1.戴冠
魔法の通路を潜り抜け、飛び出した場所がどこなのか、クオンにはすぐにわかった。
王宮の中は隈無く知っている。子供のころ散々遊びまわったからだ。アガンと一緒に。
アガン――
血まみれになって横たわる姿が目に焼き付いている。しかし、涙に暮れている暇はなかった。
そこは城門の上だった。宮殿を守る衛兵と、クオンの即位を望む民衆が、熾烈な戦いの真っ最中だった。
突然出現したクオンたちに衛兵たちが一瞬怯んだ。レトはその隙を見逃さなかった。
魔法の風を呼び起こして、城門の上の兵士をひとり残らず吹き飛ばした。
それを見て、城を攻めていた民衆も沈黙する。
異様な静寂が、辺りを満たした。
クオンは、城門の上から目を懲らした。城門前の広場をずっと下ったところに、迫り来る騎馬の一団が見えた。どうやら斬竜師団のようだ。かれらが到着すれば、烏合の衆でしかない反乱軍など、あっという間に蹴散らされてしまうだろう。猶予はない。
「レト!」
呼び掛けると、竜である青年は、人々によく見えるように宝冠を高く掲げた。
それが何であるか理解した者の中からざわめきが広がる。
レトは、宝冠をそっとクオンの頭に載せると、右手を胸に当てて跪いた。
宝冠の重みがずっしりと頭にかかる。
その重みに気をひきしめねばと思った瞬間、
世界が開けた――
まさに、世界が開けた。その感覚は、他に言い表しようがなかった。
王冠を頭に頂いた瞬間、この世界を満たす人々の、ありとあらゆる感情が、クオンの中に入り込んできたのだ。拒むことも出来ず一方的に、悦びや、怒りや、悲しみや、苦しみが、大量に流れ込んでくる。
それは、世界の重みだった。
人間の持つ、醜さも、愚かさも、恥も、図々しさも、馬鹿馬鹿しさも、図太さも、意地の悪さも、下品さも、くだらなさも、何ひとつ隠すことなく暴かれていく。
この冠が、〈真実の宝冠〉と呼ばれているわけをクオンは知った。
この宝冠は、何ひとつ隠すことなく伝えてくる。人間の弱さも醜さも穢らわしさも、包み隠さず教えてくれる。
クレモスは、これに耐えられずに、自ら命を絶ったのだろう。
宝冠は、自分の心の中の醜さもあますことなく暴き立てる。責め立てる。お前たち人間は、これほどまでに〝悪〟なのだ――と。
自分の内側から湧き上がってくる闇にうろたえた。怯えた。自分など、生きる資格はないのだと思い知らされた。
多くの人の姿がクオンの中に流れ込んでいる。
見知った人、まったく知らない人、見たこともない人、今後も絶対に会うことはないであろう人――
闇の中に、ありとあらゆる人の姿が渦巻く。
レオルドの姿が見えた。正義感は強いがちょっと意地悪なところのある青年貴族は、クオンを助けることで新政府で高い地位に就くという野望を持っている。純粋にクオンを思い、クオンに仕えていたわけではない――
クラウシスの姿が見えた。生真面目で陽気な男は、他のことでは極めて良い人間なのだが、女癖だけはひどかった。双子の娘を弄ぼうと、それだけを狙っていた――
エメナとリリナの双子は働きものの良い娘たちだったが、むさ苦しい父を嫌っていた。その父の頼みを聞いてクオンの世話を引き受けたのは、将来の国王の寵愛を受け、愛人の地位を得られないものかと狙っていたからだ――
トッド・アーレムは、義侠心に富んだ男だった。父との友情は本物だったし、クオンを支援する気持ちも本物だった。しかし、その一方で、レメナス王の勢いにクオンは勝てないだろうと計算していた。クオンに肩入れしたのは、レメナス王が世界を制覇することへの不安からだった。クオンを犠牲にして、レメナス王の勢いを少しでも弱めることが出来ればいいと考えていた――
ダングラード公爵イレームは、クオンが王子ではなく姫であることを知っていた。また、王妃に仕え、王妃の信頼を得ていたイレームは、王妃のもとに送り込んだ侍女を通じてクレモスの秘密も知った。王家の傍流である公爵家は、直系の存続が不可能になった場合、身内の中から王を出すことが出来る。イレームの息子ジェシルは、今年十四歳。クオンにもクレモスにも王位継承資格がないことを知っていたイレームは、息子が十五歳の成人を迎えるまで事態を長引かせ、息子の成人と同時にすべてを暴露し、息子に王位をもたらすつもりでいた――
サザは、レメナス王を憎んでいる。自分を裏切り、辱めを受けさせたレメナス王。王をこの世から葬るためだけに、サザは生きている。しかし、クオンは知った。サザは、レメナス王を憎みながらも、未だに王を愛している。愛しているからこそ憎み、憎んでいるからこそ愛している。愛欲と矜持とがせめぎあい、それがサザの心を歪ませ、暴走させている――
ミモルヴァは、実の兄を愛していた。生涯伴にいたいと願っていたのは、兄だけだった。ミモルヴァだけが、兄の孤独を知り、兄の苦悩を知り、兄の優しさを知っていた。親子ほども歳の離れた男の妻になどなりたくはなかった。だから婚姻のために国を離れる前、兄に抱かれた。兄の子を産み、夫の子と偽る。それが、自分の望まぬ人生を強制した周囲の人間すべてに対する復讐だった。
生涯兄だけを愛するつもりだった。だが、ノガルドに嫁した彼女は、どんなに冷たい態度を取っても、いつも変わらぬ優しさで接してくれる義理の息子に、いつの間にか恋情を抱くようになってしまった。許されない想い。それを紛らすために、ミモルヴァは息子のクレモスのことだけを考えるようにした。クレモスだけを見て、クレモスだけを愛する。しかし、息子が成長するに従って、ミモルヴァは、いつの間にか息子のことを、母としてではなく女として見詰めている自分に気付いた。実兄、義理の息子、実子と、愛してはならない男しか愛せない自分の罪業に苦しんだ。
そんなおり、夫が死んだ。クオンではなくクレモスを跡継ぎにと言い残して。夫の遺言は、ミモルヴァには重かった。夫の死を自分の罪への罰だと考えたミモルヴァは、苦悩に沈んだ。自分で自分を責めに責め、やがて心と体を衰弱させていった――
レメナス王は、生まれながらの精霊憑きだった。ヌガティック王家には、何代かに一度精霊憑きが生まれる。それを幸運の使者だと言うものもあれば、不吉の前兆と見るものもいる。レメナスは体の半分に精霊が憑いているせいで、右半分は美しい王子だったが、左半分は醜くただれ、悪魔のような姿をしていた。幼いころからその姿が苦痛だった。みながこの姿を笑う。この姿を恐れる。この姿をけなす。この姿をさげすむ。
なぜ自分だけこんな目に遭わねばならないのか。暗く苦しい幼少時代を過ごしたレメナスは、やがて、自分を苦しめ続けてきた精霊を追い出す方法を見つけた。より強い精霊と契約をすればいいのだ。
レメナスは、邪神との契約を望んだ。その契約は成立し、彼はこの世界と引き替えに、ありとあらゆる望みを叶える力を手に入れた。
邪精霊を身に宿したレメナスは、まずは醜く歪んだ左半身を治した。そして、自分を精霊憑きに産んだ父母を殺し、ヌガティックの王となった。王の権力を行使して、醜い姿を笑い、さげすんだ人々に対し、次々と報復していった。それでもレメナスは、笑われているような気がしてならない。
蛮族だと笑われるのが嫌で、ありとあらゆる文化を国に集めた。
こんなちっぽけな国で王を名乗っていると笑われるのを恐れ、周辺諸国を手に入れた。
邪精霊の力で、レメナス王は願ったものをすべて手に入れてきた。しかし、それでも、まだ誰かに笑われているような気がして仕方ない。
ならば、世界の中心を奪えばいい。
レメナス王はそう思った。
自分が世界の中心になれば、もう誰も笑うことは出来ないはずだ――
城門の下にクオンの即位を待ち望む人々がいる。だが、かれらが暴動に参加したのは、クオンのためではない。国のためでもない。希望も持てない日々の暮らしで蓄積された鬱憤、言いようのない苛立ち、遣り場のない憤懣のはけ口として、暴動をあおる反政府主義者の煽動に、わざと乗った。正義のためではなく、欲求不満のはけ口を欲していただけだった――
誰を信じていいのだろう――?
何を信じればいいのだろう――?
人の心の裏表。
美しく着飾った表面と、醜い裏側。
欺瞞に満ちた世界に、クオンは絶望しそうになる。
だが、クオンは、ノガルド王家の血を引いていた。ノガルドの王になるべく教育を受けてきた。
父上ならばどうなさいましたか――?
クオンは、心の中の父に問うた。
ノガルドの王となった父は、やはりこの試練に耐えたはずだ。
父は母を愛していたのだと、今でははっきりわかる。
父は母を愛していたからこそ、よそに子供を望むことをせず、クオンを後継者として育てた。世界中の人々を騙してまでも、ノガルド王の唯一の妻という母の地位を守ろうとしたのだ。
ノガルドの王であり、世界中の誰よりも信じる心を重んじた父が、人々に対して嘘をつき、信頼を裏切るようなことをあえて行った。その苦悩はいかほどであったか。
民衆を騙したことへの後悔と、本来の性を奪われて偽りの生を強制された娘への懺悔。
父は悩み、苦しみ、クレモスが生まれたことを、自分の罪に対する罰であり、同時に救いでもあると捉えた。そして、娘には本当の自分を取り戻してくれることを望み、自分の罪を償いたいと思った。
疑って生きるよりも、信じて死ね……我がノガルド王家にあるのは、ただ、それだけだ――
父の言葉が蘇る。
醜い心が裏。美しい心は表。どうしてそう思う? 醜さを隠すために、表だけ美しく飾っている? 世の中は偽善だらけか? そうか? 本当にそうか? そう思うか?
違う。
人の心というのは、美しいものも醜いものも等しく持っている。どちらが表でどちらが裏。そんなことはない。どちらも表で、どちらも裏だ。人はより良く生きようとするものだ。だから、悪い部分を出さぬよう努める。それでも時々、何かのおりに、醜い部分は顔をのぞかせてしまうもの。しかし、それがその人の本質ではない。醜い部分が本質で、美しい部分がそれを隠す手段だなどと、どうしてそう簡単に決めつけてしまうのか私にはわからない。美しい部分も、ちゃんとその人の本質じゃないか。
悪人としか見えない人間の中にも、その心の裏側に、誰かを大切に思う心が隠れている。人の心というものは、本当に不思議なものだ。
人は善悪の両方を持ち合わせて、常に揺れ動く心を自分で制御しながら生きている。
だから、人を信じなさいと言うのだ。
人が、より良く生きたいと望むものであるということを。
自分を悪に落とすことを、喜んでいるわけではないことを。
常に、悪と戦い、闇と戦っているということを。
自分だけでなく、他の人間にもそれが出来るということを、
信じるんだ――
レトの手が触れた。クオンを励ますように、指を絡ませてくる。
肌の温もりから、血の鼓動が伝わってくる。この血はアガンの心臓から流れてきている。
アガンの苦悩が伝わってくる。
アガンはずっとクオンを愛していた。しかし、男であるクオンを愛した自分を認めることができずに思い悩んでいた。だから、クオンへの愛はずっと心に秘めてきた。そのままずっと秘めたまま、生涯忠実な家臣として仕えるつもりだったのだ。
それでも、溢れ出てくる愛が見えないわけがない。クオンはずっと知っていた。アガンの愛に包まれている自分を幸せだと思っていた。だが、アガンと同じ理由で、決してそれを表に出すわけにはいかないと思っていた。これまでは舞い込んでくる縁談をすべて退けてきたが、やがていつかは、アガンの愛には背を向けて、妻を娶らねばならいないのだと覚悟していた。
指先から、レトの愛も流れ込んでくる。
男であるとか、女であるとか、人間であるとか、竜であるとか、そんな姿かたちなど関係なく、魂は愛し合うことが出来る。
クオンは、アガンを愛しいと思った。レトを愛しいと思った。かれらだけではない。レオルドもクラウシスもエメナもリリナもトッド・アーレムもダングラード公爵もサザもミモルヴァも、城門を見上げる民衆も、そこかしこで気を失っている衛兵たちも、そして、レメナス王すらも愛おしいと思った。
善と悪のはざまで、泥だらけになってもがき、足掻く人間たちが、たまらなく愛おしかった。
その想いを、届ける。
泥沼の中から真っ直ぐに伸びて花開く真っ白な蓮にも似た、真っ暗闇を割いて昇る旭日にも似た、魂の底から突き上げてくる想いを、両手ですくい上げて、天に向かって解き放つ。
宝冠から、何か温かいものが溢れ出ているような気がする。
それが世界を満たしてゆく。
殺気だっていた民衆が、武器を握った手を下ろし、ポカンとした顔で城門の上のクオンを見上げている。
クオンは、世界中の人々に〝愛〟を届けた。〝信じる〟という心を届けた。
その想いに呼応して、人々の想いが返ってくる。ノガルドの王を愛し、信頼する人々の心が。
自分は、愛され、信じられている――!
温かな一体感に包まれる。世界中の人々と、今、心が繋がっているのがわかる。美しさも、醜さも、すべてひっくるめて人間そのものとして、わかり合える、信じ合える、愛し合える。幻想ではなく、人と人とは、確かに繋がり合うことが出来るのだと、心の底から感じている。
それは、とても不思議な、それでいてとても幸福な感覚だった。
「クオン陛下!」
誰かが叫んだ。
その叫びは次々に伝播してゆく。
「クオン陛下! ノガルドの真の王!」
「新しい王の誕生だ!」
歓喜の渦が巻き起こる。
人々はいま、世界の中心に新しい王が誕生したことを魂で知ったのだ。
だが、次の瞬間、空気が腐るような気配がして、宙から男が出てきた。
白金の髪をした男の出現に、歓呼の声が途絶える。
「そいつは女だ」
レメナス王は、クオンの長衣に手をかけ引き裂いた。胸の豊かさが露わになる。
「女はノガルドの王になれない!」
王の言葉と共に鬨の声が上がった。斬竜騎士団が城門前広場に到着したのだ。
斬竜騎士団は、黒く重たい気に包まれている。どうやらレメナス王の魔法が作用しているらしい。自由な意思を奪われ、王の意のままに動くように仕向けられている騎士団の面々には、クオンの愛も信頼も届かなかったようだ。
レメナス王が手を上げると、斬竜騎士団は鎮まった。微動だにせず、広場を埋め尽くす人々に、無言の圧力を与える。
王は満足げに微笑むと、クオンを強引に抱き寄せ、唇を奪った。
「ノガルドの後継者は失われた。もはやこの国を継ぐものはいない。この国は滅びる。だが、安心せよ。この女を我が妻とすることで、私がこの国の王となり、この国を救ってやる。この国に未来をもたらしてやろう」




