6.心のありか
まる二日、部屋で過ごした。扉の外にはレオルドとクラウシスが交替で抜き身の剣を下げて立っていた。レトは、鉄の武器で傷をつけられる危険を冒してまで、かれらを押しのけて部屋の外に出る気にはなれなかったし、その必要も感じなかった。
ダウルドが食事を運んでくる。一緒に食べようと招待されることはなかったし、クオンが部屋を訪れることもなかった。竜に戻るためには、クオンと愛し合わなくてはならないというのに、クオンはレトを拒絶している。
クオンはアガンやダウルドのことを愛していると言っていた。かれらはクオンにとって、なくてはならない存在らしい。どうやら愛というのは、相手を掛け替えのないものだと思うことのようだ。
それが愛というものの正体であるならば、レトは充分クオンを愛しているような気がする。ダウルドやレオルド、クラウシスにも頼んでみたが、やはり、レトを愛しても構わないとは言ってくれない。冷たい嗤いで拒否された。クオンだけなのだ。クオンしかいない。レトにとって、「愛してもいい」と言ってくれたクオンは、他に替え難い大切な存在だった。
それなのに、レトはまだ竜に戻ることが出来ない。だとすれば、レトはクオンを愛していても、クオンはまだレトのことを掛け替えのない者だと思ってくれていないということだ。だからクオンに会って、レトのことを大切だと思ってもらうには、どうしたらいいのか聞きたかった。だが、クオンに会えない。会うのを拒まれている。
かといって、レトに焦燥はなかった。百年、島に閉じこめられていた。退屈な島で、飽きるほど同じ毎日を繰り返してきた。あの時間の長さに比べれば、一日や二日はどうということもない。もちろん早く戻れるならばそれに越したことはないが、一年、二年、いや、十年や二十年だろうと、竜に戻れるならばいつまでも待つ。クオンが愛してくれるまで、ずっと待ち続ける。心配があるとすれば、刺すだけで簡単に死んでしまう人間の脆さだ。愛し合う前に死なれては困る。レトは出来ることならば、クオンの側で、あの壊れやすい体を守りたいと思った。
二日目の夕食を運んできたとき、アガンが目を醒ました、とダウルドが言った。
「それは良かった」と、笑みを向けたが、ダウルドは渋い顔で立ち去った。
夜半過ぎ、扉を叩く音がした。
「どうぞ」
扉の音にはそう応じるものだとダウルドに言われたので、以来その通りにしている。
扉が開き、入ってきたのはアガンだった。
ゆったりとした長衣をまとい、たったひとりで立っていた。
「生きているのか?」
訊ねると、アガンは苦笑した。まだ顔が青白い。立っているのが辛いのか、少し体がふらついている。
「幸い生きのびた。そのことで謝罪と、礼を言いにきた」
レトは、少しだけ警戒する。この男を信じていいのかどうかわからない。また自分を騙そうとしているかもしれない。
「お前のことを疑っていた。竜などという妙な作り話で殿下の気を惹き、罠に嵌めようとしているのではないかと勘ぐった。殿下の命を守るために、危険なものを殿下に近付けさせたくなかった。だから、私はお前を殺そうとした……」
アガンは、両手を開いて、何も隠し持っていないことを示すと、レトの足許に跪いた。
「お前を疑い、殺そうとして済まなかった。そして、お前にそんな仕打ちをした私の命を、お前は救ってくれた。そのまま殺しても一向に構わなかったはずなのに。この命を救ってくれたことに感謝する。惜しい命でも、大した命でもないが、流浪の身の殿下には、こんな命であっても必要だ。今はひとりでも多く殿下を助ける人間が必要なのだ。再び殿下のために生きられるようにしてくれたお前に、私は心から感謝している。済まなかった。ありがとう」
アガンは真っ直ぐにレトを見詰めている。
済まなかった。ありがとう――
クオンも同じことを言った。
人間は不思議だ。嘘をつく、過ちを犯す。それでも、そのことに気付いたとき、過ちを認め、悔い、謝罪するものらしい。人間たちは、それで嘘や過ちを帳消しにするのだろうか? なかったことに出来てしまうものなのか? 竜であるレトにはよくわからない。
過ちを謝罪で帳消しにすることが出来るのならば、レトが人を食ったことも、謝れば済むのか? なかったことにして貰えるのだろうか? そうであるならば、人を愛する必要などないのではないか?
あまりに不思議に思ったので、アガンに問うた。
「人は、謝罪することで嘘も過ちも取り消すことが出来るのか?」
アガンは驚いた顔をしてレトを見詰めた。しばし何かを考えているようだったが、立ち上がると、溜息と共に呟いた。
「謝罪で消える罪はない」
「ならば何のために謝る?」
「相手に与えた痛みを自分も背負うため……だろうか?」
「ならば、謝罪は不要だ。汝のつけた傷は吾を痛めていない」
刺された傷は痛くもなんともなかった。
「でも、心は? 謝罪は、心の痛みを背負うためだ。お前とて、たとえ体は痛まなくても、私が騙し裏切ったことで、心が痛んだはずだ」
「心……?」
「私に騙されて口惜しかったのではないか? 裏切られたことで私を憎く思ったのではないか?」
言われてレトは少し考えた。
「騙されたと気付いて、汝のことを信じてはいけないのだと思った。だが、それだけだ。騙したのは汝だ。偽りを語ることで己の魂を穢したのは汝自身だ。騙されただけの吾がなぜ口惜しく思わなくてはならない? 確かに胸を刺されたが、吾は死んだわけでも、痛みを感じたわけでもない。だから恨む意味がない。そもそも憎むとはどんな感情なのか、吾にはよくわからない」
「憎しみを知らない?」
アガンは驚いた顔をした。レトを見詰め、そして、「ああ」と呟き、憐れむような目で言った
「なるほど。だから、愛も知らないのだな……」
「憎しみを知ることが、どうして愛と関係がある?」
「憎しみも愛もここから生まれる」アガンは自分の左胸を指さした。「頭で考え、心臓で感じる――思考は頭脳に宿り、心は心臓に宿っている」
言われて気付いた。竜は強い感情を抱くことはない。感情がないわけではない。ただ、どれも遠くて薄いのだ。
「確かにそうかもしれない」レトは自分の胸を見下ろした。「竜の心臓は体の中にはない。だから吾は、考えることは出来ても、人間のように感じることは、出来ないのだな。心はいつも、少し遠いところにある。悦びも、悲しみも、苦しみもあるが、いつも少し遠い。汝に、吾がクオンを騙すために竜だと偽っているのではと疑われていたと聞いて、少し悲しかった。疑われるのは悲しい。だが、その悲しみも、遠いところにあった」
レトは、くるくると笑い怒り泣くクオンの顔を思い出した。アガンもダウルドも、みな豊かに変化する心を持っている。それは心臓を持っているからなのか。
「お前には心臓がない。それを見て、私はお前が本当に竜であることを知った。竜の心臓は、この世のどこかにあって、それを見つけることが出来た竜は、竜の中の竜、天空の主、竜族の王になれると聞いたことがある」
アガンの言葉に血がざわついた。
レトに知識と知恵を与えてくれる祖先の血。それは、竜の心臓から流れてくる。竜の心臓は祖先そのものであり、竜そのものだ。竜の真実が隠されている。だから心臓を見つけ出し、己の体に戻すことが出来た竜は、竜族のすべてを手に入れ、竜の王になれる。竜王ガーファフェリエは、心臓を取り戻した竜だった。ガーファフェリエの死後、心臓を取り戻した竜はいない。心臓のありかを見つけ出すことが出来た竜もいない。
「愛するためには心が必要だ。お前が愛を手に入れるためには、心臓を取り戻す必要があるのではないだろうか?」
アガンの瞳が、窓から差し込む月光を受けて、静かに光っている。
レトは、刺された日のことを思い出した。あの日のアガンも、こんな目をしていなかったか。アガンはまた、罠に嵌めようとしてるのだろうか?
しかし、アガンは過ちを認め謝罪した。人間の心というものがよく理解できなかったが、さらに過ちを重ねて魂を穢そうとするほど、この男が愚かだとは思えなかった。
「この広い地上で、吾のための心臓がどこにあるのかわからない。どこを探せばいいのかも……」
レトは正直に答えた。
「私は、その場所を知っている」
アガンがさらりと言ってのけた。あまりにも簡単に出てきた言葉を信じて良いのか、どうなのか――
「ノガルド王家に伝わる〈真実の宝冠〉は、透き通った金色の物質で作られており、中央に大きな赤い宝石が埋め込まれている。宝冠は竜の骨で出来ているといわれ、宝石は竜の心臓だと言い伝えられている。本当かどうか、私にはわからない。だが、お前が見れば確かめることが出来るのではないか?」
レトの体を流れる血が騒ぎだした。体中がざわつく。島を出たときも、ざわつく血に導かれたが、これほどまで強い感覚は初めてだった。
「どこにあるのだ? その〈真実の宝冠〉とやらは?」
激しい欲求に喉がひりつく。
「ノガルドの宮殿の奥深く、宝物庫にある。鍵は二つ。そのうちひとつは敵方にあり、ひとつは私が持っている。敵が持つ鍵を手に入れなくては宝物庫は開けられない。その鍵を手に入れる方途はある。しかし、敵側の首魁は魔法を操る。強力な魔法だ。我々の仲間には対抗できるだけの力の強い魔法使いがいない。魔法の助けなしに宝冠を取り戻すことはほぼ不可能だろう。だが、竜であるお前は人間には真似できない魔法が使えるようだ。お前のその力の助けがあれば、〈真実の宝冠〉を取り戻すことが出来ると思う。
〈真実の宝冠〉は、偽りを暴き、真実を表す力を持っている。もし、言い伝えが誤りで、宝冠の宝石が竜の心臓ではなかったとしても、お前の姿を元に戻すことが出来るはずだ。宝冠には、間違いなくその力が宿っている。我々を助けることで、お前は、人間と愛し合う必要もなく、真実の姿を取り戻せる。どうだ? 協力してはもらえないだろうか?」
アガンは静かな目でレトを見詰めている。この人間の言葉を信じていいのかどうかわからない。それでもレトは即座に答えていた。
「汝らに協力しよう。そのかわり、吾が竜に戻るのを手伝って欲しい」
人間の薄い唇がキュッとつり上がった。
「約束する」