5.果たされた約束
荒々しい波が打ち寄せる絶海の孤島で、レトはずっと待ち続けていた。
人間の言葉を、そのまま素直に信じたわけではない。人間の心臓を持ったレトは、昔と違い疑うということを知っている。
その一方で、人間は、相手を騙し、陥れるためだけに嘘をつくのではないということも知っていた。人は、希望を抱くためにも嘘をつく。不可能だと思えることを約束する。
レトは、クオンが与えてくれた希望を無碍にしたくなかった。だから、信じて待ち続ける。決して来るはずのない、いや、来られるはずのない人間を待ち続ける。命が尽きるまでずっと、待ち続けるつもりだった。
灰色の岩ばかりの島は、味気なく、冷たい。たったひとりで暮らすのは、とてつもない孤独だった。寂しさが心を凍てつかせ、焦がれる想いが胸を焼く。それを延々と耐え続ける辛さは言葉では表しようがない。
それでも、人間が住む世界がある西の空を見上げているとき、レトは幸せを感じるのだった。
このどこまでも青い空は、ずっと広がっており、彼女のいる空と確かに繋がっているのだ。そう思うだけで心に温かなものが湧き上がり、孤独の氷を溶かしていく。彼女もきっと自分のことを忘れずに、想い続けてくれていると思うと、胸に爽やかな涼風が吹く。魂が満たされていく。この愛情は、消えることがない。ふたりの魂は、ずっとずっと繋がっているはずだった。
だからレトは、旭日と共に目覚めると、まず西の空を見る。魚や海獣類を狩り、腹を満たすと、しばしの休息を取る前に西の空を見る。休息を終え、空をひとっ飛びしながら西を見る。そして、眠る前に、夕陽の落ちるその先に目を懲らす。
そうやって日々を過ごすことで、竜にとってはいかほどでもない年月、だが、人間にとっては長い年月が過ぎた。
ある日のことだ。
レトは、いつものように、目覚めるとすぐ西の空を眺めた。島の中央にそびえる岩山のてっぺんから、遠い海をみはるかす。
と、いつもは見えることのないものを、レトは視界に捉えた。
最初は小さな黒い点だった。それは、ゆっくりとゆっくりと近付いてきた。
レトの心臓が、早鐘を打つ。
いても立ってもいられない気分になり、翼を広げて飛び立った。
高い空を、滑るように飛び、島に近付く小さなものの上空に来た。
それは人間の小舟だった。大洋を渡って、こんな絶海の孤島まで漕ぎ来ることが出来るとは思えない、一本の帆柱に、四角い帆を一枚張っただけの、小さな小さな舟だった。
どこかで大型船が難破し、その漂流者が乗っているのかとも考えた。
だが、違った。
舟の上にたったひとり乗った人物は、上空を旋回するレトに向かって大きく手を振った。
ドクン。
心臓が跳ね上がる。
まさか、まさか、そんなはずがあるわけがない。たったひとり、こんな遠い場所まで、来られるはずはない――
レトは、相手の顔が見える場所まで高度を下げた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「レト! 俺の顔を見忘れたか――?」
舟の上の人物は、レトを見上げて笑っていた。
赤褐色の肌。群青色の瞳。顔も手も年月によって刻まれた皺に覆われていたし、黒かった髪も真っ白になっている。それでも、見忘れるはずがない。見間違うはずがない。
こんな脆い小舟で大海を渡ってまで、約束を果たそうとするような馬鹿が他にいるはずもない。
クオン――!
レトは歓喜の叫びを上げると、舟に向かって急降下した。レトが巻き起こした風によって大きく揺れる舟の上で慌てているクオンを、かぎ爪に引っかけて、再び空へ舞い上がる。
レトと一緒に空を飛びながら、クオンは声を立てて笑った。
島の中央にある山の頂にクオンをそっと降ろすして、その少し先に着地すると、レトは慌てて女王のところへ駆けて戻った。
「死ぬかと思ったぞ」
そう言いながらも、クオンは笑っていた。てのひらでレトの鼻先を優しく撫でる。
「心臓が弱っているのだから、あまり驚かせるな」
レトは、魔法を発動して自分の姿を変えた。かつて人間になったときの姿に。
「竜は、姿を偽る魔法は使えないのではなかったのか?」
驚くクオンを、レトは有無を言わせず抱き締め、唇を奪った。
地面に押し倒し、転がりながら、互いに互いの唇を、貪るように求め合った。
レトは、クオンの顔に、指先に、腕に、くちづけの雨を降らした。
それでも想いを伝えきれない。いっそ、竜の姿に戻ってクオンを食べて、本当にひとつになってしまいたかった。
やがて抱き締めた腕を緩めると、クオンは、レトの髪をそっとてのひらですくった。
「お前だけ、昔のままの若い姿だなんてずるいぞ。どうせなら、俺と同じくらい歳を取った姿にしろ」
レトは体を起こすと、岩に腰をかけて、クオンを抱き寄せた。
「姿を偽るのは無理だ。これは吾の、本当の姿のひとつだ」
レトが微笑むと、クオンは興味深そうにレトの瞳を覗き込んだ。
「吾の血の中には、祖先の経験がすべて刻まれている。その祖先の血が吾に教えてくれた。
我々竜は、もともとは人間だった……」
さして面白い話だとも思えないので、レトはそこで口をつぐんだ。
「なぜ、やめる?」
「こんな話が聞きたいか?」
「お前のことは何でも知りたい。竜のことは知らないことが多すぎる」
クオンがすねるような顔をしたので、レトは思わず笑った。
「わかった続けよう」
血の語りかけを聞き、それを人の言葉に置き換えていく。
「この世に最初に生まれた人間は、ネルビオとデイヴァという双子の兄弟だった。
ネルビオとデイヴァは、たったふたりしかいない兄弟だというのに、よく争った。感情のすれ違いや、もつれから、いつしか相手を信用することが出来なくなっていった。
本当は互いに互いを兄弟として愛しているはずなのに、ついに二度と手を携えて生きていくわけにはいかないほど、激しい諍いをしてしまった。
弟のデイヴァは、兄と争うようになってしまったのは、感情があるせいだと思った。兄を愛し、兄を信頼したいのに、それが出来ないのは悲しい。
デイヴァは、兄を疑い兄を憎んでしまう自分の心を嫌った。ならばいっそ心などいらないと、心を生み出す心臓を取り出し、人間であることをやめて竜になった。だからデイヴァの子孫である竜は、疑うことをしない。疑うことを嫌う。感情がほとんどないので、愛することもなくなってしまった反面、憎むこともない。
一方、デイヴァを失ったネルビオも、深く悲しみ、弟を憎むしか出来なかった自分を反省した。ネルビオは、弟が捨てていった心臓を食べ、弟の心を自分のものとした。そして、弟も心の底では自分と同じように、兄と憎しみ合うのではなく、愛し合いたがっていたのだと知った。
ネルビオは、いつかこの心臓を、竜になってしまった弟に返したいと願った。
ネルビオは、兄弟が別れ別れになってしまった原因である、人の心の闇を憎んだ。そこで、運命神ティティクーに願い、自分の骨と心臓で冠を作ってもらった。それが、〈真実の宝冠〉だ。ネルビオの心に応えて、宝冠は、すべての嘘を暴き、真実を白日の下に晒す。
ネルビオは、憎しみで固まっていると思いこんでいた弟の心に、真実の愛が隠れていたように、人の心の中を暴くことで、本当の人間の姿が見えてくると信じていたのだ。本当の意味でわかり合えると信じていた。
ネルビオの意志を継いで、その子孫たちは、代々竜の心臓を持って生まれるようになった。竜に心臓を返すために。かれらは竜と出会うと自らの命を捧げることを使命とする。
そのネルビオの子孫が、ノガルドの先住民族であり、天人族とも呼ばれているアーヤネルビオ――アガンの祖先だ。ノガルド王家も初代はアーヤネルビオだったが、多くの種族の血をまんべんなく取り入れることで種族間の融合を謀ろうとした結果、ネルビオの精神を最も強く受け継いではいるものの、肉体的にはもはやアーヤネルビオの面影もない」
「なら……」
クオンは、レトの左胸にそっと手を当てた。
「では、この心臓は、ずっとお前のものだったのだな……」
「人を食べた吾が、アガンの側に落ちたのは、偶然ではなかったのかもしれない――」
レトは、自分の胸に添えられたクオンの手を、自分の手でそっと包み込んだ。
「竜族が滅びようとしているのと同時に、アーヤネルビオも滅びようとしていたのだと、アガンの血が教えてくれた。
アーヤネルビオは、代を重ねるに従って、竜の生贄としての生き方に疑問を抱くようになった。初代の心はうまく伝わらず、異種である竜のために犠牲になることを拒むようになった。人は人として、自分自身のために生きるべきではないかと考えるようになったとき、アーヤネルビオは存在意義を失い、徐々に滅びの道をたどりはじめた。
吾が竜族最後の生き残りであると同様に、アガンとその兄弟はアーヤネルビオの血を引く最後の人間だった。そして、兄弟の中でもアガンだけが、天人族の属性を強く受け継いでいた。他の兄弟は、みな父に似て普通の人間だったとアガンは言っている。アガンは最後の最後に、アーヤネルビオの使命をまっとうする道を選んだ」
「それで、お前は、竜をやめて人に戻るというのか?」
クオンの問いにレトは頷いた。
「かつて、人と竜に別れた兄弟が、今、ひとつに戻った。竜はこれで滅び去るが、人間として生きることも、そう悪くないと思っている」
クオンが、レトの指に指を絡めてきた。
「アガン――」クオンは、目を伏せてささやいた。「――と呼んでもいいだろうか?」
「吾は、レト」と、レトは答えた。「だが、同時にアガンでもある」
「アガンなら、約束を果たせ」
クオンは、目を上げてレトを見た。
「約束?」
「お前は約束した。もし、俺が女のまま男に戻れなかったら、俺を娶ると」
レトは、心臓に訊ねた。
ドクン。
心臓が跳ね上がる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
「俺は、女王として後継者を生む義務があった。だからイレームの息子ジェシルと結婚した。愛のない結婚はジェシルには申し訳なかったが、ジェシルは充分理解して、俺の夫の役を申し分なく演じてくれた。感謝している。
三人の子供に恵まれ、そのうちのひとりに、王位を譲ってきた。あとはもう、人間の世界に用はない。あそこでの俺の役割は終わった。だから、ジェシルとは離婚して、こうやってお前の許にやってきた。俺が真実の愛を捧げるのは、アガン――お前だけだから……」
「約束は必ず守るものだ。アガンの約束であれば、それは間違いなく吾の約束だ。クオン、吾は、誓う。汝を吾が妻として、生涯愛すると……」
絡めた指に力がこもる。
クオンは、レトの胸に顔を埋めた。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
レトは、自分の心臓が悦びにうちふるえているのを感じた。
クオンは、小さな瓶を取り出した。薄紫色の硝子で出来た可愛らしい小瓶だった。
「アガンの遺骨は、宰相家の墓所に葬られている。あいつの兄に、散々頼み込んで、ようやくこれだけ別けてもらった」
クオンは、小瓶にくちづけすると、愛おしそうに抱き締めた。体を丸めたクオンを、レトはそっと抱き締める。
クオンの心臓の鼓動が聞こえてくる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
レトは、クオンの温もりを抱き締めて、その鼓動だけを聞いていた。
どれほどの時間が経ったのだろう。
数時間か、数日か。ふたりだけの世界では、もはや、時間は意味をなしていなかった。
やがて、クオンの鼓動が弱まっていく。
トク、トク、トクン。
最後に満足げな溜息と共にクオンの鼓動が止まると、竜であった男は泣いた。
冷たくなってゆく体を、強く抱き締めて、声もなく涙を流し続けた。