3.血
アガンは他人を信じない。
心骨を砕いて働いてくれているクォードや、恩あるトッド・アーレムですら、アガンは心の底から信頼しているわけではない。人の心は容易に揺れ動くことを知っていたからだ。長年クオンに仕え忠誠を貫いてきたダウルドといえども、愛娘たちの命を盾にされれば、裏切らないとも限らない。まして、会ったばかりのサザや、竜だと名乗る青年のことは、まったく信頼していなかった。アガンが誰かを少しでも信頼するとすれば、それは、利害が一致したときだけだ。
唯一の例外がクオンだった。
クオンだけは無条件で信頼している。クオンはアガンがこの世に生きている理由のすべてといっていい。
アガンは宰相の息子として生まれた。
ノガルドの貴族は姓を持たない。治める領地の名で呼ばれるのが慣習となっていた。公爵は王家の傍流、侯爵は代々大臣を務める名門、伯爵は各部門の長官、男爵は副官を務めるのが通例だった。アガンの父は複数の領地を持ち、エレメール侯爵、ヴィレンティン侯爵、メネウス侯爵などと呼ばれていた。
アガンは五人兄弟の末子だ。子供らの中から「最も優れた者を後継者とする」という父の信念に基づき、アガンたち兄弟は教育された。父の後継者の地位をめぐって、当然のように兄たちとの熾烈な戦いがあった。たとえ血を分けた兄弟であっても、信頼し心を許せば、蹴倒され、踏みにじられる。私生活においても隙を見せるわけにはいかない。
常に緊張を強いられる環境にあって、アガンは、王宮の裏庭で偶然出会った少年に、なぜか心安らぐものを感じた。出会った瞬間、少年の無垢な微笑みが、心に直接染み込んで来るような気がした。
少年の目は真っ直ぐだった。アガンは、これまで、これほど真っ直ぐな目で見詰められたことはなかった。少年の目には曇りがなかった。人を疑うという暗さがなかった。少年は、出会った瞬間からアガンに信頼を寄せ、慕ってくれた。そのあまりに無防備で無邪気であけすけな親愛の情に、アガンはたじろいだ。
最初、少年の純朴さをさげすんだ。やがて、穢れを知らない瞳の、澄んだ美しさに嫉妬した。そして、少年に人間の醜さや愚かさや穢さを教えようとした。世の中はお前が考えているような甘いものじゃないのだと叩き込もうとした。だが、少年はアガンがどんな仕打ちをしようとも、アガンへの信頼を変えようとしなかった。純真さを手放そうとしなかった。
やがてアガンは、この少年には決して敵わないのだと悟った。少年は愚かではなかった。人間の醜さも穢さも知っている。王宮の中にいて、ドロドロとした人間のやりとりを嫌というほど見てきていたのだ。それでもなお、人を信じ続けようとする少年の頑固さと強さ。少年は、信頼という武器で、相手の心の深奥に切り込んでくる。
自分を好きだと言って、絶対的な信頼を寄せてくれる人間をどうして裏切ることが出来ようか? アガンの魂はそこまで腐ってはいなかった。
互いに猜疑の塊となって腹の探り合いをするのが当たり前だと思っていたアガンにとって、少年のような生き方は衝撃だった。互いに相手を好きになり、信頼し合うという人間関係もあるのだと初めて知った。この少年の信頼を裏切るような人間にだけはなりたくないと思った。
少年と出会ってアガンは変わった。人間に対する見方が変化した。拒絶するだけでなく、受け入れることで得るものもあるのだと知った。
アガンは、自分の中の不思議な変化を父に告白した。それまでは父の跡取りに選ばれたいと必死になっていたが、別の生き方もあるかもしれないと思った途端、闘争に明け暮れるような暮らしに嫌気がさしたのだ。
別の生き方――
ずっと父の跡取りという地位だけを目指して競って生きてきたアガンには、それがどんなものか想像もつかなかった。未知の世界に不安もあった。しかし、それでも、あの少年にさげすまれるような、恥ずかしい生き方だけはしたくないと思ったのだ。血を分けた兄弟とすら足を引っ張り合う、そんな生き方を知ったら、あの少年は悲しむだろう。
アガンの告白に、悲しむか自分をなじるかと思った父が、なぜか微笑んだ。
「それこそが我が家系が命をかけて守ってきたものだ」
父は言った。
「お前が出会ったのは、クオン殿下だ。やがてこの国の王となる方だ。そして、お前が生涯かけてお仕えするお方だ」
父の言葉にアガンは目をみはった。
「私が、仕える?」
父は頷いた。
「私がこの世で唯一信頼し、愛し、心の底からお守り申し上げるお方は、今の国王さまだ。私の跡を継ぐ者は、同じようにクオンさまに心の底からお仕えすることが出来ねばならない。宰相の地位など関係ない。たとえ地位を失おうとも、流浪の身になろうとも、それでも王の血筋を守り抜く。それがわが家の血に科せられた宿命だ。我々はそのために生きている――アガン、お前にそれが出来るか? 喜んでその命を捧げることが出来るか?」
アガンは急に目の前が開けるような気がした。血が高鳴る。
そんな生き方こそ、今のアガンが求めていたものだった。
「私は生涯あの方に忠誠を誓い、心の底からお仕えしたいと願っています」
父の歓心を買うための策ではなかった。野心でもない。打算や計算ではなく心の底からそう思った。
父は満足そうに頷いた。
「頼んだぞ、アガン」
生まれて十四年、初めて父に頭を撫でられた。幼い子供になったようで照れくさく、それでいて、とても嬉しかった。
翌年、十五歳の誕生日を迎えると、成人を祝う宴で、父はアガンを後継者として公表した。兄たちの嫉妬、親戚のさげすみ、罵倒や批判に晒されたが、将来クオン殿下に仕えることが出来るという悦びの前には、大した障害ではなかった。
そして、今から八年前、父が死に、アガンは二十六歳の若さでノガルドの宰相となった。青年となった王子はアガンの宰相就任をことのほか喜んでくれた。クオンが喜んでくれた。それだけでアガンは幸せだった。
たとえ流浪の身になったとしても――と、父は言った。当時はまだクオンの母も健在で、何らかの予感が父にあったわけでもあるまいが、今、まさにそのような状況に陥っても、父に誓った通り、揺るがぬ自分の忠誠に、アガンは満足していた。どんな状況になろうとも、これからも、ずっとアガンは、クオンだけを信じ、クオンのために生きていく。
父は結婚し子供が出来ても、妻よりも子供らよりも王を愛していた。アガンも同じようにクオンだけを愛する。
真夜中。深い闇に閉ざされた廊下を、一本の蝋燭の明かりだけを頼りにひっそりと歩きながら、アガンは己に言い聞かす。
すべて殿下をお守りするためだ――
万全の策を固めたつもりでも、どこからどう計画が破綻しないとも限らない。危険分子は極力排除しておくに超したことはない。
アガンは二階の廊下の角を曲がり、東側の一番奥の部屋の扉を叩いた。
返事はなかったが、そっと扉を押してみる。鍵はかかっていなかった。扉をゆっくりと開く。
窓から月明かりが差し込んでいる。アガンは蝋燭を吹き消して、扉を閉めた。
「レト……」竜だと名乗る青年の名を呼ぶ。「約束通りきたぞ」
寝台の上で影が動いた。
「アガンか、待っていた」
レトの言葉に、アガンは寝台に近付いた。
月明かりに照らされたレトの姿は息を飲むほど美しかった。
「吾に愛を教えてくれ」
期待に潤む瞳。
アガンはチリっと痛む良心をあえて殺した。
レトの瑠璃色の髪を手に取る。
何の疑いも抱いていない瞳がアガンを見詰める。初めて会ったときのクオンを思い出した。人間につきものの打算や欲望が感じられない。曇りのない純粋な瞳。
この男は本当に竜なのかもしれない。そんな思いが湧いてきた。だが、信頼するには決め手がない。今は大事なときだった。時間をかけてこの男の正体を確認する余裕はない。
クオンのため。すべてはクオンをノガルドの王にするためだ――
レトの頬に手を添えた。ひんやりと冷たく、滑らかで柔らかい。
顔を近付け、唇を奪う。
アガンは、自分の美しさを充分心得ている。
女性的な線の細さと美しさは、母から受け継いだ。各大陸からやってきた雑多な人種が入り交じるノガルドに最も古くから住んでいるといわれる少数民族アーヤネルビオは、〝天人〟と呼ばれ、男女ともに美貌を誇っていた。母はその部族の最後の生き残りだった。
兄弟の中でアガンだけが母の形質を強く受け継いだ。幼いころはこの美しさゆえに馬鹿にされた。アガン自身も、男にとって美など必要のないものだと思っている。だが、武器として利用できる場合は、躊躇なく使う。男も女も、美の誘惑にはたわいもなく屈する。そんな姿をこれまで何度も見てきた。人間は、快楽に対して正直で愚かだ。
舌を絡め、背中を愛撫すれば、レトは力を抜いて体を預けてきた。
そのまま寝台に押し倒す。
アガンは隠し持っていた短剣をそっと引き抜いた。邪を封じ、魔物を殺すといわれている銀製の短剣だ。
「これが、人間の愛だ――」
銀の短剣を、レトの左胸に深々と突き刺す。
自分の顔に陰惨な笑みが浮かんでいるのに気付いていた。
クオンに愛を乞う男――その男の胸に刃を突き刺しながら、アガンは暗い悦びを感じてていた。
嫉妬だったのか――?
ふと、そう思った。クオンに対して真っ直ぐに愛を求めることが出来るこの男に嫉妬していたのかもしれない。この男の出現で、ずっと秘めてきた想いをかき乱されたことは確かだった。
だが、もうそんなことはどうでもいい。これで、今後の計画への不安材料がひとつ取り除かれた。そのことが何よりも大事だった。
「これが、人間の愛し方なのか……?」
レトの声がした。アガンは思わず目をみはる。
瑠璃色の瞳が、真っ直ぐにアガンを見詰めていた。爬虫類のような冷えた目。
手元を見た。確かに心臓目掛けて短剣を突き刺したはずだったのだが――?
短剣はあった。
レトの左胸に深々と刺さっている。しかし、一滴の血も出ていない。
「お前は、いったい何ものだ……?」
アガンは、レトから離れ、後退った。
レトは、自分の胸から短剣を引き抜いた。ぽっかりと空いた穴が見える。
「こうすれば、愛したことになるのだな?」
レトが言い、抜いた刃をアガンの左胸に突き刺した。
アガンはよろめく。
死ぬわけにはいかない。
このまま死ぬわけには――
胸から血があふれる。咳き込み、口からも血が吹き出た。
よろける体をなんとか支え、扉の方へ向かった。
棚にぶつかり、椅子にぶつかり、それらをひっくり返す。
倒れそうになる体をなんとか保って、扉にすがりついた。取っ手に手をかけ、引っ張る。扉は開いたが、勢いで体が崩れ、仰向けに倒れた。
もう、起き上がる力はない。
クオン――!
叫んだつもりだったが、声になったのかどうかわからない。目の前が暗くなり、意識が、途絶えた。