3.邪精霊
クオンは、サザの体に絡み付く黒い液体を引きはがそうとした。しかし、拭っても拭っても、蠢く闇は這い上がってきて、サザの体を包み込んでいく。いたたまれず、クオンはサザの体を闇から守るように抱き締めた。
黒い液体は、クオンの体をも包み込んだ。
人の血液のように生暖かく、生臭い液体は、じわじわと毛穴から体の中に侵入してくるようだった。それと同時に、気分がすさんでいく。
最初は、わけのわからない苛つき。それが徐々に強い怒りとなって燃え上がっていく。何かに対して怒ってるわけではない。とにかくムカつき、手当たり次第噛みついて、何もかも引き裂きたい気分になる。
サザが、クオンの肩に噛みついてきた。
クオンは唇を噛みしめて痛みを堪えると、サザの頬を殴った。わけのわからぬ怒りを、すべてサザに向け、容赦なく拳を振るった。
サザは転倒したが、黒い液体はまだ女戦士の体にまとわりついている。
クオンは、自分の体の上を這う液体を手で振り払おうとした。だが、拭っても拭っても液体は取れない。クオンはその苛立ちを、またもや女戦士に向けた。
仰向けに倒れたサザに馬乗りになり、首に手をかけ、力を込める。
どんどん増していく怒り。そして、憎しみ。
サザの首にかけた手に力を込めると同時に、クオンは、今の怒りを宝冠の力に乗せて世界中に放とうとした。
この世の中など、滅んでしまえ――!
強烈な邪心が、心を満たしている。
吹き上がる怒りを一気に昂ぶらせたそのとき、背後から、誰かにギュッと抱き締められた。
背中に、相手の心臓の鼓動が伝わってくる。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
不意に、怒りが消えた。
魂が満たされていく。
アガン――!
クオンは、二度と触れることが出来ない男のことを思った。彼の想いを抱き締めるような気持ちで、心臓の鼓動を心に抱き留める。
愛している――
魂に響いてくる言葉に、心の闇が流れ去る。
クオンは、自分とサザを包み込んでいたドロドロとした闇が、体から離れたのを知った。
サザの首から手を離し、身をよじると、自分を抱き締めてくれている竜を抱き締めた。
「クオン、汝は吾を愛してくれるか――?」
竜の問いに、クオンは答えた。
「俺はお前を愛している――」
クオンは、レトの左胸にてのひらを当てた。温かい鼓動。
抱き締める腕に力がこもり、唇が重なる。
命の底から、愛し、愛されているのだと感じた。
長い抱擁を解くと、レトはうしろに下がった。
体が淡い光に包まれ、見る見る変化してゆく。
滑らかな肌は艶やかな鱗に、ほっそりとした腕は筋肉が盛り上がる獣の前肢に。爪が伸び、顔が爬虫類のように長く伸びる。
「レト――!」
伸ばしかけたクオンの手をすり抜けて、紫がかった銀の鱗を煌めかせて、巨大な竜が空に舞い上がる。
「クオン、まだ終わってはいない」
サザの掠れた声に促されて視線を転じれば、ふたりの体から離れた黒い液体は、嵩を増しながら、城門を下って、洪水のように人々を飲み込んでいった。
黒い液体にまとわりつかれた人々は、互いに互いを攻撃しはじめた。凄惨な殺し合いが始まる。手にした武器を互いの体に渾身の力を込めて叩き込み、辺りには、切り落とされた手足や、叩き割られた頭が散乱しはじめた。まだ生きている者たちは、狂気の目付きで殺す相手を探している。
クオンは一瞬絶望に取り憑かれそうになったが、自分たちの体から闇を遠ざけてくれたものが何であったかを思い出すと、歯を食いしばって眼下を見詰めた。
心の中に、人々に対する愛を呼び覚ます。この国の、いや、この世界中の人々への愛。
あふれるその想いを、王冠の力に乗せて、世界へと放つ。
俺は、お前たちを愛している――
それは、何ものにも遮られることのない、強い強い感情だった。クオンはこの国を愛していた。何があっても、どんなことがあっても、この国が好きだった。この国を支えているすべての人に感謝し、人々の幸福を祈っている。
いや、この国だけではない。すべての人間に、クオンは愛を捧げたいと思った。
この想いを届けたいと思った。
不意に頭上の冠の重みが増したような気がしたと思うと、柔らかな光が、王冠に嵌められた深紅の宝玉から放たれた。その柔らかな光は、ゆっくりと眼下の広場を埋め尽くす人々を包み込み、そして、さらに広がっていく。
光が広がるにしたがって、争いが止んでゆく。
黒い液体は、宝冠の光に晒されて、もがき苦しむように人々から離れ、喘ぐように小さな塊に収縮していった。
すべての闇がひとつにまとまったとき、空から紫銀の光が舞い降りてきた。
周囲にいた人々が慌てて逃げ出す。
巨大な竜は紫がかった銀の鱗を輝かせて、一旦上空に戻ったが、翼をすぼめて再度急降下すると、口を大きく開いて焔を吐き出した。
地面を舐めるように広がった焔が、闇の塊を包み込む。
黒い液体は、焔に包まれて、怒りに身をよじるように、伸び上がり、縮み、ねじれ、潰れ、再び伸び上がったが、レトがもう一度焔を吐きかけると、怒りと憎しみの念を放ちながら燃え尽きた。
あとの残ったのは、多くの死骸と、負傷した人々、そして、人々を包み込む柔らかな光だった。
「……陛下……」
生き残った人々の中から声が生まれた。
「クオン陛下……」
「我らの、女王……」
「クオン陛下万歳!」
熱気が、城門前の広場を包み込む。民衆もヌガティック兵も関係なく、歓呼の声を上げていた。
そんな人々を見下ろしながら、クオンは、闇が去り、この世界が救われたのだということを知った。
犠牲を出さずに終わらせることが出来なかったことが悔やまれた。が、それでも、すべてを闇に奪われ、この世が邪神のものとなることだけは避けることが出来たのだ。
気が抜けて座り込んだところに、竜が舞い降りてきた。
すり寄せてきた鼻面を撫で、頬を押しつける。
吾は、吾の棲むべき場所へ還る――
竜の言葉が、心に直接響いてきた。
クオンは驚き、立ち上がると、レトの足にしがみついた。
「ここにいればいい。お前のための場所を用意しよう」
だが、竜は首を振った。
この世で最高の美味を目の前に、食べずに我慢しろと――?
竜は笑った。
それとも汝が、吾のために、毎日生贄を捧げてくれるとでも――?
クオンは、項垂れた。
「それは、出来ない」
レトは、鼻の先でクオンの頭を撫でると、言葉を伝えてきた。
愛するからこそ、側にはいられない。しかし、汝に対するこの想いは、吾の心臓が鼓動を刻み続ける限り、決して失われることはない。吾は汝を愛し続ける――
クオンは、竜が決して嘘をつかないことを知っている。
「いつか、必ず、お前を訪ねていく。必ず会いに行く」
待っている――
竜は、翼を広げて空へ舞い上がった。
ここから東へ、延々と海を渡った彼方の、絶海の孤島に吾はいる。そこで、ずっと汝を待っている。ずっとずっと待っている――
城の上を数回旋回し、最後に翼を振ると、竜は夕陽を背にして飛び去った。
クオンは、その姿が豆粒のようになり、やがて見えなくなるまで、ずっと見送っていた。