業にしよう。まあ、対して進まなかったが予習だけはしてくるように。今やってるのは文系では必ず出る問題だからな」
最後の最後にようやく国語教師のようなことをした後、秋穂は教室を後にする。
そして、秋穂が出て行った後の教室は、かなりのうるささを伴う。まあ、4時限目が終わりこれから昼休みと言う名の昼食タイムなのだから、うるさくならない方がおかしいだろう。
「ほら、澪ちゃん。お昼だよ、お弁当だよ、屋上だよー」
「んぁ? おお…今日も稲君の手料理が食べられるのか…これは夢か…?」
「何寝ぼけてるの。いつもの事でしょう?」
むにぃ…
「いひゃいいひゃい…いにゃくんいひゃい」
寝ぼけ眼のままの澪を起こし、自らの体からも引き剥がすために、顔の真隣にある澪の頬を引っ張る稲羽。
それだけならいいのだが、なぜか稲羽はむにむにとそのまま手を離さずに澪の頬をもてあそぶ。
―――むにむにと。
「いにゃくん? ごひゃんたびぇにゃいのきゃい?」
「…うん。食べるよ?」
むにむに。
「ひゃやくしにゃいとじかんなくにゃるぞ?」
「…うん。食べるよ?」
むにむに。
先ほどから稲羽は陶酔しきった表情で澪の頬を弄っている。
そして、むにむにと頬を弄られながら喋っているため、澪は普段では考えられない様な可愛い声を出しているのだ。
可愛いものが好きと言う稲羽の性格からして、中々に抜け出せない無限ループである。
「おーい稲羽、飯食おうぜ…ってまた入ってるんですね」
いつの間にか復活していた憲太郎が、稲羽に向かって声をかけた後、何かを悟ったように掲げていた弁当箱を下す。
ちなみに、この弁当は彼の母親製である。決して姉製ではない。
決して、姉製ではない。
「2回も同じこと言わなくていいよちくしょー! 俺だって姉ちゃんの愛情弁当食べてぇーー!!」
「うわ、いきなりどうしたのさ憲君」
「いや、何かバカにされたようなされなかったような感じがしたから叫んだだけ。って、ようやく戻って来たな稲羽。飯食おうぜ」
「あ、うん。屋上でいいよね?」
「おう、もとよりそのつもりだぜ」
下していた弁当を稲羽に向かって突き出しながら、憲太郎は笑顔で答える。
それを見た稲羽は、自らの弁当を取り出すために、大きめのカバンを取り出した。
そして、その中から出てくるのは計4つのお弁当。
色がそれぞれ違う、大きさもバラバラのお弁当箱だ。
「よし、これでいいね。じゃいこっか、憲君」
確認のために出した弁当を再びカバンの中にしまいこむ稲羽。そして、目的の場所である屋上に向かうために歩き出した。
その一連の流れを見ながら、憲太郎は細くため息を吐く。
「ほんっと、毎朝毎朝大変だなぁ…。4人分も弁当作るのってきついだろ? 俺ってば料理できないからよく分かんないけどさ」
「矛盾してるってことに気づいてね、その言葉。まあ、朝ごはんも作ってるから、そこまで苦じゃないよ。それに楽しいし」
少しだけうきうきした表情で、カバンを抱えながら歩く稲羽。
その隣に位置しながら、憲太郎はへーとかほーとか言いながら相槌を打つ。
そして、極めつけは稲羽の背後についている澪だ。
大きなカバンを持っていることから、澪はいつものように稲羽に抱き着いてはいない。
彼女なりの優しさなのだろうが、それでも微妙に怖い。ゆらゆらと、時折何かを抑えるように稲羽の背後にぴったりとついていれば。
だが、その光景は全校生徒や教師にとっても慣れたものなので誰も気にしてはいなかった。
―――逆に、抱き着かれてくっついている方が死傷者が出るくらいなのだから。
「あ、そうそう。双子ちゃんが待ってるのか? そう言えば」
「うん、今日も部活で早く出たはずだから…」
ガチャリ…
「あ、お兄ちゃん! 遅いよー! 羽月、もうお腹と背中が入れ替わっちゃったんだからね!」
「稲陽は背中とお腹が入れ替わっちゃったんだよ! 早くお弁当ー!」
稲羽が屋上に至るドアを開けた時、待ち人のそんな元気な声が聞こえてくる。
その声に稲羽は少し笑いながらも、屋上に足を踏み入れて待っていた二人のいるベンチに急いだ。
「ごめんごめん。月ちゃん、陽ちゃん」
「もう、今日は羽月のためにキムチ入れてくれたんでしょ!?」
「違うよ! 今日は稲陽のためにチョコ入れてくれたんだよ!」
「昨日はチョコ入ってたじゃん! だから今日はキムチ!」
「今日もチョコだよ! だって、昨日は晩御飯でキムチでたもん!」
「「ぐぬぬぬぬ……」」
売り言葉に買い言葉。ボケには突っ込みのように、素晴らしい速度で言葉を交わしていく二人の少女。
滝宮 羽月と滝宮 稲陽。どちらも稲羽と血を分けた、れっきとした血縁関係のある妹たちである。稲陽に関しては兄である稲羽よりも男らしい名前だが、彼らは全く気にしていない。
だが、稲羽としては妹に身長が追いつかれそうになっていることに危機感を覚えていたりする。
この二人は双子であり、羽月が姉、稲陽が妹になっているのだが、ほとんど大差がない。それに加え、稲陽は羽月の事を姉とは一度も呼んだことがないのだ。
どちらも兄である稲羽が大好きなお兄ちゃんっ子であり、性格もほとんど同じ。
だからこそ、言い合いになったとしても結局行きつく先は額をぶつけあって睨み合う事だけ。思考も同じのため、いがみ合う事が多々あるのだ。
それを生まれてこの方16年で学びきっている稲羽は、お互いの額をぶつけて睨み合う妹たちを引き剥がす。
「こらこらこら、喧嘩はダメだよ。今日はキムチ入れてるから、月ちゃんは満足でしょ?」
「やったー! キムチだキムチ! 絶対大根だからね!」
「分かってるよ」
双子であるために顔が全く同じである羽月と稲陽の見分け方はただ一つ。食事の味覚とサイドテールに纏められた髪の毛の位置だ。
羽月は右側に纏められたサイドテールを揺らしながら、稲羽に自らの好物の確認をする。
「ええぇー…お兄ちゃん、チョコはぁー?」
「陽ちゃん、昨日歯磨きした?」
「ギックゥ!」
羽月とは反対の左側に纏められたサイドテールが、稲陽の心情を示すように動く。
それを見ただけで妹のすべての答えが分かった稲羽は、意地悪そうに口を尖らせながら言った。
「やっぱり…。歯磨きしない子にはチョコを上げませーん。ってことでみんな、お昼にしよう」
「「「はーい」」」
「ああ…そんな殺生な…」
よよよと泣き崩れる稲陽を無視しながら、上機嫌になった羽月に赤色の弁当箱を渡す稲羽。
その弁当箱を受け取った羽月はさっそくその蓋を開け、歓喜した。
「おぉーー!! こ、これは大根の千切りをキムチにしたのか!? お、お兄ちゃん…なんと器用な事を…!」
キムチ漬けしてある大根の千切りに歓喜する羽月を横目で見ながら、稲羽は黒色の弁当箱を稲陽に手渡す。
それを手に取り、ふたを開けた稲陽は姉と同じように歓喜し、最底辺にあったテンションが最高潮に達した。
「おぉーー!! こ、これは揚げチョコじゃないか! 中はとろーり、外はサクサクッの感触をお弁当で!!」
ガッツポーズを作りながら、体をくるくるとまわしながら喜ぶ稲陽。
そして、お互いの嬉しそうな顔を見やった双子の姉妹は、歓喜のハイタッチを交わした。
「「いえーい!!」」
「座って食べなさい」
「「はーい。がつがつがつがつ…」」
完全に息の合ったやり取りで、お互い同じペースで箸を進めていく双子。
その妹たちの姿を見ながら、隣で今か今かと目を血走らせながら待っている澪に、一際大きな緑色の弁当箱を渡す稲羽。
「はい、澪ちゃん。今日のはチャーハンに酢豚、唐揚げに餃子の中華コース弁当だよ」
「おお!! さすが稲君だ! 何でも作れるのだな! いっただきまーす!!」
弁当にするべきものではないものばかりなのだが、澪は一切気にせず、かなり大きな弁当箱に盛られた中華料理の数々を平らげていく。
「…いつ見ても、すごい量食べるよな…笠木って」
今までのやり取りをすべて見終わった憲太郎が、ようやく呆れながらも発言する。
もくもくと同じペースでまったくずれない双子の食べっぷりと、普通の弁当箱3個分はあろうかと言う大きさの弁当箱に入った料理を片付けていく少女。
どんな人間でも一瞬引いてしまう光景だろう。
稲羽はそんな光景を見ながら、残された自分の用の弁当である青色の弁当箱を開け、中身を咀嚼していく。
そして、あっという間にその中身はなくなり―――
「「「ご馳走様でしたー」」」
「お粗末様でした」
「食うのも早いしよー、ここの女性陣は…」
憲太郎の言う通り、稲羽の目の前で弁当箱を片付ける女の子たちは、かなり食べるのが早い。
澪に関しては、ほぼ3人前だと言うのにも関わらず、五分程度しか掛かっていないのだ。
驚異的と言っていい早さである。
「お兄ちゃん、今日の晩御飯は中華だよね?」
「だってだって、澪先輩に作ったお弁当の中身が中華だもんね?」
「うん、その通りだよ。あのメニューを、もう少し豪華にする感じかな?」
「おお!それは期待だね、稲陽!」
「期待するしかないよね、羽月!」
稲羽の宣言にも似た言葉に、双子はガッツポーズを組み合わせて喜びを示す。
そんな妹たちの姿に、稲羽は笑いながら告げる。
「そんなに期待してくれるなら、腕によりをかけて作らないとね」
「…稲羽ぁ…お前の将来の夢ってなんだよ…」
何故かうなだれるようにしながら、稲羽にそんな問いを投げ掛ける憲太郎。
何が気に食わないのだろうか。
「分かんないよ、未来なんて。そういう憲君は?」
「姉ちゃんと結婚するこどはぁ!」
笑顔でサムズアップは、出来なかった。
どこからともなく飛んできたチョークによって、憲太郎の頭が殴られたように揺らぐ。
尋常ならざる威力だが、それを行った人物が誰かは分かっている。
秋穂だ。
いつものようにチョークを眉間に喰らって倒れこむ憲太郎。
双子としては、この学校に入学した当初は驚いていたのだが、今はもう慣れっこで逆に冷めた目を送っている。
キーンコーンカーンコーン…
「あ、予礼だ。じゃあ二人とも、そう言うことだから、勉強頑張ってね」
「「オス、であります!」」
予礼のチャイムが鳴ったことに、稲羽は回収した弁当箱を鞄の中に積めながら立ち上がる。
それを見送るように、自らも立ち上がって何故か敬礼する双子。
「んじゃ、いこっか。澪ちゃん、憲くん」
「稲く~ん、おぶって~」
「………きゅう…」
かなり対照的な二人の反応に、稲羽は苦笑いを浮かべ一人で歩き出す。
午後からは秋穂の受け持つ授業である国語がないために判断した、勇気ある決断である。
稲羽が屋上の扉を開け、そして閉めた頃には稲羽だけが共通点の4人の若者が残された。
「「「「………」」」」
顔を見合わせ(憲太郎は寝たまま)、数分。
2度目のチャイム、つまりは授業開始を告げる本礼のチャイムが、4人しかいない屋上に響いた。
感想等々待ってます。
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