第四話
気づかぬ間の初恋は、やはり終わりもひっそりだった。
心配する将軍を強引に帰らせた後、ヒキコさんは一神部屋へと戻ってきていた。
「ごめんなさい……」
いつも神を怒鳴り散らす将軍の思わぬ優しさに触れた。
それは、この泉国で初めて受けた温かなもの。
この国に来て以来諦めていたものが、僅かとはいえ手に入った。
――それで良いでは無いか。
泉国王妃でいる限り、ヒキコさんは恋する事は出来ない。
普通の女性のように他の男性を好きになって、温かい家庭を築いて、子供を持つ――。
そうだ――世継ぎはどうするのだろう。
王妹との間には作れないし、間違ってもヒキコさんとは作らない筈。
いや、もしかしたら王妹との間には作るかもしれない――。
この神々の世界でも、高貴な、王族間では近親相姦で血統の濃さを維持してきた時代はある。
それに、王と王妹ならば民達も諸手をあげて喜ぶかもしれない。
普通なら、産まれた子供は王妃の子供として育てるが、きっとヒキコさんはその限りではない。
王妃の子にはしても、実際に育てるのは王妹だろう。
ヒキコさんはひっそりと後宮に居続ける事だけを求められる。
それは今までも、これからも。
その時、ずきんと下腹部が痛んだ。
え?と思った時には、その痛みはどんどん増していった。
「っ――!」
初めての痛み。
初めての状況。
不安が、恐怖がこみ上げた。
でも、ヒキコさんが呼べる名前はない。
ふと将軍の顔が浮かんだが、それもすぐに泡沫がはじける様に消えていく。
『柚蔭の作るご飯は美味しいね~』
笑顔で自分のご飯を食べている凪国王妃の顔が浮かぶ。
と、そこに誰かの顔が重なった気がした。
『おいしいよ、これ』
『おいしいの~』
笑って欲しくて、ただ一生懸命だった。
大切な、大切な――もう、朧気であやふやな記憶。
朝日が眩しい。
気づけば夜が完全に明けていた。
それを、ヒキコさんは床に蹲ったまま感じた。
コンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。
朝の支度と朝食を運びに世話係達が来たのだろう。
「どうぞ――」
何故促してしまったのか……。
自分の状況を理解した時には、既に扉が開けられていた。
「ヒキコ様、朝の――」
いつもは冷静な世話係達の驚く顔を、ヒキコさんは床に座り込んだままぼんやりと見上げていた。
倒れる前に、必死に手繰り寄せただろうシーツの上に座ったままのヒキコさんに、彼女達がわらわらと近づいてくる。
「誰か! 陛下にっ」
何が起きたのだろう。
何かとんでもない事が起きたのか。
しかもなんだか体がふらふらする。
体がぼぅっと熱く、それに下腹部もまだ痛い。
何とか立ち上がったヒキコさんは、足を伝うものに気づいた。
「え?」
ツゥ――と足首まで流れ落ちる紅。
紅い、筋が、そのまま床の絨毯へと染みこんでいく。
それを見た時、ヒキコさんは再び目眩を起こして座り込んだ。
自分の体に起きた変調をヒキコさんが知るのは、それから一時間後の事だった。
扉が閉まる音が聞こえたが、ヒキコさんは寝台の上で上半身を起こしたまま動けなかった。
女医により説明された内容が、頭の中でぐるぐるとまわっている。
初潮――。
月のものの一番最初のそれ。
女性に訪れ、それが子供を産める体になった事を知らせる合図。
今までヒキコさんには一度も無かった。
ある事は知っていたが、生きていくだけでも大変過ぎて考えが及ばなかった。
それに、既に女親も居なかった。
だから余計にヒキコさんにとっては衝撃だった。
しかしすぐに笑いがこみ上げる。
子供を産める体になったからと言って何がどうなるわけでもない。
そもそもヒキコさんが子供を持てる可能性など無きに等しい。
沢山の妃を持てる王とは違い、王妃は王一神しか夫を持てない。
他の国は違うかもしれないが、泉国ではそう法律で決まっている。
しかし王はヒキコさんとの間に子供を作る事などしない。
だから、女の体になってもヒキコさんにはどうでも良い事だった。
むしろ辛い現実を思い知らせるものでしかない。
そんなヒキコさんの前に、それは広げられた。
「これは……」
「王からでございます」
いつも通り淡々と告げる世話係が一神。
女医が去ってから間もなく部屋に入ってテーブルの上に綺麗に包装された包み箱を置いた。
そしてそれを開き、中に入っていたものを広げた。
他の世話係達は寝台を整え、服を用意し、朝食の準備をしている。
紅い、幾重にも重ねられた紅い衣。
華やかながらも清楚な趣きのある衣装はどこか可憐でもあった。
ただ、それを着るのが麗しい美姫ならば。
ヒキコさんには到底似合いそうもない。
何故これを自分に贈ったのだろう。
まさか嫌がらせ?
いやいや、いくら初恋が破れたからってこれではあまりにも悲観的では無いか。
そうだ、今は建国祭。
もしかして建国祭用として贈ってきたのだろうか。
けれど、王妃が出席する様な行事も催し物も何一つない。
「初潮のお祝いでございます」
「っ――」
王も初潮を知っている。
しかもお祝い?!
自分の体の秘めた部分まで筒抜けにされた羞恥に、ヒキコさんの体がワナワナと震えた。
けれど叫んだところでどうにもならない。
彼女達の主は王であってヒキコさんではない。
それに今までも彼女達はヒキコさんの事など無視し、淡々と決められた仕事だけをこなしていた。
誰も、ヒキコさんの事なんて思いやらない。
「今日の夜、王のお渡りがあります」
「へ?」
なんで、今日?
今まで三度とも、建国祭の時にヒキコさんの所を訪れた事などなかった。
この忙しい時期に、一体どうしたのか。
すると世話係の彼女がため息をついた。
ほぅっと、嫋やかな美貌に滴るような色香がこぼれ落ちる。
「私達もお止めしたのですがね。いくら何でも始まってすぐでは何も出来ませんもの」
そこまで言い、世話係の彼女はハッとしたように袖で口元を覆う。
次には、そんな事を言ったのも聞き違いと言わんばかりの無表情さでヒキコさんを見つめていた。
「ともかく、今日はこれを着て王をお迎えくださいませ」
そう言うと、世話係達は音も無く部屋を出て行った。
後に残されたのはヒキコさんただ一神。
「一体、どういう事?」
それに答えてくれる者は居ない。
いや、それよりも――。
「あ、今日仕事」
けれど、下腹部の鈍痛と体のだるさは酷く、また初めての経験に不安は続いていた。
「有給あるから……とにかく、連絡しないと」
といっても、文を出すわけにも行かない。
ヒキコさんが王都で仕事をしている事は誰にも内緒なのだから。
だからヒキコさんは体を起こすと、よろよろと浴室へと向かい体を清める。
その後、動きやすい服を選んで身に纏い、部屋の外へと出た。
しかし――。
「どこに行かれるのですか」
「っ」
昨夜――明け方を思わせる光景。
けれど、そこに居たのは将軍ではない。
上層部の子飼いである女武官が二神。
「どうぞ、お部屋にお戻りくださいませ」
「用件であれば、中にある呼び鈴を鳴らしてくださればすぐに世話係が参ります」
呼び鈴?
そういえば、そんなものがあった気がする。
けれど、世話係達の冷たい対応と、呼ぶ必要すらまず無くて、いつの間にか使わなくなっていった。
それに、たいていの事は一神で出来るように凪国に居た時に周囲に躾けられていたから。
自分を見つめる女武官達の視線に気圧され、ヒキコさんはすごすごと室内に戻っていった。
とてもじゃないが、あの二神を押し退けて外に出る事なんて出来ない。
それこそ王都まで追い掛けられる。
そうなれば、王都どの仕事までバレてしまう。
「一体何がどうなってるの?」
昨日の明け方といい、今といい。
今まで、見張りなど立っていた事はなかったというのに。
「おかしい、おかしいよ……」
何かが確実に変わっている。
それも、何か良くない方向に。
けれどその流れを止める術などヒキコさんにはなかった。
あまりの無力さにヒキコさんは扉を背にして座り込んだ。
そのまま、膝に顔を埋める。
「……」
ゆっくりと顔を上げたヒキコさんは室内へと目をやった。
後宮の離れにある一画。
忘れられた様な場所にある王妃の部屋。
寝室と居間、その他にもう一つという三つの続き部屋からなるそこは、浴室や洗面所、トイレまで備え付けられている。
普通に生活するだけならば、足りないものは何もない。
食事は三食外から運ばれてくるし、必要なものはヒキコさんが求める前に届けられる。
全ては、ヒキコさんをこの場所から出さない為に。
一つ一つの部屋も広く、運動不足解消とも言うべき泉付きの中庭までついている。
ここから出る事なく暮らせる。
欲しいものは何でも手に入る。
それこそ、高貴な生まれの姫君ならば何の不満も無くここで暮らし続けられただろう。
でも、ヒキコさんは姫ではない。
ただの元庶民で、望んで此処に来たわけではない。
いや、望んだ――竜胆を助ける為に。
竜胆を守りたかったヒキコさんが我が身を売り飛ばした。
そんな元庶民のヒキコさんにとって、この鳥籠は驚くほど豪奢だった。
でも、どんなに豪華でも恵まれていても、ヒキコさんが望んだものではない。
外に出たい。
帰りたい。
帰りたい――。
部屋の外に、王宮の外に。
そうして、王都まで出た。
でもそこで終わり。
それ以上の自由はない。
そして今、王都にさえ行けなくなりかけている。
「なんで……」
少しずつ狭まっていく。
広げていった自由が、あっという間に奪われていく。
来なければ良いのに、泉王なんて。
夫とは名ばかり。
王妹の所にずっと居ればいいのに。
初潮のお祝い?
冗談ではない!
来ないで、来ないで、来ないで!!
ワタシの数少ない自由を奪わないでっ!!
ヒキコさんは涙をぬぐうと呼び鈴を探し出して鳴らす。
そして訪れた世話係達に昼食はいらないと告げる。
いつもならそれで済む筈だが、今日ばかりは食い下がる世話係達を強引に下がらせた。
「仕事に行こう」
これから先どうなるか分からない。
それでも、ヒキコさんがこの国で唯一自分の意思で選んだ仕事だけはきちんと行いたい。
もしこれで最後になるとしても、自分の手で終わらせたい。
中途半端になどしたくない。
それが、ヒキコさんのなけなしの矜持。
そうして、ヒキコさんは窓の外まで彷徨く警備の隙を突き、王宮の外へと向かって走り出した。