4.愛を知る
薄暗い廊下を行く。
木で造られた建物には、石で出来た建物と違い、温かみと柔軟さがあった。堅牢さの面では石に劣るように思えるものの、包み込むような優しさがあり、石の建物にあった圧迫感がない。船もそうだったが、削りだした木材を巧妙に組み合わせて作り上げられた造形には、独得の美しさがあった。レトは、人間の作り出した建物が好きになりつつあった。
建物に限らず、船や馬車や様々な道具類や、衣服など、機能性と見た目との絶妙な関わりにレトは興味を抱いている。食事に使うスプーン一本にも人間は趣向を凝らす。そのこだわりを面白いと思った。ただ機能を果たせばよいというだけでなく、そこに美を求める人間たち。意匠を凝らした品々を見ると、ただ使うのではなく、心地よく使いたいという人間たちの欲求が見えてくる。
ひと月以上にわたって人間たちと係わってきたレトは、人間についてより多く知るようになった。知るようになればなるほど興味が湧いてくる。面白い存在だった。人間という生き物たちは。
最初は、自分が竜に戻るための手段としか考えていなかったが、今は、生活を共にすることを楽しんでいた。教わることはみな新鮮で、興味深かった。
今、レトは、アガンに手渡された図面を持って、館の中を歩いている。図面はこの館を描いたものだった。一枚の紙に、一階から三階までの平面図が並んでいる。
最初、レトは図面というものを理解できなかった。
初めて図面を見せられたのは、船の中だった。「ここが、この部屋だ」と、四角い形を指さすアガンに、「それは紙の上に引かれた線ではないのか?」とレトは訊ねた。
アガンは、紙の上に書かれた線が、実物と対応しているのだということを、根気よく説明してくれた。そして、ようやくレトも図面というのがどういうものであるか理解した。理解すると、こんなちっぽけな紙の中に多くの意味を含ませ、実物を知らない者にも、その場がどういう風になっているのか伝えることが出来る力をすごいと思った。
船の中では散々、図面と実物を見比べて歩き回った。アガンから、図面に描かれた長さと実際の距離との関係を、体で理解するようにと言われたためだが、何よりも、見比べて確かめることが面白かった。レトはすっかり図面の虜になっていた。
今も同じように、館の中を図面を持って歩くように言われている。船の中は歩き尽くして知り尽くしたが、館の中はまったく未知の世界だ。一歩あるくごとに発見がある。それが楽しかった。
一階二階と歩き回った末に、階段を上がって三階へ向かった。
真ん中に描かれた細長い部分は、今歩いている廊下。右側に並ぶ四角形のうち一番手前アガンの部屋。その奥がレトの部屋。そして、左側に並ぶ四角形のうち、真ん中にある最も大きなものがクオンのいる、中庭に面した南向きの部屋だ。
一歩二歩三歩……図面と実際を見比べながら、長さと距離の関係を確かめる。
クオンの部屋の前に来た。
昨日、馬車から降りたときには、かなり具合が悪そうだった。一晩経って、気分は良くなっただろうか?
クオンのことは気になる。人間になって初めて見たのがクオンだったせいかもしれないが、やはり、「愛しても構わない」と言ってくれたのが、クオンだけだったからだろう。レトにとってクオンは特別な人間だった。
クオンの部屋の扉を叩いてみる。
返事があった。
そっと扉を開けてのぞくと、クオンは寝台に起き上がって本を読んでいた。
「気分はどうだ?」
訊ねると、クオンは「だいぶいい」と微笑んだ。
「手を握ってもいいか」と訊くと、クオンは頷き、右手を差し出した。
寝台に近付き、側にあった椅子に座って、クオンの手を握る。指を絡めて治癒の魔法を送り込む。痛みをぬぐい、体の活力を取り戻せるように。
しばらくそうして魔法を送っていると、クオンは上気した顔で言った。
「お前は、こうやってアガンの体も治してくれていたんだな……ありがとう」
クオンの笑みは心地よかった。礼を言われるのは気持ちがいい。だからレトはアガンの言うことを聞く。言われたことをやり、ありがとうと言われるのを待つ。
誰かの役に立ち礼を言われることが嬉しいと思う、この感情は不思議だった。島にいたときにはなかったものだ。そういえば、いままでよりも感情が身近なものになってきたような気がする。これは、自分が人間の姿になって日数が立ち、より人間らしくなってきたのか、それとも、ノガルドに足を踏み入れ、〝心臓〟に近付いたためなのか。
「役に立てると嬉しい」
レトが素直に今思っていることを伝えると、クオンは驚いたような顔をしたあと、
「レトは人間を愛しはじめているのかもしれないな。ならばもうじき、竜に戻れるかもしれない。良かったな」
と言って満面の笑みを浮かべた。
クオンはレトのことを心配してくれている。竜に戻れる可能性を見つけて、自分のことのように喜んでくれている。体を流れる血が、温かいものに包まれてゆくような気がした。
「クオンにそう言われると、とても嬉しい。だから吾からも汝に礼を言おう。ありがとう」
クオンが微笑む。その微笑みに血が反応する。トクントクンと音を立てて素早く流れる。気分が高揚し、心地よい。
人間は愛し合うと、抱き締め、くちづけをするものらしい。水夫たちの会話を聞いてそれを知ったときには、なぜそんなことをするのか不思議で仕方なかったが、レトは今、無性にクオンを抱き締め、くちづけしてみたいと思った。アガンと唇を交わしたときのことを思い出す。アガンは、レトを騙そうとしてやったのだが、それでも嫌なものではなかった。クオンとのくちづけは、どんな気分をもたらしてくれるだろう? そう思うと、血がざわつき、いても立ってもいられなくなった。
手を伸ばしてクオンの頬に触れる。そのままゆっくり顔を近付けようとすると、クオンは急にこわばった顔になり、レトを突き飛ばした。
床に転んだレトは、クオンを見上げて言った。
「吾は、汝を愛している……のだと思う……」
言葉とは、やはり不思議なものだ。漠然としたものにはっきりとした形を与え、意味を与える。
言葉に出して気付いた。そうだ。自分はクオンを愛している。他のどの人間よりも大事に思い、側にいたいと願っている。認識した途端、それは揺るがぬ真実となり、レトを支配した。血が騒ぐ。血が猛る。身の内から焔が噴き出し、自分もクオンも共に焼き尽くしてしまいそうな気がした。
クオンは、逃げるように寝台の隅に後退った。
「俺が愛しているのは……」
クオンは、そこで言葉を切ったと思うと、不意に涙をこぼした。
「出て行ってくれ」
顔を覆って俯く。
クオンの姿から感じるのは、拒絶。
アガンを刺したときと同じように、全身でレトの存在を拒否している。
血がざわつく。「許せない」と血が叫ぶ。クオンのことを引き裂いてしまいたいような衝動に駆られた。
「吾が愛せば、汝は吾を愛してくれるのではなかったのか?」
制御が出来ず、自分でも思わぬ激しい口調が飛び出す。クオンは首を振った。
「人として愛そう、友として愛することも出来る。血の契りを交わして義兄弟として愛することも可能だ。でも、お前を伴侶としては愛せない。魂を分け合い、生涯を共に過ごす、唯一無二の存在として愛することは出来ない。男と女として愛し合うことは出来ないんだ。お前が望んでいる愛が、そういう愛であるならば、今の俺には、どうやら無理のようだ。済まない」
「汝にとっての唯一無二が吾ではないということは、汝にとっての唯一無二が他にいるという意味か?」
しかし、クオンは黙して答えない。
「誰なのだ? 汝の魂を奪い、愛を独占する者は?」
クオンはまた首を振った。
「そんな者はいない。俺は本来男だ。でも、今は女の姿をしている。今の俺は、男として女を愛することも、女として男を愛することも出来ない……。愛してはいけないんだ……愛するなんて許されない……。絶対にそんなことがあってはならない……。愛しちゃいけない……ダメなんだ……」
クオンは頭を抱えてうずくまった。
レトは、強引に触れようとしていた手を止めた。クオンは悲しんでいる。何をこんなに悲しんでいるのだろう? その悲しみを和らげてやりたいと思うのだが、竜であるレトには、人間の深い感情はまだわからない。理解し、同情し、慰めることも出来ない。ただわかっていることは、今、クオンに触れれば、クオンはより悲しむに違いないということだけだ。
悲しむクオンを見ているのは辛かった。何もしてやれない自分が歯がゆかった。
レトは、仕方なく立ち上がると、部屋を出た。
レトはクオンを愛している。それはもう紛れもない事実となってしまった。でも、クオンはレトを愛してはくれない。どうすればクオンの愛を自分に向けてもらえるだろうか?
レトはクオンに愛されたいと思う。しかし、愛されればレトは竜に戻ってしまう。竜に戻ってしまったら、人間として愛し合うことは出来ないのではないか。でも、レトは、クオンにずっと愛してもらいたかった。
人間とか竜とか、男とか女とか、どうしてそんな分け隔てがあるのだろうか? そんなことがどうして愛することの邪魔になるのだろう?
レトは考えた。色々考えに考え、そして、そっと溜息をこぼした。
どうやら人間を愛するということは、思いのほか複雑で、苦しいことのようだった。
翌日になると、クオンは体調が良くなったらしく、一階にある居間におりてきて、みなと共に過ごすようになった。食事も一緒に摂るようになった。
レトは、クオンに近付かなかった。言葉を交わすこともなかった。近付こうとするたびにクオンの拒絶の視線に阻まれた。だから、遠くからクオンを見るだけで我慢する。
それから毎日、レトはクオンを見詰め続けた。ずっとクオンだけを見ていた。
だから気付いた。クオンの目は、いつでもあの男の姿を追っている。自分がクオンを見詰めるのと同じように、クオンはあの男のことだけを見ている。
嘘つきめ――
レトは、自分の体の中で、暗い焔が燃えているのを感じる。
人間は嘘をつく。嘘のない人間だと思っていたクオンですら、やはり嘘をつくのだ。
レトは、クオンを愛しているからこそ気付いた。クオンはあの男を愛している。唯一無二の存在として求めている。男だとか女だとか、そんな表面的な形が、クオンを悩ませているらしい。それほど悩むのならばいっそ、あんな男など愛さなければいいのに。
もし――
もし、あの男がいなくなったなら、クオンはあの男のことなど忘れて、自分のことを愛してくれるだろうか? あの男に替わって、唯一無二の存在として想ってくれるだろうか?
一度殺しかけた。
殺し方はわかっている。簡単だ。胸をたったひと突き。それだけでいい。それでこの世から完全にいなくなる。
いや、ひと突きでは物足りない。クオンの目の前で、あの男を切り刻んだら、どれだけ気持ちがすっきりするだろう。本当は、竜の姿で、がぶりと噛みつき、肉を裂き、骨を砕いて、グジャグジャにしてやりたいところだ。
これが、アガンの言っていた〝憎しみ〟という感情なのだろうか?
やはり心臓が近くにあるのだろうか。心が近い。今までになく昂ぶっている。感情が強く激しく突き上げてくる。
「吾はクオンを愛している」
レトは、男に近付くと言った。
男は眉を寄せてレトを見た。
「だが、クオンは吾を愛してはくれない。汝がいるせいだ」
男は、片方の眉を上げて見せた。
「汝を殺してもいいか?」
男は声を立てて笑った。
「今は困る。それに〈真実の宝冠〉を取り戻すまでは、協力してくれる約束だろう?」
レトは頷いた。
「約束は守る」
「期待している」
満足げに微笑むアガンを見ながら、レトは、竜に戻った自分がこの男を噛み砕くさまを思い浮かべ、舌なめずりをした。
それは、とても心地よい空想だった。