魚に説教するパドヴァの聖アントニウス
五月に冷たい雨が続いたのが祟ったか、その年は夏の盛りになっても妙に薄暗く湿った日が多かった。猟場の獲物はかつて知らぬほどに少なく、またやせて肉づきが悪い。狩を好むA**宮中伯にしたら、まことに面白くない夏であった。
無論、無理に狩に出れば獲物のないことはない。神品と賞される矢は相変わらずの百発百中で生命を射抜いた。が、そこにはいつもの緊張と充溢が欠けている。活力のない森での狩猟は、踏みつけにした花を摘み取るような、味気なさと後ろめたさだけを残した。
「南にいらしてはいかがでしょう。御父君の遺された領地がございます」
側近のそんな言葉に珍しく心が動いたのも、そんなくさくさした気分のせいだろう。伯が南の自領に足を踏み入れた経験がないことが、かえって期待をあおった。側近たちもついぞ見た覚えのない若い笑顔で、伯はうなずいたのである。
行くと決めたら一刻の我慢もならぬ伯の性格である。もちろんそれを知り抜いた側近従者たちは、既に夜から準備を始めた。
時折響くせわしげな足音に心を揺すぶられながら、伯は床に着く。始めは背筋を興奮が洗うのにらんらんと目が冴えたが、そう思っているうちにふと気づくと、既に上下のまぶたはくっつき、楽しからん夢に遊んでいた。
夜もいい加減更けたと思う頃、奇妙な音が伯の目を覚ました。何度も打ち鳴らされる鐘の音である。近くの教会のものであろうか。いや、違う。教会のは伯の館にこれほど大きく響かない。第一この夜中に。
「誰か」
伯は寝台から立ち上がった。途端に、部屋を影がよぎった。驚いた伯は壁に身をひっつけ、辺りの様子をうかがう。刺客か、こんな時に。だが部屋の中はぬるい風が行きすぎるだけで、人の気配はついぞ感じられない。
「誰かおらんか」
返事はない。伯の気まぐれに対処するため、部屋の外には必ず不寝番がいるはずなのだが。
まさか。考えがたいが、邸内に入り込んだ刺客に従者らは既に斃され、刺客らは伯が部屋を出るのを待ち受けているのではないだろうか。
嫌な汗が伝う。伯は万一に備えて寝台に隠した短剣を抜いて、扉に耳をつけた。
鐘は鳴り続けている。真昼のような明るく軽い音だ。それに混じってわずかなどよめきが聞こえる。無論館の外からである。
時間の感覚がなくなったのでどれくらい経ったかはわからない。あるいは扉に寄りかかったまま、眠っていたのかもしれない。
いきなり、窓の外から話し声が響いた。
「いらっしゃるぞ、聖者様が」
「急げや。R**川のほとりだ」
R**川? 伯は首を傾げた。
そんな川は近くにない。そも、聞いたことすらない名である。
伯はもう一度、しっかりと扉に耳をあてがった。扉の向こうからは何も聞こえない。人の気配もない。
「早くしろ。聖者様が去ってしまうぞ」
突如として得体のしれない焦りに取りつかれた伯は、胸元に短剣を構え、扉を思い切り蹴とばした。
ばあんと派手な音が鳴り渡り、伯は廊下に飛び出した。素早く左右を見渡す。やはり人はいない。扉にぶつかった不寝番の椅子が転がっているだけだ。
「誰もいないのか」
三たび、伯は人を呼んだ。それでも答える者はない。
一体どういうことだ。館のものが全て、伯を置き去りにして出て行ってしまうなど、常識的には考えられない。何者かに襲われたというほうがまだわかるが、争った形跡はどこにも見られない、誰も伯を起こしに来なかったというのも不自然だ。
ふと外のざわめきが耳についた。先ほどよりいくらか遠ざかったか、はっきり会話が聞き取れるわけではないが、聖者、聖者という声が断片的に響いてくる。
その声は館で見知った誰それのものではないか。館の者たちは皆、聖者なる者を拝みに行ってしまったのでは。
馬鹿な。仮に聖者に会うためとしても、主である自分に断りもなく、あまつさえ置き去りにするとは。
行方不明の理由はさっぱり思い当たらないが、ともかく異常事態である。こんな時の人の行動はきれいに二分する。すなわち、部屋にこもって震えているか、それとも思い切って原因を調べに外へ出るか。伯の性格は当然後者であり、暗い廊下を大またに渡り、伯は館の門へと向かった。
行き過ぎながら部屋べやの様子をうかがった。と、意外なことにというべきか、あるのである。人の気配が。いや、正確には、ついさっきまで人のいた気配、というべきだろう。月明りに煌々と照らし出された広間の燭台からは煙が流れ、使用人部屋の空気には人肌のぬくもりがある。もう少し探せばひとりくらい見つかるのではないか。期待の種が胸に生まれるのを感じながら、伯は中庭へ出た。
中庭には、清水をくみ上げる井戸がひとつある。伯は奇妙なことに気づいた。井戸から、伯の出てきたのとは反対側の出入口へ向かって、点々と水がこぼれている。つい今しがた、誰かが井戸水を運んでいったかのように。
動悸が早まった。伯は急ぎ足に中庭を横切り、向かいの戸を開けた。
人の姿はない。ただ、水が黒い染みを作って廊下を伸びている。水跡の先は厨房である。扉は開いている。これもおかしい。料理の匂いが流れるのを嫌って、伯は厨房の扉を開け放つのを禁じているのだ。
のぞきこんだ瞬間、伯は飛びのいた。床に近いところに目があった。見開かれたその視線が、確かに伯を捉えていた。
「何者か!」
短剣を胸に構え直し、伯は怒鳴った。館の内にこだました声の遠のいた時、返事の代わりにぷつぷつと泡のはぜるような音が聞こえた。
「誰かいるのか。何者かと聞いておる」
やや声を落として再度問うと、やはり同じ音が弾ける。どうやら名乗るつもりはないようだ。
半ば蛮勇と知りつつも、伯は扉に歩み寄り、いっぱいに開けた。
魚であった。カワカマスのでかいのだ。窮屈そうに体を曲げて、水を張った桶にたゆたっている。
にわかに緊張が抜けた。
「さては、先の目はお前であったか。てっきり人かと思ったわ」
考えてみれば誰もいない厨房にカマスだけが泳いでいるなど異常に変わりはないが、敵意を持った人間でないと知って気持ちも緩み、伯はつい軽口をたたいた。
魚は狭い桶の中を器用に一回転した。月光に目が輝く。それが扉の外から見えたのと同じ、人と紛うようなものだったから、出かかった笑みは口元の引きつりに変わった。
魚の口が動いて気泡が漏れ、次々水面に浮かんだ。ぷつり、ぷつりと泡の音は次第に高く低く、独特の調子を伴って厨房内に響いた。
まるで人のつぶやきのよう、いや、これは人の声そのものではないのか。
「R**川へ行け」
魚はそう、繰り返していた。
「R**川に聖者がおわす」
伯は無言でその場を後にした。開け放しの厨房の扉は、にわかに吹きつけた突風に音を立てて閉じた。
門の外は真昼のような明るさだった。最初は月の光と思ったが、青白く冷たいそれではない、何か温かで人を内から照らすものが、どこからとも言えぬ、しかしありとあらゆる全てを映し出していた。
通りを町はずれへと進む列がある。伯は何故か次第に幸福な気分になってこれに従う。
まこと珍妙な行列ではある。赤ん坊を胸に背中に、幾人もおぶって、重たいのか口をぱくぱくしながら歩く女。ぶくぶく太ったしわだらけの老人。親密そうに腕をからめて歩く男女。これにどうやら隙狙いの巾着切りと見受ける男がくっついている。行列の端っこでは背の曲がった老婆がのたりと進み、同行らしい男は振り向いてその両手を引っ張っている。老若、男女、貴賎、あらゆる種類の人間の見本市だ。
面白い。ならば我は高貴の者として加わろう。伯は出がけに取ってきた得意の弓矢を腰に下げ、胸を張った。さっきの巾着切りに狙われそうだが、幸いなるかな、財布は持ってきてない。もし持っていれば威風の騎士転じて吝嗇家となっていたところだから、内心大いに安堵した。説教そのものにも金は不要だ。喜捨を求めるなら後ほど館に招けばよい。
道は知ったようで知らない。行列に導かれずとも目的地に行けそうな気がするが、いざ道順を考えると、薄ぼんやりと白い霧が思考を隠す。が、霧の向こう、先の魚か、ひとつの眼光があり衆を招く。あるいはそんな気がする。
どこかから鐘の音が聞こえる。いや、歌声か。薄明の澄んだ空気の中を歩むようでいて、足元までが霧に包まれて覚束ない。ただ、この彷徨、この感情に終わってほしくない。
が、しばらくすると無垢な子供たちの合唱は遠のいた。気がつけば、浅い水の淀んでほとんど動かない川辺に、伯は無数の群衆とともに座り込んでいた。
雑多な人々の中心には、ぼろをまとった若い男が立っている。聖者にしてはやや鋭い目つきの男は、辺りを眺め回しながら、両手を開いた。続いて、わずかに開いた口から言葉が漏れる。
伯は目を剥いた。言葉、確かに彼は喋っている、そのはずだが、それは伯の知る言語ではない。時に流れ、あるいは滞り、湧き立ち、沈み込む、歌か、否、器楽の演奏を聴くような。ひとつひとつの単語は取れない、もとより単語などないのかもしれず、響きはそのなすところのある感情を伴って、直截に精神へ届いた。
身体の根元から覆されるような語りである。次第にその調子は早く前へのめり、抑揚は振り幅を広げる。音であるはずのその先に、確かな景色が見える。最初はとぎれとぎれにどよめきを漏らす地下の鉱脈であったものが、聖者の招きに応じていつか地上へ、さらに天空へ、閃光を放ちながら上昇する。近寄りがたいほどに荘厳でありながら、今の今まで己が心の奥底で照っていたように親密な光に伯は思わず手を差し伸べ、そしてそこで我に帰った。
大狂乱の体だ。川辺に集った群衆の全てが、きいきいじいじいと不明瞭なうめきを発し、身をのけぞらせて天を仰いでいる。聖者は半狂乱で手を振り回し、何かわめいているが、騒々しさにかき消されて全く聞き取れない。
聖者か? これが。いびつに体をよじって奇怪な動作を反復するその様。よく見ればわめく群衆もいつの間にか人の姿を失って、ぬめる胴、とげのついた腕を振り回す。
爆発的に高まった狂騒に衝き上げられるように、聖者が中天をあおいだ。震える腕からぼろ布がずれ落ちると、かかしめいて細い腕が露わになる。腕の先に広げられた手は、筋張った骨の花だ。と見る間にその身体はぐずぐず崩れ落ち、地面から伸びた枯れ枝に変ずる。その伸びる先、天はうねりながら回転し、地面のもやを一点に集めて次第に光を帯びる。それは目、地上の狂乱を余すところなく見尽くして厳然と存在する。
後ろから押された伯が気づいて見回すと、異形の群れはぽかんと伸びた枯れ枝へと歩みを進めていた。小さな枝はあっという間に見えなくなり、しかしその後から後から、ぬれそぼちて膨れ上がった肉体が押し寄せる。下のほうのはとうに潰れて体液を散らす、その流れが足元にまで届く。強烈な異臭。空は変わらぬ視線でそれを見る。
「否!」
伯は叫んだ。否定しなければその目のいずくにか、拉し去られるかと思われた。その充溢しきった異常、恐怖、残虐は心の臨界を超え、強烈な感情の閃きは既に美醜の域を抜けてそれだけが世界の真理であるかのように伯を貫く。
鼓動となって押し寄せる感情の波に抗うべく必死で手を動かすと、腰に差した短弓に触れた。矢は一本。
伯は近くにあった石で矢じりを粗く削った。ぎらつくはがねの銀が顕れる。
弓にかけ、引き絞る。その腕に伝わる力の熱く焦がれる感じだけが、今この場での真実であるようにも思われる。
「滅せよ」
狙う先は真上、白の凝った天の目である。地上から空までいかほどの距離があるか知れぬが、巧者の勘か、伯には矢が届くという確信があった。
びょうと射れば真っ直ぐに飛ぶ矢のそのすぐ後ろから空は泡だった。地面の揺れる感覚、いや揺れているのは自身、それとも両方か。激しく傾いだ地面から体が離れたと思った瞬間、世界がめくれあがる。天も地も、空気も水も、異形たちも、そして伯も渦巻いて神々しい白に消えた。
南への旅を取りやめて以来、伯は前にも増して狩に熱中した。その矢は必ず獲物の目を捉えて脳髄を貫いた。何故目を射るのか。聞く人があっても伯は決して答えなかったが、ひとつの伝承があり、盲いて臨終の床にある伯の言葉を伝える。それは恐ろしかったというのだ。
死して後、伯は地中深く埋められたと聞くが、その墓がどこにあるか、今だ誰も知らぬ。土の中でさえ人の目に怯えたものではあろう。あるいはそれ以上の何かに。
そういえば他の、秘かに語られた真偽不明の口伝だが、そこにはいう。自らの埋葬について遺言をしたためた伯に、斯様に深い墓では主の審判に復活できぬではないかと忠告した者があった。
伯は言下に、主の深き目は我を導かぬと断じた、と。