第三話
お酒を飲んで全力疾走してはいけません。
酔いが回ってふらつきます。
そのまま頭でも強打すれば目覚めた時は川の向こうです。
とりあえず、最後だけは回避したヒキコさん。
お酒に強い筈なのに、将軍のせいでいらぬ全力疾走を強いられ体がふらつく。
そんなヒキコさんの後方には、壊れた扉が物寂しげに壁に立てかけられている。
「どこで飲酒しやがったこらぁ!」
「厨房」
王宮でお酒が入る場所などそこしかないので、ヒキコさんは誤魔化した。
というかさっさと帰って欲しい。
ふらふらと寝台の上に倒れたヒキコさんの耳にその舌打ちは届く。
「ちっ! ったく、酒が欲しいなら侍女に言えば良いだろうがっ!」
食事と入浴以外姿を見せない世話係にという事だろうか。
「とにかく、もう勝手に外に出るんじゃねぇぞ! 分かったか?!」
その後もギャアギャア言っていたが、酷い頭痛の前には全てが右から左に素通りする。
そんなヒキコさんに再度舌打ちした将軍が部屋から出て行った。
よし、これで眠れる。
明日も仕事だから早く寝なければ――。
「おいヒキコ」
ヒキコさんの方が舌打ちしたくなった。
嫌々ながらも目を開ければ、ヒキコさんの頭痛は五割増しになった。
「酒だ! 泉国の酒全種類用意してやったからもう外に出るなよっ」
二日酔で苦しんでいる相手に酒をプレゼントするバカ上層部。
いや、違う。
絶対に「これ飲んで更に苦しめ、そしてアル中でくたばれ」という意味だ。
ヒキコさんは真底凪国が恋しくなった。
明け方――。
空が青白んできた頃、ヒキコさんは目を覚ました。
遠くで花火の音が聞こえる。
建国祭は夜通し行われるのだ。
大量生産大量消費を行い、経済を回して風通しを良くするために。
この建国祭ではかなりの大金が動くとさえ言われる。
といっても、王妃としての仕事もなく、ただ部屋に押し込められるヒキコさんには詳しい事までは分からないが。
ただ花火の音に目が覚めてしまって眠れず、ヒキコさんはごそごそと寝台から降りた。
喉も渇いたし、とサイドテーブルの上にある水差しからコップに水をついで一気に飲み干す。
「ぷはぁっ」
思いの外喉が渇いていたのだろう。
三杯続いて飲み干したコップをテーブルの上に置き、ようやく人心地ついた。
「あ~、水飲んだら余計に目が覚めた……」
こうなるともう眠れない事は今までの経験から分かっている。
「散歩しよう」
部屋から出るな。
そう言われていたし、王妃が部屋から出ない事は常識ともされていたが、ヒキコさんはこれまでにもちょくちょく部屋を出ていた。
まだ外で働き出す前から。
自分の身に起きた不幸に嘆き悲しむ時期を経て、ようやく外に目を向けだした時から。
神気のない時間を見計らい、外に出る。
後宮の中央――王の隣室を賜る王妹とは違い、片隅に追いやられた王妃の部屋に他者の行き来はなく、更には警備すらもない。
それは、王妹の部屋付近に設置された厳重な警備と比べるまでもなかった。
警備の武官一神すら居ない王妃の部屋に続く道。
それは、行動で『王妃の存在が無価値である事』と示しているも同然だった。
もちろん直接的な指示は警備を司る長だが、泉国の最高統治者は王――。
つまり王がそれを認めているという事である。
それに最初は複雑な思いを抱きもしたが、所詮は王と王妹の為だけに宛がわれた傀儡の王妃。
ヒキコさんもまた王に対して愛情を持って王妃になったわけではなく、いつの間にかそれを当然の事として受け入れた。
それに今は、こうして自由に散歩に出かけられる状況に、むしろ良かったとさえ思う。
「って、あれ?」
ヒキコさんは仰天した。
扉を開けた瞬間、そこに居た相手に。
薄闇の中でも妖しく輝く麗しの美貌。
動きやすい服装を身に纏うこいつは――。
「何してんだよヒキコ」
「ナニシテンデスカショウグンサマ」
腕を組み仁王立ちする将軍に、ヒキコさんは静かに扉を閉めた。
「って、てめぇやっぱり勝手に外に出る気だったのか?! あぁ?!」
閉めた扉をこじ開けられ怒鳴られる。
普通なら隣近所への迷惑に罵声が浴びせられるが、哀しい事にここには隣近所は居ない。
美しい美姫溢れる後宮ならばまだしも、此処には王と王妹、そして王妃しか居ない。
そしてヒキコさんの居る場所は、後宮の外れであり、王達の寝室からも離れている。
またとにかく後宮自体が広いから、誰も駆けつけてくれ、な、い?
ヒキコさんは気づいた。
薄闇の中、長い回廊に等間隔で聳える柱の陰に見える神影の姿を。
「将軍、またストーカー居ます」
「バカかてめぇ。あれは俺の部下だよ」
「ですよね、男の娘ばかりですし」
「お前、薄闇の中にも関わらず遠くの男の娘判別は出来るのか」
当たり前だ。
だって男の娘の周りだけ輝いている。
まるでスポットライトでも浴びているかのように。
因みにヒキコさんの場合は、ライトのない闇部分だろうが。
「で、許可無くどこに行く気だったんだ?」
「散歩」
「誤魔化すくらいしろよっ」
どうせ誤魔化したってばれる。
将軍も普段は五月蠅い男のくせに、仕事となれば有能過ぎる一面を持つ。
ならばさっさと白状し、本当に隠したい部分を隠し切るのみ。
「ちっ……その様子だと、今までにも何度も出ていたようだな」
「出てました」
「認めるんじゃねぇっ! このバカヒキコ! 名前どおり引きこもってろ!」
名前どおりだとそれこそヒキコもりはしない。
なぜなら、ヒキコさんの本名は柚蔭だから。
「しかもこんな時間に散歩とかあり得ないだろ」
まあ確かに普通はあり得ないが、夜風を好む者ならばあり得なくもない。
「とりあえず部屋に戻れ」
「……」
ダメ元で上目遣い――ではなく、どうやったらこの将軍を出し抜き散歩に出られるかを考えていたヒキコさん。
しかし思いのほかガン見していたらしく、将軍が慌てだした。
「な、なんだよ! 見んなよっ」
ならばと目をそらせば、また怒られた。
「目ぇ逸らすんじゃねぇっ」
どっちだよ――。
なんて突っ込む気力もないヒキコさんに将軍がため息をついた。
「し、仕方ねぇな!」
そう怒鳴り、指を鳴らす。
途端に柱の陰の男の娘達が姿を消す。
「来いっ」
「え――」
腕を掴まれ、強引に歩かされる――廊下に向かって。
「将軍」
「し、仕方ねぇから付き合ってやる。お前があまりにも五月蠅いからな」
いや、一言も話しかけてないし。
「そんなに可愛い顔されたら――良いって言うしかねぇだろこんちくしょう」
なんか良く分からない事まで呟きだした将軍(頬を赤く染めて)に、ヒキコさんはドン引いた。
というか、この将軍は時々良く分からない事を呟く。
脳内でどういう妄想劇場が繰り広げられているのだろうか。
その美女顔が原因で、意中の女性に振られてやけでも起こしたか――。
ここで意中の男性と言わないヒキコさんは彼女なりの優しさ。
けれど、将軍は優しさの欠片もない力強さでヒキコさんを引っ張っていく。
「ちくしょう――先に見つけたのが俺だったら――いや、そうしたらあいつも」
危ない神には近づいてはなりません――そう告げたのは、凪国の侍女長様。
もしあの方がここに居たらどうなるだろう――。
『お~ほほほほほほ! 地面に這いつくばり私の靴を舐めるがいいわこの愚民どもっ!』
色々な意味で通報レベルになるだろう。
いや、その前に泉国の全国民が奴隷化されているかもしれない。
そうしたら通報も何もないから問題ない。
いっその事、明燐様が泉国王妃ならば良かったのに――。
そうすれば自分の様に捨て置かれず、むしろ凪国と泉国の架け橋となっていたかもしれない。
元は凪国の民でも、身一つで王妃に据えられたヒキコさんは架け橋どころか土台の部品にさえなれない。
ただ、そこに居れば良いだけのモノ。
「そうそう、中庭の花も満開で」
将軍の声が遠い。
ただ引きずられていくだけの人形になった気がする。
「ヒキコ、ヒキコ?」
あの時もそうだった。
まるで人形のように引きずられた。
意思も無視して、ただのモノとしてやりとりされた。
全てを他者のせいにするのは間違っている。
竜胆の身柄と引き替えに自らを売り飛ばしたのはヒキコさん自身。
それでも、と思う。
泉王と王妹さえそんな仲でなければ、ヒキコさんは凪国で今も幸せに暮らしていられたのに。
今も、あの温かい場所で、ずっと、ず……っと。
「ヒキ――」
将軍の手を振り払う。
帰る場所なんてない事は分かりきっていた。
それでも、今は唯一ヒキコが引きこもれる自室へと向かって走り出す。
かなり離れてしまったが、それでも後ろから追い掛けてくる将軍から逃げる様にヒキコは走り続けた。
「待て、ヒキコっ」
将軍の焦る声を無視し、ヒキコは走る。
走って走って。
いつの間にか、無意識に近道を進んでいた。
それは来た道とは違う帰り道。
深い茂みの中に体を潜り込ませて進んでいく。
暫く通っていなかったそこは、目を開けるのもやっとなほど生い茂っていた。
緑の檻――。
ふと、ヒキコさんは既視感を覚える。
それは今まで何度もここを通っていた時には決して感じなかったもの。
「あ――」
同じような体験を、昔にもした気がする。
無意識に伸ばした手に痛みが走った瞬間、ヒキコさんの脳裏にそれが浮かんだ。
自分を取り囲む緑の檻。
悲鳴。
紅。
紅。
紅。
緑を染める紅い――。
ヒキコさんの体が茂みから出た。
けれど、そこはヒキコさんの私室の窓近くではなく――。
「ふふ、お兄様ってば」
上目遣いに拗ねる王妹は愛らしかった。
こんなに可愛らしく強請られたら、男女問わず誰だって言いなりになってしまう。
現に、泉王もほら――。
普段滅多なことで表情を変えない泉王の笑顔に、ヒキコさんは息をのんだ。
その途端に蘇りかけていたものが霧散する。
代わりに、大きな池を挟んだ先に居る泉王と王妹の姿が目に焼き付いた。
「愛してますわお兄様」
「ああ、俺もだ……」
そうして嬉しそうに抱きつく王妹を抱き締める泉王。
ザアザアと流れる水の音がヒキコさんの鳴らした茂みの音をかき消したのだろう。
彼らはヒキコさんに気づく事もなく、淡い光の中で愛を囁き合っている。
反対に、誰にも気づかれないヒキコさんは傍の大樹が作り出す影の下に居る。
光の王、影の王妃――。
ヒキコさんはふっと笑った。
最初に誰が言い出したか知らないが、よく言ったものである。
王と王妹はこの薄闇の中でも輝いている。
でも、ヒキコさんは夜が明け始めても佇むのは影の中。
決して、光の下には行けない。
「バカ、だなぁ」
胸の痛みが、増した気がした。
けれど、なぜ増さなければならないのだろう。
王は王妃を愛さず、王妃も王を愛していない。
なぜなら王は王妹を愛しているし、王妃は――。
「私を、買ったくせに――」
選んだのはヒキコさん。
それでも、泉王にはヒキコさんを自由にする手札を持っていた。
いらないと言えば、ヒキコさんを返すと言えばそれで済んだ、まだ済ませられた。
にも関わらず、ヒキコさんを王妃の座から簡単には降りられないようにしたのは、他の誰でもない泉王。
その時からヒキコさんにとって王は憎むべき相手でしかなかった。
逆恨みだと分かっていても、そうしなければこの王宮で自分を保ってはいられなかった。
生活に必要な全ては揃えられても、週に一度来る事すら厭わしかった。
だから、それもあって外に逃げた。
王妃としての仕事、それが駄目なら中での仕事――冗談じゃないっ!!
なんで、なんで、なんで――。
自由を奪い、ヒキコさんを鳥籠に閉じ込めた主。
そう……憎んでいる、筈なのに。
「ヒキコ」
茂みを通り、今度こそヒキコさんの望む場所に辿り着けば、そこには将軍が待っていた。
「っ――! どこに行ってたんだよっ! 突然居なくなって探したんだぞっ」
ギュッと自分を抱き締める将軍に、ヒキコさんはしばし固まった。
これは一体何なのか。
いや、それよりも突然居なくなって――?
「茂みの中でお前の姿を見失って、でも来るなら此処だと思ったけど居なくて」
来るならも何も、茂みを通って行ける先は決まっている。
そう、このヒキコさんの私室の近くか、また別の後宮内の外れ。
どう頑張っても、王と王妹の居たあの後宮最奥の中庭には出られない。
『柚蔭、茂みを通る時には注意をしなさい。緑の檻は時に別の場所へと誘うから』
そうか――。
母の言葉が蘇る。
不思議な力を持つ緑の檻。
中に居る者を、気紛れに別の場所へと誘う。
母はある条件が揃えばと言ったけれど、その条件が何かは覚えてない。
ただ、その別の場所がどこかだけは覚えている。
そう――それは、相手が真に望む場所。
『私も、お父さんと出会ったのは茂みを出た先での事だったわ――』
淡く微笑んだ母はもう居ない。
母の隣で照れた様に笑っていた父も居ない。
故郷と共に喪われてしまった。
そしてその故郷と、両親の記憶もヒキコさんにはおぼろげでしかなかった。
それは果たして惨劇の後遺症か。
それとも――。
緑の檻は、ヒキコさんの心の底を読み取った。
そうして誘った。
「ヒキコ、泣いてんのか?」
「……」
あまりにも唐突に。
あまりにも、突然に。
なんで今だったのか。
条件が揃ったのか、条件とはどういうものなのか。
ただ、それが分かっても……ヒキコさんにはどうしようもない。
自覚した思いは、最初から叶うはずも無いのだから。
むしろ憎んだままで居られれば良かった。
いや、そもそもどうしてそんな思いを抱いてしまったのかさえも分からない。
「な、泣くなよ! 卑怯だぞっ」
慌てる将軍の声。
けれど、差し伸べられた手は優しく、それはいつしかヒキコさんの背中を優しく撫でていた。
ヒキコさんが泣き止むまでずっと、ずっと――。
そうして、ヒキコさんは静かに初恋の幕を降ろした。