1.幸運か
空から男が降ってきた。
薪に向かって今まさに斧を振り下ろそうとしていたクオンは、突然の出来事に反応が追いつかず、飛び散った薪に代わって足許に転がる男の首筋目掛けて、そのまま斧を振り下ろしてしまった。
紙一重で斧を止めることが出来た自分を、我ながら天才だと思った。
見知らぬ男の首が、大量の血を噴き出しながらゴロゴロ転がってゆくさまを見なくて済んだことに安堵しながら、クオンは斧を慎重に男の首筋から離すと、ぶわっと吹き出た大量の汗を、薪を運んで泥だらけになっているエプロンで拭った。
さっきダウルドが仕込んでいた子羊肉の赤ワイン煮を、どうやら今夜も美味しく頂くことが出来そうだ。他に楽しみらしい楽しみもない逃亡生活にあって、食べ物を美味しく食べられるかどうかということは、クオンにとって何よりも重要なことだった。
「若君!」
ダウルドが厨房の木製の扉を蹴破るように飛び出してきた。右手に包丁、左手にはお玉を構えている。
背は低いが筋肉質のがっちりとした体をしたダウルドは、クオンが幼いころからの従者だ。五十四歳になるが、腕っ節ではそんじょそこらの兵士になど負けない。
丸太のような腕は剛毛で覆われ、縮れた黒髪にひげ面、太い眉、大きな鼻と口のせいで一見粗暴に見えてしまうのだが、その実繊細で細やかな気配りが出来る男だった。優しい茶色の目は、意外と可愛らしい。
「殿下!」
一階の居間で、どこぞからか集まってくる報告書と睨めっこをしていたはずのアガンまでもが飛び出してきた。右手にペン、左手にペーパーナイフ。どちらもアガンの手にかかると凶悪な武器になってしまうところがコワい。
すらりと背が高く、生まれと育ちの良さが、顔立ちだけでなく、所作の隅々にまで現れている。年齢はクオンより六つ上の三十四歳。すっきりとした細面に、深い紫色の瞳。薄い唇がやや酷薄に見えるが、見た目ほど冷淡な男ではないことをクオンはよく知っていた。
紫がかった銀髪を長く伸ばして首のうしろでひとつに結わき、しなやかな体を学者風の長衣に包んでいる。
ダウルドもアガンも、国を失い流浪の身となったクオンに付き従い、忠誠を誓ってくれている数少ない臣下であり、同時に掛け替えのない友でもあった。
「若君、何事ですか……!?」
「殿下、今の音はいったい……!?」
寄宿している館の裏庭に飛び出して来たふたりは、同時に地面に倒れている男を見つけた。
「やれ、刺客でございますかっ!?」
「おのれ、殿下を狙う暗殺者かっ!?」
ぴったり同時に叫ぶものの、絶対に同じ言い回しを使わないふたりは、仲が良いのか悪いのかよくわからない。
「俺には、どう見ても刺客には見えんがなぁ」クオンは、横たわる男を見下ろしながら、首を捻った。「お前たちには、素っ裸で無防備に横たわる男が殺し屋に見えるのか?」
ふたりは同時に立ち止まり、グッと言葉を詰まらせた。
「素っ裸で若君に襲い掛かってきた……のですか……?」
恐る恐る訊いたのはダウルドの方だ。アガンは握りしめた両手をプルプル震わせて、今にも爆発しそうな顔をしている。
「裸で俺を襲って何になる?」
素直な疑問を口にしたクオンに、ダウルドとアガンは同時に天を見上げた。
「あー」
「はぁ……」
と、これまた同時に嘆きの溜息をつく。
「いい加減、ご自覚くださいませ」片方の眉をヒクヒクさせながらアガンが言った。「殿下のお姿は、今や妙齢のご婦人なのですから」
「いかにも。そのようにスカートを思いっきりめくり上げて、おみ足を晒すような真似は、なさらないでいただきたい」
ダウルドも赤い顔をしながら忠告する。
「そうか? これはダメか?」
クオンは、短い黒髪をガシガシと掻きむしりながら、自分の姿を見下ろした。
侍女が着るような質素なドレスを着ているのだが、広がった裾があまりにも邪魔なので、たくし上げてエプロンの紐に引っかけるようにして留めてあった。
すらりと伸びた足が、太股の辺りまで露わになっている。靴はそこら辺に脱ぎ捨ててあり、裸足だ。
「だから男の服がいいと言ってるのだが……?」
クオンが上目遣いで問うと、ふたりは顔を真っ赤にして同時に叫んだ。
「困ります」
「許せません」
ズボンの方が断然動きやすい。それで、前に一度、男もののシャツとズボンを着てみたのだが、それ以来、ふたりは頑としてクオンが男の恰好をすることを許してくれない。
胸が大きすぎてボタンが留められなかったのが悪かったらしい。男もののシャツが薄手で透けて見えるというのも許し難いようだ。好きなだけ見せてやるのだから喜べばいいのにと思うのだが、ふたりにしてみれば、そうはいかない大問題らしい。
長衣でも着て体の線を隠しておけばいいのだろうが、この季節に上着を着れば暑くてたまらない。アガンは涼しい顔をして着ているが、ダウルドなどは上半身は綿の下着一枚でいることが多いぐらいなのだ。
薪割りなどという力仕事をしているときは、特に暑い。いっそ上半身裸になりたいところだが、そうはせずに、スカートをたくし上げるだけに留めていたのは、クオンとしては最大限の譲歩のつもりだった。
「まったく面倒だな、女をやるってことは……」
溜息をつき、スカートを降ろして、靴をはく。
ふたりはホッとしたように仲良く額の汗を拭った。