4.愛
人間の愛には、様々な種類があるらしい。
父が子を愛する。子が父を愛する。母が子を愛する。子が母を愛する。王が臣下を愛する。臣下が王を愛する。妻が夫を愛する。夫が妻を愛する。兄が弟を愛する。弟が兄を愛する――どれも同じ愛という言葉を使っていながら、みな微妙に色合いが違うようだ。
ならば、吾は、どのような愛で人間を愛すればいいのだろうか――?
レトは考える。
数多くある愛の中で、人間になった竜を竜に戻すためには、どのような愛が必要なのだろう?
足許に横たわる男を見た。この男が教えてくれた愛は、レトにとって必要な愛ではなかったらしい。レトの体に変化はない。相変わらずふにゃふにゃとした人間の形を保っている。
男の体に突き刺した短剣の横から、赤い液体があふれている。ツンと血の臭いが鼻をついた。美味そうな臭いに人間の味を思い出す。腹が鳴った。
少しぐらいなら飲ませてもらっても構わないだろうかと思いながら、舌なめずりをしていると、ドタドタと廊下をやってくる足音がした。
顔を上げると、開いたままの扉の向こうに、クオンと一緒にふたりの男が走ってくるのが見えた。
「貴様! いったい何をしたっ!」
男が、長い剣を抜いてレトに切っ先を突きつけた。確かレオルドという名の男だ。
レトは後退った。血に似た臭い。これは鉄だ。鉄の武器に傷をつけられると、竜の体は腐ってしまう。
「アガン!」
レオルドを押しのけて、クオンが部屋に飛び込んできた。アガンの体にすがりつく。
「アガン、アガン、アガン!」
横たわる男の名を連呼する。
「お前の仕業かっ!?」
ダウルドが、拳を握りしめてレトを睨んだ。
この男たちは、どうやらひどく怒っているようだ。何がかれらを怒らせているのだろう?
「吾が、何をしたというのだ?」
レトが訊ねると、ダウルドは獣のような低い唸り声を上げた。
「アガンを殺したのは、お前ではないのか?」
「殺す? アガンは死んだのか?」
「まだ死んではいない。微かに息がある。だが、これはもう助からない」
クオンが泣いていた。アガンにすがりつき、肩を振るわせている。
レトは、エーレンが死んだときのことを思い出した。二度と息をしない。二度と動かない。二度と話しかけてくれない。二度と翼で包み込んでくれない。
自分を取り囲む世界のすべてが渇いていくような。自分自身も乾いていくようなそんな気がしたものだ。人はあれを〝悲しみ〟と呼ぶのだろうか。あのような感覚を、クオンもまた抱いているのだろうか。いや、クオンの悲しみは、レトが感じたものよりも、ずっと深く濃いように見えた。
「アガンは、なぜ死ぬ?」
「お前が刺したのではないのか?」
刺す? 死ぬ?
「人は、胸を刺すと死ぬのか?」
「当たり前だっ!」
ああ、そうか――
レトはようやく納得した。アガンは嘘をついたのだ。愛を教えると偽って、レトを殺そうとした。
「アガンは、なぜ吾を殺そうとしたのだろう?」
胸に空いた穴を見せると、レオルドは怯み、ダウルドは短い悲鳴を上げて、指で宙に何かの模様を描いた。
「心臓が……ない……?」
青ざめた顔でレオルドが呟いた。
「心臓?」
レトは、自分の胸を見下ろし、続いて血まみれのアガンを見た。
なるほど、人間の心臓はここにあるのか――
アガンに抱き締められたとき感じた温かい鼓動を思い出した。あの温もりと鼓動は、不思議な安らぎを感じさせてくれる。
レトは屈んでアガンの頬に触れた。青ざめた顔はかつての温もりが失われつつあった。
「どうすれば助かる?」
人間を何人も殺した。食べるためではなく、ただ楽しむために。人を殺すことに何の躊躇もなかった。それなのに、今、ここで死にかけている男を助けたいと思った。いや、自分を騙して殺そうとした男を助けたいわけではない。この男の死を嘆く、クオンの悲しみを取り除いてやりたかった。
「もう、何をしても助からん。心臓をわずかにずれているのだろう、そのせいでまだ息があるようだが、心臓だったら即死だ」ダウルドが吐き捨てるように言った「どのみち、これだけ深い傷では治しようがない」
「傷を治せばいいのか?」
レトは、アガンの胸に刺さった短剣を抜いた。
大量に血が噴き出し、アガンの体が仰け反る。微かに残っていた息が止まった。
「アガンーーーっ!!」
クオンが叫ぶ。
レトは、てのひらをアガンの傷口に添えた。魔法の力を呼び出す。
竜だったときのような強い魔法は使えないが、このぐらいはなんとか扱える。
てのひらに小さな明かりがともる。熱のない光の珠が、ゆっくりとアガンの傷口にめりこんでゆく。光を飲み込んだ部分から、傷口がくっつき、最後にはまるで傷などなかったかのように治っていた。
「アガン……?」
クオンが呼び掛け、アガンの体を揺すった。くったりとしたアガンは何の反応も見せない。
「失礼します……」
呆然とするクオンを押しのけ、ダウルドがアガンの腹に跨った。口から息を吹き込み、胸を何度も強く押す。その作業を数回繰り返したあと、アガンは口から血の塊を吐き出した。同時に呼吸が戻ってきた。
ダウルドは、アガンの胸に耳を押し当てると、ホッと肩の力を抜いて、アガンの腹から降りた。
「アガン、アガンっ!」
すかさずクオンが呼び掛けるが、アガンは目を醒まさない。
「助かったのか?」
レトが問うと、ダウルドは渋い顔で言った。
「まだなんとも言えない。このまま目を醒まさない可能性もある。かなり血が失われているからな……いつまた心臓が止まるとも限らない」
ダウルドは、レオルドと共にアガンの体を抱え上げた。
クオンは、泣きはらした目を拭うと、レトの方を向いた。
「アガンがお前にしたことに対して、俺から謝罪する。そして、そんなアガンの仕打ちにもかかわらず傷を治してくれたことには礼を言う」クオンはレトに向かって深々と頭を下げた。「済まなかった。ありがとう」
しかし、頭を上げて再びレトを見たクオンの顔は冷たかった。レトは、なぜかエーレンを失ったときのような渇きを感じた。
運び出されるアガンのあとを追って部屋を出て行くクオンの背中には、レトに対する拒絶が感じられた。
「どうすれば、人間を愛することが出来るのだろう――?」
レトは声に出して呟いてみた。答えはどこからも返ってこなかった。