4.裏切り
その男は、空気の中から突然染みだしてきた。
何らかの魔法が使われたことはわかったが、レトが使う魔法とは異質な術のようだった。
レトは首を傾げ、臭いを嗅いだ。腐臭はしないのだが、空気が腐ってゆくような独得の気配が辺りに広がっていく。その異様な気配を、他の者たちも察したようだ。かれらが一斉に振り向くと、宙から現れた男は唇に酷薄な笑みを浮かべた。
次の瞬間、空気が一気に重くなった。クォードとダウルド、そして、クオンが吹き飛ばされて壁に激突する。
「レメナス王!」
アガンが、叫ぶと同時に剣を突き出していた。その剣は真っ直ぐ正確に相手の心臓を目掛けていたのだが、レメナス王と呼ばれた男の手にはいつの間にか剣が握られており、アガンの一撃を軽々と弾いていた。
アガンは一歩下がると、低く構えてレメナス王を睨み付けた。王は余裕の笑みを浮かべ、アガンを見下ろしている。
レトはクオンに近付くと、王子の横に跪き、ぐったりとした体を抱え上げた。頬に手を当て、治癒の術を送り込む。
そこへ、再び空気が腐ってゆくような気配が生じた。顔を上げると、宙から少年が湧き出してくるところだった。レメナス王によく似た、白金の髪に氷のような水色の目をした少年だ。それに続いて白髪白髭の男が出てきた。
「エレングス!」白髭の男を見て、アガンが低く唸った。「どういうことだ……?」
エレングスと呼ばれた男は、アガンに一礼すると、少年の肩を抱いて壁際に下がった。
「エレングス!」
アガンの再度の呼び掛けは、レメナス王の切っ先に遮られた。刃の先端がアガンの頬を掠め、赤い筋を作る。
アガンはレメナス王を睨み付けると、再び王に向かって斬り込んだ。
アガンは素早く剣を繰り出すが、レメナス王は一歩も動くことなく、すべての攻撃を見切ったように楽々と弾いていく。時間を操作するような何らかの魔法が働いているようだ。アガンの攻撃は掠りもしない。
数合やりあったあと、さすがに尋常な敵ではないと悟ったようで、アガンは、うしろへ飛び退った。その隙に、たった今アガンの目の前にいたはずのレメナス王が、アガンの左側から剣を突き出していた。
アガンの左脇腹に、レメナス王の剣が深々と刺さる。
顔を歪めるアガンを、レメナス王は冷笑を浮かべて見下ろし、剣を引き抜いた。
血が噴き出し、アガンの手から剣が離れる。アガンは身を屈め、脇腹を押さえて呻いた。
レメナス王の氷のような視線がレトを捉えた。
「我が術が利かぬとは、お前はどうやら人ではないようだな……?」
レトは、動かぬ王子を腕に抱いたまま王を見詰め返した。
「なるほど……竜か。竜は人と交わらないはず。なぜ誇り高き竜族がそのような形で、人間の味方などしている?」
「吾は、人を食べた呪いで人にされた。元に戻るには〈真実の宝冠〉の力が必要だ。だから吾は、その者に味方している。その者は〈真実の宝冠〉を手に入れる手助けをすれば、吾を人に戻してくれると約束した」
レメナス王は、声を立てて笑った。
「なんと、竜とは無邪気で可愛らしい生き物であることよ! なあ、竜よ、お前の望みを私が叶えてやろう。私の魔力をもってすれば、お前を竜に戻すことなど造作ない」
レメナス王は、とろけるような笑みを浮かべた。
「なに、お前に力になれと言っているのではない。私が宝冠を手に入れるまでの間、黙って見ていてくれればそれでいい。邪魔さえしなければ、その礼に、私がお前を竜に戻してやろう」
王の言葉に興味はなかった。レトは、アガンを見た。アガンは、傷ついた脇腹を押さえ、歯を食いしばってレトを睨んでいた。額に汗が浮かび、息は荒く、顔は青ざめている。
「吾は、あの男と約束をしている。宝冠を手に入れるまで助けると」
視線を戻すと、王は唇の端をキュッとつり上げた。
「元宰相と約束? この男の言葉を信じると? これはおかしい」
レメナス王は声を立てて笑った。
「竜というのは悲しい生き物だな。嘘をつかれ騙されても、それでも相手の言葉を信じてしまうそうだな。そのせいで、我が祖先によって、何千という竜が殺されたというのに。
我が国には、竜がどれほど愚かであったかを語る話が山と伝わっている。三百年とも四百年ともいわれる寿命を持ちながら、一生赤子のように素直で単純なまま、成熟することがない。己の愚かさを省みることがないとは、なんと憐れなものよ」
王は憐憫の情を顔に浮かべつつ、首を振った。
「この男といかなる約束をしたかは知らぬ。だが、この男が誰かと交わした約束を、そのまま守ったことなど聞いたことがない。この男の噂は山のように耳に入ってきているが、どれもが、いかにこの男が巧妙で、ずる賢く、言葉で人の心を弄び、己の自由に動かしてきたか、そればかりだ。この男が約束を守り、相手に対して誠意を尽くした話などついぞ聞いたことがない。
竜という生き物は、疑うことを知らないそうだが、教えてやろう、人という生き物は騙すものなのだ。そして、そこにいるお前が約束を交わしたという男は、騙すことでのし上がってきた。己の利益のために、多くの人間を騙し、そそのかすことで、自在に操ってきた。
よいか、竜よ。信じるという行為は、相手が信じるに足りる場合に限るのだ。この男のような、信じる心を利用して、相手をたぶらかすような者を信じてはならない」
「なるほど」レトは頷いた。「吾が汝の邪魔をしなければ、それでいいのだな?」
「その通り。どうやらお前は賢い竜のようだ。契約成立だ。ゆめゆめ約束を違えるな」
レメナス王は、再び声を立てて笑った。