3.約束
だるい体を寝台に横たえ、クオンはぼんやりと天井を見ていた。
頭と下腹部に重い痛みがある。
つくづく、女の体は面倒だと思った。
最初のころはまだ、体が女になったといっても、大した変化は感じなかった。それが、月日を経るに従って、微妙に変わってきた。
不規則ながら月のものが訪れるようになると最悪だった。体調が悪くなるだけでなく、気分にまで大きく影響した。たわいのないことで苛つき、感情が激しく揺れ動く。何でもないことに泣きそうになったり、怒りを感じたりする自分に、ほとほと嫌気がさす。女たちは、よくこんな不規則に変化する心と体に絶えられるものだ。
何でもないときはまだ、女の体でも構わないと思うのだが、月経が訪れ、こうして頭痛と腹痛に見舞われ、理由のない苛立ちにさいなまれると、早く男の体に戻りたいものだと思う。長くこの姿のままでいると、心の底まですっかり女に染まってしまいそうで恐かった。
このまま男に戻れなかったら、いったいどうなるのだろう。
女として一生を終えるしかなかったら――?
男と結婚し、子供を産んで母になるのだろうか?
そんな自分は、ちょっと想像できなかった。
見えない未来への不安と、自分を取り巻く現状や、様々な出来事が重なり合って、クオンの心を押し潰しそうになる。重みに耐えきれず気持ちが沈んでいく。
クオンは、そっと呪文を唱えた。
「白蓮の夢は、暁の光と共に結ばれる。願わくは我が夢も、共に結実せんことを……」
天帝シルヴェルム・ムの加護を求める呪文。誰もが知っている呪詞だったが、父王は、王家に伝わる特別の祈りを教えてくれた。
天帝の加護を求める呪文を三回唱えてシルヴェルム・ムの印を切ったそのあとに、心の中でさらに天帝を讃える言葉を唱えるように言った。その言葉は、天界の言葉であり、人間は絶対に口に出してはならない。
父は、神を表す印を宙に描き、その印が示す音で、言葉に出してはいけない神呪を教えてくれた。まだ幼かったクオンには印を読み取ることからして難しく、長い呪文を覚えるのはさらに大変だった。父はクオンがしっかり覚えるまで、何度も根気よく教えてくれた。そして、すっかり覚えることが出来ると、クオンの頭を撫でて、この国に大事が起こったとき、お前が深い悲しみに襲われたとき、この神呪が、お前を守り、この国を護ってくれると言った。
クオンはこれまで何度もこの呪文を唱えてきた。そのたびに、心の中に小さな明かりがともるような気がした。それは小さな小さなともしびなのだが、闇の中で迷い凍えている魂には、暖かな道しるべだった。天帝の加護は確かに生きているのだと思う。
今、捧げた祈りによって魂にともった明かりに、まるで引き寄せられたかのように、扉を叩く音がした。
ダウルドだろうと思って入室を許可する。いつも自分を励まし、支えてくれる従者の声が聞きたいと思った。
「ご気分は?」
予想に反して、聞こえてきたのはダウルドのだみ声ではなく、アガンの深く柔らかな声だった。クオンは胸の前で小さくそっと、天帝の印を切った。
「お食事にいらっしゃらないので、お持ちしました」
シチューのいい匂いがした。
お腹は空いているような気がするが、あまり食べたいとは思わない。
「食べさせて差しあげましょうか?」
笑いを含む声に慌てて体を起こす。
「いい、自分で食べられる」
アガンは笑って皿を差し出した。
ひとたび口に運ぶと、やはりお腹が空いていたようで、あっという間に平らげてしまった。
皿を返すとき、寝台のふちに座ってこちらをじっと見詰めているアガンと目が合った。微笑みに胸が痛くなる。
アガンが求めているのは、ノガルドの王だ。今、クオンのことをこうして大切にしてくれるのは、クオンこそが真のノガルド王だと信じているからこそだ。クレモスが〈真実の宝冠〉に受け入れられれば、アガンはクレモスの宰相となり、クレモスだけを見て生きていくのだろう。そのときは、クオンのことなど目に入らなくなっているに違いない。そう思うと、無性に寂しかった。お前がいなければ生きていけないと言った言葉は誇張ではなかった。これまで、多くのことでアガンに助けられてきた。いつも傍らにいるこの男を、クオンは誰よりも頼りにしていた。アガンがいないと、見知らぬ土地のひとり放り出されたかのように不安になる。
「もし――」馬鹿なことだとわかっていながら、つい口をついて出てしまう。「もし、俺が、女のまま元に戻れなかったら、お前はどうする?」
王子でなくても、ノガルドの王でなくても、それでも側にいてくれる人間が欲しかった。姿かたちや立場など関係なく、自分を自分として見てくれる人間を欲していた。表面的な変化などでは崩れない確かな繋がりが欲しかった。それが友情と呼ばれるものなのか、愛情と呼ばれるものなのかはわからなかったが、何があっても変わらない確かな絆が欲しかった。母を失い、父を失い、弟とも引き裂かれ、今のクオンは孤独そのものだった。これで王子という呼称がなくなれば、今、自分を支えてくれている者たちも、みな自分を捨てて去っていくのだろう。自分の価値とは何なのだろう? 素のままの、クオンという人間の価値は……?
「もし殿下が女性のまま、元に戻れなかったとしたら――」
アガンが痛いほど真剣な眼差しでこちらを見ている。クオンも、思わず真剣に見詰め返した。
「喜んで我が妻に乞いましょう」
一瞬の沈黙ののち、ふたり揃って吹き出した。
お腹を抱えて笑う。
アガンとは十代のころからずっと一緒にいた。大人にばかり囲まれた宮中で、アガンは数少ない遊び相手だった。六歳年上のアガンには色々教わった。王宮をこっそりとぬけだして街で遊んだ。酒も女もアガンに教わった。夜中に侍女たちの部屋へ忍びこもうとして見つかり、父王にこっぴどくしかられたときも、アガンと一緒だった。そのアガンが、自分を妻にすると言う。これほど面白い冗談はないだろう。
腹の底から笑い転げることで、気持ちが軽くなった。このひと月あまりというもの、自分はいったい何を血迷っていたのだろう。アガンはアガンだ。変わるわけがない。宰相に就任して以来、アガンはクオンを友人としてではなく、仕えるべき主として扱ってきた。言葉遣いも絶対に崩さず、態度も慇懃だ。だが、ふたりの関係は一緒に遊びまわっていたころとなんら変わらない。これからも、立場が変わろうと、何が変わろうと、表面的なものはともかく、アガンの本質は変わらないはずだ。どうしてそれを疑おうとしてしまったのだろう? 信じることがクオンのすべてだったというのに。
信じるというところに、クオンの本質はある。王子でなくなろうと、男でなくなろうと、信じる心を貫く限り、クオンはノガルド王の子であり、クオンという人間であり続けられる。
「面白い! いいぞ、アガン。約束だ。もしそうなったら、俺はお前の妻になってやる」
笑いすぎてにじんだ涙を拭きながらクオンが言うと、アガンは静かに微笑んだ。
「ええ、約束です」