第八話
「まあ――ふざけるのはそこまでとして、だ」
騒いでいた黄汀がスッとおちゃらけた空気を消す。
「どっちにしろ、お前が働けるのは今日までだろう。何せ初潮が来たんだしな」
「私に初潮が来たらなんだって言うんですか」
初潮初潮五月蠅いわ。
「お前……初潮の意味わかってんのか?」
「わかってますよ。子供が産める体になったって事ですよね?」
それが一体何だと言うのだ。
訝しげに見るヒキコさんをジッと見つめていた黄汀はため息をついた。
それは、心底呆れた色が混じっていた。
「まあ――とにかく、退職金だな」
そう言うと、電卓を取り出す黄汀にヒキコさんはハッとした。
退職金――それは、仕事の終わりを意味する。
確かに仕事を辞める事は覚悟していた。
いや、自ら仕事を辞めるつもりでいた。
けれど、それが現実的なものとなった今、どうしてこう胸が締め付けられるのだろう。
自分で選んだものだった。
自分で考え、つかみ取ったもの。
いや――本当にそうだろうか?
黄汀だって言ってたではないか。
普通なら誰もヒキコさんを採用しない。
それでも採用したのは、彼がヒキコさんを王妃だと知る上層部だったからだ。
つまり、結局ヒキコさんは自立しようと足掻いたものの、実際はこれっぽっちも泉王達の掌から動いて居なかったのだ。
鳥籠から飛び立った先は、更に大きな鳥籠だったという皮肉さにヒキコさんの目から涙が一筋流れた。
それまで金勘定していた黄汀がギョッとする。
「お、おいっ! 何泣いてんだよっ」
「黄汀さんには関係ないです」
関係ない。
そう――どうせこの気持ちなんて誰にも分からない。
いつかの自由を夢見て必死に頑張っていたヒキコさんを、きっと黄汀から話を聞いた泉王と上層部は笑っていたのだろう。
引きこもり王妃が無駄なことをしていると。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
そんな思いがこみ上げ、涙が止まらなくなる。
「な、なんで泣くんだよっ! むしろ喜ぶべきだろうがっ」
「何が喜ぶですかっ! 嬉しい事なんて一つもないのにっ」
「ないって……」
「ゆ、唯一、が、頑、張って見付け、た、仕事さえ、結局……」
結局……そう、結局――
「バカな王妃がバカな事をするのを防ぐ為に監視する為だったんでしょう!」
他の事情を知らない者が雇って王妃とバレるのを防ぐ為に黄汀が雇った――そう考えれば全て筋道が通る。
というか、それしか考えられないだろう。
黄汀がヒキコさんを雇う理由なんて。
何かあった時にすぐさま処理が出来る様に自分の手元に囲い込んでおく、為だ。
今まで築いてきたものが壊れていく音が聞こえた。
いや、そもそも築き上がってさえいなかった。
なぜなら、その土台自体が幻にすぎなかったのだから。
「ヒキコ」
「触らないでっ」
パンっ――!!
叩かれるように払われた黄汀の手。
ハッと我に返ったヒキコさんの耳にそれは響いた。
「長! な、きさま何をっ」
感情が高ぶっていたせいだろう。
普段は頑張らなければ存在感零。
誰の目にも入らず、気づかれず、スルーされるヒキコさんの姿を確かに彼は捕らえた。
高ぶった感情が、ヒキコさんのどん底値である存在感を他者の目に映るものとする。
振り返ったヒキコさんの目に、その相手の姿が飛び込んできた。
「貴様! この方を誰だと心得る! 貴様の様な女が触れて良いお方でもなければ、ましてや手を振り払うなど――」
地位は下級――しかも新神の参謀。
思い込んだら、というか思い込みが激しく厄介な性格の彼。
貴族の息子として甘やかされていた経緯も原因の一つだろう。
仕事は出来るが、周囲を気にしない強引かつ我が儘な性格に加えて参謀長に心酔しきった彼は、とにかく自分以外の相手が参謀長に近づくのを激しく嫌がるほどだった。
当然、そんな心酔する相手を打ったヒキコさんなど彼にとっては敵でしかない。
「命をもって償え!」
相手が王妃とは知らないからこそ、いや、たとえ知ったとしても彼にとっては参謀長以外に重要な相手など居ない。
むしろ、王と王妹の仲にとって邪魔者でしかない王妃など抹殺してしまえば良いと常に声高々に叫んでいる一神だ。
彼の手がヒキコさんに伸びた。
「おいやめろ!」
まるでストーカーのように自分を追いかけ回す彼の手が、ヒキコさんに伸びる。
こうなる事を恐れて黄汀は、今までヒキコさんの居る時間にこの男が来ないように気をつけていた。
なのになんで今日に限って。
というか仕事はどうしたんだ――と言いたいが、仕事はきっちり終わらせてから来る。
それに、この男は参謀長とその部下達の連絡役の任を担っている。
もちろん奪い取ったのだ――手段を問わない方法で。
今までにも、参謀長たる黄汀に近づく相手にこの男は一切容赦しなかった。
しかし、黄汀の方は特にそれに対して何かするわけでもなかった。
むしろ五月蠅い蠅を追い払ってくれている、そのまま男も一緒に自滅すれば良いとさえ思い黙認していた。
誰がどうなろうと知ったことではない。
しかし……その怠慢が今の結果をもたらしたのだ。
男が、ヒキコさんを突き飛ばす。
建物の外へと。
貴族位は中の上。
それなりに名の知れた貴族の末っ子として、甘やかされてきた男。
どんな事だって彼の思うがままだった。
だから、彼は今回もその通りに振る舞った――ただ、それだけ。
「ヒキコっ!」
黄汀の伸ばした手が男の二撃目の暴挙を止める。
これ以上の事をすれば、この部下とも思いたくない男のクビは飛ぶ。
いや、もし許されるならば、彼の後ろ盾の事さえなければ黄汀が飛ばしていた。
「ヒキコ、待てっ!」
黄汀が今にも首を飛ばそうとする自分の腕を押さえつけた時、視界の隅に走り去るヒキコさんの姿を見た。
すぐに男を捨てて追い掛けようとするが、それを二本の腕が引き留める。
「長! どこに行くんですかっ」
「うるさいっ! とっとと離れろ!」
「嫌です長! 僕は、僕は――」
強い力が黄汀を押し倒す。
そのまま上にのしかかってきた男の瞳を見て吐き気がした。
唾棄したくなるほどに禍々しい情欲に染まった男の瞳。
完全にこちらを性の対象として見ているそれは、黄汀を弄んだ獣達と全く同じ。
黄汀の父を殺し、母を陵辱して殺した後、それを見せつけられて茫然自失の黄汀を奴隷として長年飼い続けた者達。
泉王率いる軍に助け出された後、黄汀自らの手で奴らを殺した。
肉塊になるまで切り刻んでやった。
けれど獣なんてそこら中に居た。
あの獣達を殺しても、新たな獣が黄汀に襲いかかってきた。
醜い劣情を押し付け、黄汀の意思も何もかも無視して――。
コ ロ シ テ ヤ ル
どす黒い殺意が浮かぶ。
今までは相手の後ろ盾が厄介な事もあって黙認していたが、もう我慢出来ない。
自分を汚れた目で見る男。
そして何よりも――いや、これこそが黄汀にとって最も許せない、もの。
オマ、エハ
カ ノ ジョ ヲ キ ズ ツ ケ タ!!
「長?」
愛しい相手の様子がおかしい事に気づいた男の手が緩んだその瞬間――。
「消えろ――」
鋭くも冷たい死の宣告が下された。
「イタ!」
「うぉっ!」
「どわぁっ」
「なんか当たった!」
「何?! 風?!」
沢山の神々で賑わう大通りに響く声。
それを聞きながら、ヒキコさんは笑った。
そう、誰も気づいてくれない。
少し力を抜くだけで、こうして誰も自分の存在に気づいてくれなくなる。
それは王宮でも同じ。
誰も気づいてくれなかった。
いや、そもそもそれを望まれていた。
気づかれない事、影の様にそこにあり、暗闇の中に潜みながら生きる事を望まれ続けた。
だから――昨日の様な事が驚きなのだ。
力を抜き、存在感皆無状態で帰った筈のヒキコさんに気づいた彼。
仕事を見つける為に存在感を露わにした状態で出会い、その後も仕事をする為に頑張って存在感を出し続けた状態で接してきた黄汀とも彼は違う。
そう――やはりヒキコさんが頑張って存在感を出し続けた状態で接する世話係とも、そして泉王とも――。
今まで、誰も気づく事はなかった。
何も頑張らない状態で、ヒキコさんに気づいてくれた事なんて。
でも、それももうどうでも良い。
それは希で、大半はヒキコさんの存在なんて気づかない。
それに今は、ヒキコさんの存在になど誰も気づかない方が良いのだ。
気づけば、ヒキコさんは無事ではいられない。
王妹を悲しませる悪魔のような王妃として、民達は怒り狂うだろう。
望んだわけではないのに。
たとえ選んだのがヒキコさん自身でも、決して彼女が望んで来たわけではなかった。
疲れた。
心の中に渦巻いていた思いが口から出る。
平穏なんてあっけなく壊れる。
唯一の居場所だったと思った場所さえ鳥籠で、常に自分は上層部に見張られていて、体は初潮が来たとかで具合悪くて。
しかも、突然現れた男によって外に叩き出されて。
もう、どこかに行ってしまいたい。
叶うはずの無い願い。
王妃として、あまりにも身勝手すぎる望み。
義務と責任ある地位、それも女性の最高位たる王妃が望んではならない思いをヒキコさんは心の中で叫ぶ。
そのままヒキコさんは走り続けた。
そうして、ようやく足が疲れて動かなくなった時、ヨロヨロとそこに倒れ込んだ。
二頭立ての馬がひく幌馬車。
『車』とは別に、泉国でよく目にする乗り物だった。
乗り手はおらず、馬ものんびりと草を食べている。
その荷台にヒキコさんはポスンと転がる。
「ちょ、ちょっと、休憩」
他に休める場所は――探せばあるだろうが、息が上がり苦しいし、何よりも足が痛くてこれ以上動けない。
というか、久しぶりにこんなに全力疾走した。
とはいえ、あれだけ走っても結局ヒキコさんは王都の外れにも到達していなかった。
王宮から逃げても王都からは出られない。
それは、ヒキコさんが鳥籠から逃げたその先が別の鳥籠であったのと同じ事。
ならば乗り物を使って王都を出れば良いとも思うだろう。
しかし――それは、ヒキコさんが王妃である限り無理だ。
王妃が秘密里に王都に降りている事さえ問題なのだ。
それが王都の外に勝手に出るなど許されることではない――普通ならば。
どうせ誰も自分の存在などいらないし気づかないのだから勝手に出ればいい――。
そう思った事だって何度もあった。
けれど。
けれど――。
ヒキコさんの脳裏に蘇る少女。
元は田舎の出身だった彼女は、夫が王になった事により王妃に祭り上げられてしまった。
それでも、自分の責務を果たそうとする凪国王妃。
ヒキコさんにとって、凪国王妃は彼女の理想の王妃だった。
王妃になるなら、凪国王妃のようになりたい。
そう――煉国から、元寵姫達と彼らの大切な者達を救い出した様な彼女に。
自身で考え、選択し、決断して凪国王妃――果竪は元寵姫達を助け出した。
もちろん、実際に多くの兵士達を討伐して王宮を陥落させたのは凪国国軍だろう。
しかし、殺されかけた元寵姫達の大切な者達を助け出し、抵抗すら考えられないほど痛めつけられた彼女達を鼓舞し、奮い立たせてその道を切り開いた。
そう――自身で考えること、選択する事、決断する事は、上に立つものの最低限の責務。
もちろん独断専行しすぎるのは悪いが、上が優柔不断では下の者達はどうして良いか分からなくなる。
そしてそれが最も求められる緊急時の時に、見事に果竪はそれを成し遂げた。
肉を切り裂いた感触に。
体に浴びた相手の血に怯える事なく――。
いや、怯えたのかもしれないが、それよりも大切なものを彼女は選び取った。
そんな、王妃になりたい。
引きこもる事を要求されたヒキコさんには決して無い道だけれど、それでもヒキコさんは願う。
いつの間にか微睡む眠りに落ちながら、心は懐かしい故郷に飛んでいた。
今ごろ、凪国王妃はなにをしているだろう?
自分の作ったお握りをいつも美味しい美味しいと食べてくれた、彼女は。
その姿に、誰かの姿が重なる気がしたが、既にヒキコさんの意識は眠りへと沈んでいった。
「で――」
目覚めたヒキコさんは自問自答するように呟いた。
「ここ、どこ?」
なんだろう?この牧歌的な風景は。
遠くに羊と牛がくつろいでいる姿が見えた。
どうやら寝ている間に王都を出て知らない場所に来てしまったようだ。