5.ひとつの鍵
「アガン!!」
思わず名前を叫んで首に抱きつくと、アガンは、ちょっと困ったような顔をして、クオンの体を引きはがした。
「ありがとう、アガン!」
嬉しくて仕方ない。父が死んでまもなく一年になろうとしている。なのに、葬儀にも出られず、未だ墓参もしていないことが、ずっと心に引っかかっていたのだ。不孝な息子であることが心苦しかった。
王家の霊廟へ行くと言ってくれたアガンの心遣いが嬉しかった。あと二日で開戦の予定だ。一旦戦争が始まれば、終結するまで父王に会いに行くことは出来まい。
生者と死者という隔てはあるものの、再び父に会える。それだけで幸せだった。
ノガルドに到着して六日目。月の障りも終わって、クオンの体調はすっかり良くなっていた。館に籠もっている生活に倦んできたところでもある。アガンの提案は、これまで我慢してきた様々なことに対しての、素敵なご褒美に思えた。
ここまでの旅と同様、アガンはテーレの商人、クオンはその妻として馬車に乗り込んだ。ノガルドが初めての友人夫妻を案内するという名目で、クォードが同行する。
ダウルドも一緒に行きたがったが、さすがに三人が首を揃えれば、いくら姿を変えていても、見知った人間に会えば気取られる可能性がある。ダウルドもそれは承知していて、館に残って竜が好き勝手しないように見張っているように、というアガンの言葉に素直に頷いた。
「あの竜が、魔法で我々の姿を変えてくれれば、何の面倒もないんですがね」
苦笑するダウルドに、アガンは言った。
「姿かたちを変えるというような、偽りを施す魔法は、竜には使えないそうです。だから自分の姿を元に戻すことも出来ないし、殿下の姿を元に戻すことも出来ない。竜の魔法は、自然に対して助けを乞い、自然がそれに応えてくれるというものだそうです」
「何でも出来そうなくせに、わりと不便なんだな」
クオンが言うと、アガンは頷いた。
「そうですね。しかし、神にすら自由にはならないのが、この世界というものです」
「だからこそ、この世は面白い!」
アガンの言葉にクォードが、そう付け加えた。
クオンは苦笑した。
しかし、神の勝手にならないのは良いことだ。邪神の勝手がまかり通って、ノガルドが葬り去られるのは許せない。
三人を乗せた馬車は、西へ向かった。
ノガルド島の南にはポーティバル山という小高い山があり、その南面の中腹に王城がある。王城の真下には貴族や官僚、豪商などの住む街が広がり、東側には商業区と一般庶民の住居がゴチャゴチャとひしめきあっている。そして、王都の西の外れは、死者の国。静謐の場所。聖なる土地となっていた。
王家の霊廟の他、各貴族の墓所があり、一般市民の墓地も西側に集中している。ところどころに高くそびえているのは、神々のための神殿だ。
王家の霊廟は、天帝シルヴェルム・ムの神殿でもあり、一般市民の参拝を許可していた。
東側の商業区にあるクォードの館から、西の外れまで半日かけてたどり着いた。
巨大な門の前で馬車を降りる。
クオンは、茶色い結い髪の鬘を着け、純白のドレスに身を包んでいる。アガンとクォードも、霊廟の参拝にふさわしく、正装である白い長衣を着ていた。
アガンはこれまでと同様に短く切ってある髪を黒く染めたうえに、付け髭をしている。うっかり知り合いに出会ったとしても、間近でこちらをじっくりと見ない限り気付かれないに違いない。
長い参道を徒歩で行くと、天にそびえる大理石の聖堂が見えてくる。
白亜の霊廟の前は四角い広場になっており、その中央に大きな池がある。参拝するには、まず靴を脱ぎ、丸い池の周囲を右回りに三回まわって、池に湛えられた聖水に指先を浸し、その水で額を濡らして、身を清めねばならない。
クオンたち以外にも多くの参拝者がいた。庶民もいれば、裕福な商人らしき者もいるし、貴族もいる。しかし、ノガルドの住人だとおぼしき人々は、みな俯き加減で生気に乏しい。顔を上げて歩いているのは、恰好からして、みな海外からの来訪者だ。そして、こんな場所まで、ヌガティックの兵士が睨みを利かしている。
クオンたちは、池で身を清めると、指先でシルヴェルム・ムの印を宙に描いて神の名を讃えてから、裸足のまま大理石の階段を上った。
開かれた扉の前で一礼し、中に足を踏み入れる。
真っ直ぐに通路が続いている。蝋燭はともっているのだが、太陽の光が差し込まない通路は、ひんやりとして薄暗い。
左右にはがらんとした空間が広がっている。長い通路を先に進むにしたがって、その空間が壺で埋まってゆく。
それらはみな、王家に連なる者たちの骨を納めたものだった。どの壺も、表面に彫刻を施し、美しく色づけされている。描かれた意匠は、壺の中の人物にちなむものだった。この霊廟が、すべて骨壺で埋まるとき、この世は終わるともいわれている。死者と生者の数が逆転し、この世から人がいなくなるとも。でもそれは、まだまだずっと先の話だ。
一番外側に納められている、新しい桃色の壺は、クオンの母のものだった。クオンは立ち止まり、床に跪いて祈りを捧げた。母の前に額ずくのは一年ぶりだった。
さらに通路を進むと、祭壇に突き当たる。
中央に、天帝シルヴェルム・ムを表す、大きな蓮の紋章が掲げられている。泥中から伸びて純白の花を開く蓮は、何ものにも汚されない純粋な精神を表すと同時に、太陽の象徴でもある。
紋章の下には階段状になった祭壇があり、最上段から順に歴代の王の骨が並べられている。中央にある金で象嵌された大きな骨壺は、初代ノガルド王のものだった。神殿が造られたのは二千年ほど前だ。初代の骨壺もそのころ作り直されたものだとクオンは聞いている。
二百二十個ほど置かれた壺の中で、三段目の左端に見覚えのない新しいものがあった。あれが父王の遺骨に違いない。
骨壺には父が好んで用いた翡翠の文様が刻印されている。色も見事な翡翠色だった。
父上――
心の中で叫ぶ。涙がこぼれた。
クオンは、真っ白な大理石の床に額ずいて、父に不孝を詫びた。そして、父の遺言通り、必ずクレモスをノガルドの真の王に迎えてみせると誓った。四千年続くノガルドの王家をここで潰すわけにはいかない。必ず必ずクレモスに継がせてみせると、父に約束した。
隣でアガンとクォードも額ずいて、亡き王へ祈りを捧げている。
長い祈りののち、三人が立ち上がると、神官が近付いてきた。
額に白い布を巻き、白い長衣を着た神官は、三人の前で立ち止まると、手にした儀仗を両手で捧げるようにして頭を下げた。
「テーレの商人メル・ウォリスさまと、アディル・エレウスさまとその奥方でございますね?」
神官は、クォードとアガンを偽名で呼んだ。
「いかにも」
クォードが答えると、神官は微笑みを浮かべた。
「このたびは、霊廟への喜捨、まことに殊勝なお心がけに存じます。その真摯なる信仰心に対して、神官長が直々に祝福を与えたいと申しております。ご同行いただけますでしょうか?」
「これは、願ってもない嬉しいお言葉。ぜひ、お願いいたします」
クォードは、さも嬉しそうに微笑んだ。
アガンも、微笑を浮かべて神官に黙礼を返した。
「では、こちらへ」
先導する神官のあとに続いて、祭壇の横にある小さな扉をくぐる。
急な申し出にクオンは不安を感じた。思わずアガンの袖を握りしめたが、アガンは、大丈夫だというように微笑んだだけだった。
扉の向こうは回廊になっていた。回廊に囲まれた部分は、たくさんの柱に支えられた広間になっている。広間は、身を屈めなくては頭をぶつけそうなくらい天井が低い。そこは、神官たちが神と語り合う場所のようだ。そこかしこの柱に背を預けて、胡座を組んだ膝の間に一本の蝋燭をともして、神官たちが瞑目している。
神官たちの瞑想を邪魔しないように、静かに回廊を歩いて、反対側にある扉をくぐる。その先は、ごく普通の館のような造りになっていた。廊下が続き、左右に木製の扉が並んでいる。荒削りな石で組まれた堅牢な壁面は、どこか牢獄を連想させる寒々しさがあった。
先導していた神官が、ひとつの扉の前で止まる。
「どうぞ、お入りください」
扉を開くと、一歩下がり、恭しく儀仗を捧げて頭を下げた。
クオンたちは、神官に黙礼して扉の中に入った。背後で扉が閉まる。
こぢんまりとした応接室のような場所だった。低い卓と、それを囲むように、ゆったりとした革張りの椅子が何脚か置かれている。壁にはぐるりと神話を描いたタペストリーがかけられており、石壁の荒々しさを覆い隠していた。
「ようこそ」
椅子から立ち上がってこちらを向いた人物を、クオンはよく知っていた。
「エレングス!」
一年ぶりに見る国務大臣は、少しやつれて見えた。
「なぜ、こんなところに?」
「ここは神聖な場所です。ここならば、ヌガティック兵といえども無闇に立ち入ることは出来ませんから」
エレングスが微笑んだ。
「クォードから聞いてはいましたが……なんというか、そのお姿は……なんとも魅力的ですな」
冗談に笑うよりも、懐かしさで胸がいっぱいになった。
「エレングス、お前には……」
「クオンさま、何もおっしゃらなくて結構です。そのお顔を見れば、殿下のお気持ちは充分わかりますから。私のような者のことを気にかけてくださって、ありがとうございます」
深々と頭を下げる国務大臣に、クオンは、泣きそうになるのを押さえて微笑んだ。
エレングスも微笑みを返すと、みなに椅子を勧めた。
クオンは、エレングスと向かい合うように座り、その左右にクォードとアガンが腰掛けた。
「さて。あまり時間がありません。ここでぐずぐずしていると、私も怪しまれてしまいますからな」
白い髭を蓄えた大臣は、天帝の印を描いて一礼すると、一振りの短剣を差し出した。黄金の鞘には蓮の文様が刻まれている。
「宝物庫の鍵です」
短剣を受け取ったクオンは驚いた。
「これが、鍵?」
「この中に、鍵が隠されています。魔法による封印が厳重に施されており、正統な後継者以外取り出すことが出来ないようになっています。この剣自体も、ちょっとやそっとのことでは壊れないように出来ています。壊れるほどの衝撃を加えれば、鍵自体も壊れてしまう。安全に取り出すには、正しい手順が必要なのです」
「取り出し方は?」
「正しくノガルド国王の血を引くものが、この短剣を前に呪詞を唱えれば魔法の封印は解け、鍵を手に入れることが出来ます。残念ながらクレモスさまは、まだ国王さまから呪詞を伝授されていらっしゃらないようです。ですから、宝物庫の鍵を取り出せるのは、クオンさま、あなた様おひとりなのです」
クオンは、短剣を見た。蓮の文様の下に文字が刻まれている。
『白蓮の夢は、暁の光と共に結ばれる』
父の言葉を思い出し、不意に涙がこぼれた。
この神呪が、お前を守り、この国を護ってくれる――
クオンは涙を拭うと、天帝の呪詞を三度唱え印を切った。そして、目を閉じて、言葉に出してはならない天界の言葉で綴られた呪文を心の中で唱えた。
目を開けて短剣を見る。見た目は何の変化もないようだが、ちょっと動かすと、蓮の文様の辺りがカチャと鳴った。文様の凹凸に爪を引っかけてみると、蓮の模様と文字の部分が外れた。その下に青玉で出来た鍵が隠されていた。
「宝物庫の鍵ですね」
エレングスが瞳を輝かせて言った。
「いったいどうやって? クレモスさまも、その呪文は試されたのですが……」
「この呪文だけではダメだ。その後に、天界の言葉で綴られた呪文が必要なんだ」
「それは、どのような?」
「天界の言葉を口に出すわけにはいかない。クレモスも、おそらく教わっていると思う。俺が父に教わったのは、六つのころだったからな」
エレングスは乗りだしていた体を椅子に預け、溜息をついた。
「これはこちらでお預かりします」
鍵を取ろうとアガン手を伸ばす。エレングスは体を起こして、アガンの手を押さえた。
「その前に、そちらの鍵も出していただけないものですかな?」
鋭い眼光でアガンを見詰める。アガンはその視線を静かに受け流した。
「ここでは取り出せません。この鍵で第一の扉を開いたあと、第二の扉の前でのみ、鍵を取り出す呪文は効力を発揮します」
「なるほど……」
エレングスは、手を離して身を引くと、どうぞというように鍵を示した。
アガンは、宝物庫の鍵を握りしめた。
「アガンが持っている鍵も、同じように何かに隠されているのか?」
好奇心に駆られてクオンが問うと、アガンは頷いた。
「そうです。魔法によって厳重に封印されています。ただし、物の中にではなく、この私の体内に……」
クオンは目をみはった。
「お前の、中に……?」
「ええ、私の中にです。私自身が鍵の隠し場所なのです。取り出すには、扉の前で殿下が呪文を唱えるか、それとも、私を殺して、体中を切り刻んで探すしかありません。まあ、私の体はその剣ほどには頑丈ではありませんから、壊して取り出すのは簡単かもしれません」
アガンの美貌が壮絶な笑みを形作る。
「だがご心配なく。殿下を王にするまで、絶対に守り抜いてみせます」